カレントアウェアネス-E
No.443 2022.09.15
E2537
欧州における文化遺産3Dの動向:欧州委員会の報告書をもとに
ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター・小川潤(おがわじゅん)
2022年4月,欧州委員会は『有形文化遺産3Dデジタル化における質に関する研究』(Study on Quality in 3D Digitisation of Tangible Cultural Heritage: Mapping Parameters, Formats, Standards, Benchmarks, Methodologies, and Guidelines,以下「報告書」)と題する報告書を公開した。この報告書は,キプロス技術大学・デジタル遺産研究所(Digital Heritage Research Lab, Cyprus University of Technology)を中心に進められた研究プロジェクトの最終報告書であり,多様な観点と膨大な調査に基づく研究である。
研究の背景には近年,欧州連合(EU)が推進する文化遺産の大規模デジタル化計画があるだろう。2019年には「文化遺産のデジタル化推進のための協働に関する宣言」が発布され,2021年には「文化遺産のための欧州共同データ空間(common European data space for cultural heritage)」の構築を奨励する文書が欧州委員会から公開されている。こうした文化遺産デジタル化の動きの中で3D化は非常に重要な位置を占めており,必然的にその手法や質への関心も高まることになる。このような文脈を踏まえるならば,報告書が文化遺産3Dデジタル化におけるこれまでの試みの総括と,将来への展望を示す重要な研究であることは明らかであり,今後の欧州における文化遺産デジタル化の一つのベンチマークともなりうるものである。
報告書は全6章からなる。1章が序論,6章が結論となっており,他4章が具体的な問題を論じる本論部分である。2章ではまず,有形文化遺産3Dデジタル化に用いられる技術やシステム,手法が検討される。ここでは,デジタル化の計画段階からドキュメンテーション,具体的な撮影手法や撮影条件までもが詳細に論じられており,文化遺産3Dデジタル化の全体像を掴むことができる。
つづく3章は,文化遺産デジタル化にまつわる「複雑性」と「質」の問題を中心的に扱う章であり,分量的にも内容的にも報告書の核心と言える。章の前半は,3Dデジタル化に携わる専門家へのアンケート調査とインタビューに基づく記述となっており,後半はそうした調査やインタビューの結果を踏まえた分析的な記述となっている。
4章は3Dデジタル化に関する標準規格およびデータ形式を扱う。前半では3D(および2D)モデルデータそのものを保存するためのデータ形式が列挙され,後半では,メタデータやパラデータまでを含む3Dデジタル化プロセスそのものをドキュメントするための標準規格策定の重要性と最新の動向が分析されるとともに,そうした規格に基づく教育の必要性にまで議論が及ぶ。
そして5章は,人工知能(AI)やクロスリアリティ(XR),メタバースといった発展著しい技術領域を取り上げつつ,3Dデジタル文化遺産の将来的な展望について触れる章となっている。
上述の通り,報告書は文化遺産の3Dデジタル化について広範な論点を扱うと同時に,既存の研究やプロジェクトの分析,さらには数多くのステークホルダーへのアンケートやインタビューに至るまで,極めて網羅的な調査に基づく研究である。とくに,専門家へのインタビューでは選択式アンケートの結果のみならず,「あなたにとって『複雑性』とは何を意味するか」という質問に対する記述式の回答を数多く掲載しており,3Dデジタル化の「現場の声」を知るうえで非常に意義深い。さらに,報告書は単なるサーベイ論文の枠内に収まるものではなく,文化遺産の3Dデジタル化実践に関わる重要な理論的貢献も果たしているように思う。例えば3章後半において提起される「複雑性の階層図」は,機材やステークホルダーの要望,対象物,プロジェクトチームといった複数の観点から「複雑性」を左右する要因を整理したものであり,3Dデジタル化プロセスにおける「複雑性」の明示化,「質」の評価に際しての基礎となりうる。
報告書は全体として,「質」を論じる前提となる「複雑性」の問題やそのドキュメンテーションのあり方を中心的な課題としているように思われる。どのような環境で,どのような条件のもと,どのような機材・ソフトで,どのような資料に基づいて,誰によって作成されたのか。これらの情報を明示・検証可能な環境を構築することが3Dデジタル化の「質」の確保・評価につながる。こうした考えは,“3D Scholarly Editions”や“Virtual Interiors”,“SCOTCH Ontology”といった,3Dに関わる近年の重要な諸研究においても強調される点である。また,コンピュータを用いた文化財可視化の原則を定めるロンドン憲章においてもドキュメンテーションの重要性は指摘されている。とはいえロンドン憲章においては,ドキュメンテーションの具体的な方法論は何ら示されていない。報告書は,そのように曖昧に留まりがちであったドキュメンテーションと「質」に関する問題を正面から具体的に論じる試みであるという点で,今後の3Dデジタル化実践にとって極めて重要な指針となりうる。
Ref:
“Study on quality in 3D digitisation of tangible cultural heritage”. European Commission. 2022-04-25.
https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/library/study-quality-3d-digitisation-tangible-cultural-heritage
European Commission, Directorate-General for Communications Networks, Content and Technology. Study on Quality in 3D Digitisation of Tangible Cultural Heritage: Mapping Parameters, Formats, Standards, Benchmarks, Methodologies, and Guidelines: Final Study Report. Publications Office of the European Union, 2022, 6, 90p.
https://data.europa.eu/doi/10.2759/471776
“Declaration; Cooperation on advancing digitisation of cultural heritage”. Digital Day 2019. Brussels.
https://ec.europa.eu/newsroom/repository/document/2019-15/scanned_signed_declaration_090419_A4EA8EC1-E348-62E7-2257B0139A47C785_58564.pdf
“Commission proposes a common European data space for cultural heritage”. European Commission. 2022-06-29.
https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/news/commission-proposes-common-european-data-space-cultural-heritage
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https://doi.org/10.11501/12199170
※本著作(E2537)はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 パブリック・ライセンスの下に提供されています。ライセンスの内容を知りたい方はhttps://creativecommons.org/licenses/by/4.0/legalcode.jaでご確認ください。