カレントアウェアネス-E
No.504 2025.07.03
E2804
アートと健康をテーマにした実践ガイドブック『文化的処方のはじめの一歩』を公開
独立行政法人国立美術館国立アートリサーチセンター・稲庭彩和子(いなにわさわこ)
独立行政法人国立美術館国立アートリサーチセンターと東京藝術大学は、ガイドブック『文化的処方のはじめの一歩』を、2025年3月に公開した。ウェブマガジン「ああともTODAY」で公開され、無料でダウンロードすることができる。
このガイドブックは東京藝術大学を拠点に、大学、国立美術館など文化施設、地方自治体、民間企業など産官学の41組織が連携する「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」の研究事業の一環として制作され、日本で初めて「文化的処方」についてまとめて述べられた発行物となる。
「文化的処方」とは、アートや文化活動を介し健康に寄与する取り組みだ。健康維持のための生活習慣の柱は、食事、睡眠、運動といわれるが、近年ではそれら3つに加えて「社会的つながり」を維持することが、健やかに生きる上で重要であることが数多くの研究で明らかにされてきた。その「社会的つながり」の維持において助けとなるのが、アートや文化活動だ。アートや文化活動には、人と社会のつながりを促す効果があり、ストレスを軽減し、慢性疾患などにも良い効果をもたらすという科学的エビデンスが蓄積されてきている。
このことは逆に言えば、アートや文化活動にアクセスしにくい環境は、健康を支える環境に格差を生じさせている可能性を示す。この「文化的処方」の研究事業では、アートや文化活動へつながる社会の仕組みをつくることは、その人の健康を取り巻く環境を整えることにつながると考え、その方法の開発や実践に取り組んでいる。
こうした健康における社会的格差に対して、美術館や博物館等の文化施設が拠点となりアートや文化活動を通して改善しようとする試みは、欧米をはじめ、近年ではアジア各国でも関心が高まってきており研究や実践が広がりつつある。
ガイドブックでは「文化的処方」の定義や意義をわかりやすく解説したうえで、国内の美術館・病院・市民団体・大学・商店という多様な場での5つのケーススタディを紹介している。それぞれの場所で、アートや文化活動がケアにどのようにつながっているのか、誰がどのように活動をしているのか知ることができる。
例えば1つ目のケーススタディは「感覚の共有から広がる、アートと医療の輪」と題し、コロナ禍の2021年に東京都美術館がスタートさせたシニア対象の「Creative Ageing ずっとび」のプログラム「アート・コミュニケータと一緒に楽しむ おうちでゴッホ展」である。認知症のある人とその家族を対象に、オンライン上でアート・コミュニケータがファシリテータ役となって、ゴッホやルノワールの絵画を鑑賞し、参加者同士がコミュニケーションを深めるプログラムだ。
ケーススタディでとりあげた5つの事例以外にも、まちなかのカフェや、図書館、美術館、博物館、劇場などの文化的拠点で行われるプログラムは増えている。ガイドブックには、さらに「文化的処方」を始めるための手引きも掲載している。「学ぶ」「つながる」「調べる」の3項目で、活動に関心がある人に対してステップやリサーチのヒントを紹介し、生活の中での実践方法をわかりやすく解説している。
文化的処方の特徴は、単に人や社会とのつながりだけでなく、自分の内面とのつながりも育むことができる点にある。「社会的つながり」というと、他者とのつながりばかりが意識されがちであるが、実は他者とのつながりをつくる土台となるのは、自己とのつながりだ。そうした自己と他者との営みによって古来よりアートが生みだされ、それぞれのコミュニティの物語を語り合い、多様な記憶や思いを共有しながらコミュニティを進化させてきた。私たち人類が生存する上で、そうした創造的活動、創造的共有がいかに社会の安寧やウェルビーイングに役に立ってきたのかに思いを馳せてみると「文化的処方」の社会の中での効果や作用も想像できるかもしれない。
Ref: “ガイドブック『文化的処方のはじめの一歩』”. ああとも TODAY. 2025-03-17. https://aatomo.jp/guidebook Creative Ageing ずっとび. https://www.zuttobi.com/
※本著作(E2804)はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 パブリック・ライセンスの下に提供されています。ライセンスの内容を知りたい方は https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/legalcode.ja でご確認ください。