CA1453 – 資料保存における残された課題―紛失問題を通して考える― / 小林昌樹

カレントアウェアネス
No.269 2002.01.20

 

Trend Review (4)
CA1453

資料保存における残された課題―紛失問題を通して考える―

はじめに

資料保存についてマスコミなどで社会的に広く論議されるようになったのは,酸性紙問題を提起する小冊子,かなやひろたか編訳『本を残す』の刊行(1982年)がきっかけである。1980年代から90年代にかけて出版用紙は酸性紙から中性紙へ切替えられるようになり,近年では民間出版物の8割に達したという。このように一応の目標が達成されたためか,酸性紙対策はマスコミなどで大きく取り上げられることはなくなった。しかし,だからといって図書館界でも議論が低調でよいということはない。専門的論議を積み重ね,確固とした「資料保存論」を構築していくことが必要なのではないだろうか。

資料保存については,詳細な文献展望(1)があり,酸性紙対策,メディア変換,災害対策について,1993年から現在までの文献を参照することができる。また,1995年に編まれた論文集(2)は,酸性紙問題を中心とする国内論調を把握するのに必須の文献である。

しかし,これらの文献で十分に取り上げられていない問題もある。明治の初めから,図書館という制度が実態として保存機能を果たしてきたことは疑いないし,先人たちが保存機能についてまったく無理解だったわけでもない。「資料保存(preservation)」という広い枠組みを設定するのであれば,1982年より前から論じられていた問題を無視するわけにはいかず,まだ課題として残されているものは多い。

本稿では,それらのなかから資料の紛失について取り上げ,やや長期的な視点から考察する。そのうえで,紛失問題が見過ごされている原因ともなっている現在の資料保存論の弱点について言及する。

資料の紛失問題


(1)言説の奇妙さ―マスコミが騒ぎ,館界は沈黙
資料の保存と聞いて一般の人がまっさきに思いつくのは,「資料が書架上にきちんと存在する(つまり,なくなっていない)こと」であろう。すなわち書庫管理であり,紛失対策である。酸性紙についての化学的考察などは,その次の段階の問題である。しかし,不思議なことに,図書館関係の専門誌では,紛失について取り上げられることはほとんどない。

では紛失は,もともと検討するまでもないことなのだろうか。確かに,ここ30年ほど図書館界の専門誌で正面から扱われることは,ごく少数の例外を除いてなかった。けれども逆に,社会一般,例えば新聞などにおいては,1990年代になってから,むしろ大きく扱われるようになってきている。

例えば,1991年に新館が完成し10万冊の開架を開始した早稲田大学図書館で,不正持ち出しをしようとする学生が連日あり困っているという記事(3)があった。BDS(book detection system:図書探知機)が設置されていたため判明したが,なかには悪質な例もあり,貸出停止などのペナルティを課したという。

もうひとつ,町田市立中央図書館の例を挙げよう。同館は1990年に開館した44万冊(当時)の大型館だが,開館から5年間に6万7000冊,1日あたり約35冊が紛失しているというものであった(4)。その後もこの件は地方面でフォローされ,責任者の引責(教育長が一ヶ月の減給処分)や,分館の紛失状況,BDSの導入について報じられた。記事が出る前,図書館がマナー向上を訴えた館報には反応がなかったのに,新聞記事に対してはすさまじいものがあったという。そのほとんどが,なぜここまで放置していたのか,というものであった。

町田市の例は社会から広く注目され,現在でも類似の新聞記事が絶えない。図書館界でも話題になったはずであるが,なぜか文献的に跡づけることがほどんどできない。わずかに日本図書館協会の評議員会での質疑の記録(5)と,新聞記事から1年後に出た雑誌の特集(6)だけである。評議員会では,この件への各館と協会の対応について出席者から質問が出たが,事務局の回答は各館で議論してほしいというものでしかなかった。雑誌特集の方は,紛失そのものについてではなく,防止手段であるBDSの特集であったが,BDSについてもまとまった文献は業者広報誌の特集(7)が組まれて以来,実に20年ぶりである。会社によって何種類かのBDSがあるのに,性能や価格を相互比較したような文献もほとんどないのは不思議である。

このように,新聞で騒がれながらも専門誌が沈黙している奇妙さはどのように説明すればよいのだろうか。

(2)これまでの枠組み―「消耗品扱い」と免責条項
全国紙の一面などで大々的に報じられ,行政当局への影響も懸念されるにもかかわらず,館界で紛失についての議論がないのは,「問題ではない」からではなく,図書館情報学上どこに位置づけて検討してよいか不明になっているからではないだろうか。

最近でこそ図書館関係誌では正面から取り上げられない紛失だが,1950年代には,閉架から開架への移行との関連でしばしば論じられる主題であった。開架には紛失が避けられず,紛失問題が解決されなければ開架は実施できない(8)はずなのだが,現在,開架が普及している一方紛失は社会から問題とされている。ということは,紛失問題を解く鍵は開架導入時の論理構成にあると思われる。

1950年代当時,館界には開架を進めるための方策が二つ並存していた(9)。ひとつは,資料の「消耗品扱い」である。これは資料購入の費目(自治体の歳出予算における「節」)を備品購入費から需用費(消耗品費などが含まれる)へ変更するというものである。除籍に伴う物品会計事務の軽減が当初の目的であった。もうひとつは,免責条項の制定である。自治体財務の関連法規として資料管理規則(図書保管規則など名称は一定しない)を制定し,そこに開架資料紛失の免責条項を明記するものであり,こちらは,個々の開架図書が紛失しても図書館員が賠償責任を免れるようにするのが目的であった。

「消耗品扱い」はその後普及したといわれており,館界でも広く知られている。この措置によってあたかも紛失が不問に付されているかのようであるが,それは錯覚に過ぎないし本来の目的とも異なる。消耗品といえども紛失すれば監査で問題となることは当初から指摘されており,現在も,まさにこの点で問題とされているのである。

免責条項については,それについての知識が館界になくなっているように思われる。市町村立図書館の保存機能を否定し,開架を提唱した「中小レポート」(1963)では,紛失は貸出の5%まで免責されるべきと唱えられ,免責条項を盛り込んだ財務関連規則の必要性が明らかにされていたが,それを継承した『市民の図書館』(1970)では規則案のみが掲げられ,その意義については詳述されなかった。この後,免責条項についての議論はなくなってしまう。条項の法的効力そのものについても,1950年代にすでに疑問が出されていた(10)のであるから,本当はさらなる論議が必要であった。実際,町田市その他の例で図書館側が免責条項を持ち出した形跡がないのは,その本来の意義が知られていないか,その効力がもともと限られているか,どちらかのせいであろう。

一方で多くの図書館で確実に紛失が続いていることが,国内では極めて珍しい紛失に関する調査(11)によってしばらく前に明らかとなっているが,現在も実情はあまり変わらないであろう。紛失が続いており,消耗品扱いも免責条項も問題の本質的解決をもたらしていなかったとすれば,なぜ近年になって問題化したのだろうか。

(3)解決に向けて―リスク管理論の導入と免責条項の再検討
巨視的にみると,開架の普及と平行して高度成長からバブルまで(1955-1991年),日本経済全体のパイが膨みつづけたという僥倖がある(12)。開架先進国の米国でも,1964年には実用化されていたBDSが実際に普及したのは経済不況の70年代だった。当時の論者は,不況下で高価なBDSが普及したことに驚いている。このことは,紛失に対する社会の目は経済状況によって変わる(好況時には甘く,不況時には厳しくなる)ことを示している。

政治状況によっても変わる。民主主義の古典的要素に租税議会主義があるが,これは近年,財政民主主義に発展し,今や,政府の収入だけではなく支出に対しても,代表だけでなく国民の一人ひとりがチェックできる時代になってきた。行政改革も影響する。英国で紛失が問題にされ始めたのは行政改革の80年代であり,1989年には英国図書館(BL)の全国保存センターが紛失問題に取組み始めている(CA698参照)。

不況と改革というのは,まさに90年代以降の日本に当てはまる。資料の紛失が時代の僥倖のために大目にみられていたという可能性は否定できない。その間に図書館界はこの問題への対処法を忘れてしまったといえる。だとすれば,これから図書館関係者がすべきことは,1950年代まで立ち返って紛失問題の経営論的,行政法学的な再検討をすることであろう。

経営論的には,内部管理と外部関係の二つの側面がある。内部的には紛失の存在を組織として認め,予算,経営方針,コレクションの目的などによって紛失率をコントロールする発想が求められる。紛失本を即座に買い足すための予算措置なども考えられてよいし,BDSも一般コレクション用であれば,金銭的損得から設置を判断することができる。これについてはリスク管理論(13)を応用するべきだろう。紛失を開架とセットのものとして容認した「中小レポート」の見解は,リスク管理論における「投機的危険」というコンセプトそのものであり,それを先取りしていたとさえいえるのだから。外部関係としては,内部管理的な意思決定を市民にどれだけ理解してもらえるかというパブリックリレーションズ(PR)の問題となる。ただし,これは十分に洗練され,説明可能な内部管理が前提である。

行政法学的には,図書館を管理するシステムのなかで,紛失の責任をどうとるか(あるいは,とらないですむか)について再検討することが必要である。内部管理的措置を館界の自主的基準に位置づけただけでは,行政当局や監査部門を納得させることはできず,結局,免責条項に話は戻らざるをえない。その本来の意義や法的有効性について再検討しなければならないが,この問題は,物品会計(14)という英米と異なる特殊な官庁会計制度のなかで論ずることになろう。

資料保存論全体の弱点

先の文献展望でも紛失が項目立てられていないように,現在の保存論は図書館の保存機能全般に目配りできているとはいいがたい。目録カードの記入という一見単純な実務が書誌コントロール論になったごとく,資料保存論も体系化は可能であり,必要なのではないだろうか。ここでは,体系化の障害となりそうな保存論全体に関わる弱点について指摘したい。

(1) 総論が手薄
資料保存論が要素技術の単なる羅列に終わってしまっては,60年代の米国における「図書館の防護」研究(T17参照)の二の舞である。それを避けるには,防護研究の報告書で予告されながらもついに書かれなかった一章「防護の哲学」,つまり全体論たる「保存総論」を書いていくことが必須となろう。十分に練られた総論が成立すれば,各論を統合し,取りこぼしを避けることができるだろう。

総論にあたる文献はごく少なく,今でも酸性紙問題の初期に書かれた論考(16)が代表的なものである。そこでは,米国の主題書誌の目次を紹介することで,総論,製本,酸性紙,保管環境,災害(ヴァンダリズムなど人災含む),取扱い,関連領域として図書館のセキュリティなど,資料保存論の範囲が示されており,さらに国内について,館種別の議論,中小レポートの批判的紹介,専門家教育などが(簡略ではあるが)広く展望されている。

現在でも総論として読むことができるものとして,やや変わったところでは,複写による物理的破損を主題とした文献(17)がある。破損が主たる主題でありながら,注記部分で館の設置主旨,経営方針,人事,会計法規,媒体変換,紛失など,より広い文脈に言及しているため,結果として保存全体の論点を出しつくした形になっている。酸性紙問題に先行する文献にこのようなものがあるということは,保存論における流行にかかわらず「保存総論」の必要性,可能性があることを示唆している。

(2) 工学的アプローチへの偏り
酸性紙問題が化学的な主題であったためか,保存をめぐる文献のほとんどが,紙工学や製本術など個別技術の工学的記述か,それら技術の商品化された断片の紹介である。媒体の安定性を例にすれば,物理的,化学的安定性について述べたものはあっても,市場における安定性(読取り機も含め,長期にわたって調達できるか)を考察するといった観点は希薄であるし,調達可能な各種サービスや物品を購入者の立場から比較検討するような記事もない。技術的,工学的解決の目途が立ったとしても,図書館員が保存実務をよりよく遂行していくには,業者や価格についての紹介,比較記事や調達の事例報告が必要である。

(3)経営管理的観点が希薄
(2)の裏返しでもあるが,個々の保存実務を図書館経営と結びつけて考える観点も希薄である。酸性紙対策が個人の運動から始まったためだろうか,現場で個々の保存技術を採用する際に指針となるはずの設置母体の利害,経営目標などと資料保存との関連を論じたような文献も,少数の例外(15)を除いて見あたらない。全国政策や要素技術と異なり,経営レベルの課題は,法体系や制度の違いにより英米モデルを模範にできないからこそ日本独自の議論が必要なのだが。

おわりに―さらなる課題


本稿では詳述できないが,資料保存にはまだ課題が山積しているように思われる。それらを紹介して結びとしたい。

[1]災害対策−建築学から危機管理論へ 図書館防災については,火災や震災などを中心に,国内では比較的研究も実践も進んでいる分野であり,主に建築学的なアプローチがなされている。しかし,米国図書館界で80年代に注目されたように火災の原因が失火から放火へと変わりつつあるならば,危機管理論的なアプローチも必要となるであろう。

[2]コレクション構築論との連携 コレクション構築論との関連も重要である。市町村立図書館において保存機能というのは,書店より相対的に長く書架に本をとどめておくことであり,保存の実務といえば,本を選択的に除籍することとなる。つまり「捨てる」ことと保存はコインの表裏の関係であるのだが,このような認識はまだ一部(18)にしかないのではないか。また,ネットワーク系電子出版の場合には,紙メディアのように漫然と収集保管して後世の価値判断を待つという旧来の手法がとれない。保存と収集が直結するため,電子資料の保存は技術論ではなく,価値論という極めて思想的な問題となってくる。

[3]分担保存(共同保管) 英米の事例が1950年代から紹介されながら,日本では一向に普及しないのも不可解である。普及しない本当の理由について検討が望まれる。実務的には制度の問題(19)が,学理上は「図書館協力」という外来思想の日本的誤解(「ギブアンドテイク」と給付行政の混同)があると思われる。

[4]ハンドリング 資料のハンドリング(物理的取扱い)も論じられ始めたばかりである。紛失と同様に一般社会では道徳問題として扱われることがある(20)が,専門的には別のアプローチが必要である。館の設置主旨や経営方針,コレクションの目的などの視点から答えを出していくべきであろう(CA1405参照)。

[5]教育 近年,整理業務さえ外注化が進むなかで,保管を主たる任務とする正職員は少なくなるに違いない。たまたま保管を担当した正職員のうち心ある者が,資料保存の実践や議論に参入してくるという今までの状況すら期待できなくなってくる。「ジェネラリスト図書館員」が随時参照できるような知識体系が,教科書などの形で成立している必要がある。
資料保存論は,まだ形成途上なのである。

小林 昌樹(こばやしまさき)

(1) 竹内秀樹 資料保存 図書館界 53(3) 345-354,2001
(2) 安江明夫ほか編 図書館と資料保存 雄松堂1995.453p
(3) 読売新聞 1991.10.9 (夕刊)
(4) 朝日新聞 1996.5.13 (一面)
(5) 図書館雑誌 90(8) 617-618,1996
いま気になるアルファベットCD-ROM/BDS みんなの図書館 (238) 1-54,1997.この特集自体,企画段階で立ち消えになりかけたという。
(7) 特集:ブックディテクション・システム 丸善ライブラリーニュース (111) 1125-1130,1978
(8) 沓掛伊左吉 開架小史 全国公共図書館研究集会報告1953 日本図書館協会 1954. p.53-59. 日本の公共図書館における最初の開架は,山口県立図書館で佐野友三郎が1907年に始めたものだという。沓掛は,推進論者だった佐野が1910年には開架を取りやめてしまい,以後それに言及すらしなくなったのには「何等かの原因がなければならない」と疑問を呈している。紛失とそれに伴う責任問題が原因だったのではないか。
(9) 特集:開架図書の消耗品扱いについて 図書館雑誌 49(10) 1-19,1955
(10)守屋壮平 図書の消耗品扱いにことよせて:その法的解釈について 文献(9) 16-19,
(11) 伊藤昭治ほか 公立図書館における図書の紛失に関する研究 図書館界 39(3) 109-118,1987. 保存機能を受け持つ大規模館の方が,除籍を紛失以外の名目で行っているという調査結果は皮肉である。
(12) 川添猛 新しい図書館・古い図書館:小田原市立図書館の立場から 調査季報 (88)17-22,1986. 経済成長と「中小レポート」路線を関連づける論考として初期のものである。
(13) 小林昌樹 アメリカの図書館における危険管理の発展 図書館経営論の視座 日外アソシエーツ 1994.p.78-105
(14) 小林昌樹 物品管理 図書館情報学ハンドブック第2版 丸善 1999.p.772-779
(15) 木部徹 利用のために保存する:公共図書館と資料保存 文献(2) p.160-173
(16) 上田修一 資料保存の必要性とその対策 図書館資料の保存とその対策 日外アソシエーツ 1985.p.6-27
(17) 池本幸雄ほか 図書館「破壊」学入門 図書館研究シリーズ (22) 65-132,1981
(18) 三浦逸雄ほか コレクションの形成と管理 雄山閣 1993.271p
(19)制度上の問題を立法により解決する試みとして「図書館事業基本法要綱(案)」(1981)には「共同保管図書館」があった。資料・「図基法」のすべて 季刊としょかん批評 (1)155-178,1982
(20) 諸橋孝一 図書館で考える道徳:書き込み被害をめぐって 鳥影社 2001.322p