CA1700 – 「偽学術雑誌」が科学コミュニケーションにもたらす問題 / 藤垣裕子

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カレントアウェアネス
No.302 2009年12月20日

 

CA1700

 

「偽学術雑誌」が科学コミュニケーションにもたらす問題

 

 科学関係の大手出版社であるElsevier社発行のThe Australasian Journal of Bone and Joint Medicineはじめ6誌が、2000年から2005年の間に他の雑誌からの転載論文を掲載し、かつ、その転載論文が医薬品メーカーであるメルク社から資金を受けて研究された論文であったにもかかわらずそのことを公表していなかった、という事実が2009年4月から5月にかけて発覚した(1)(2)。これに対しElsevier社は、十分な情報開示をせずにふつうの雑誌論文のようにみえるような出版をおこなったことを謝罪し、今後情報開示のルールを徹底することを明言した(3)。この事件はとくにThe Scientists誌のウェブ版で多くの議論を呼んでいる。問題は、この雑誌が、ピアレビューされた論文のようにみせかけてそれら転載論文を載せていたこと、および論文のスポンサーをきちんと公開しなかった点である。このスキャンダルを、出版社の倫理の問題として論じることは簡単である。しかし、本稿では、この事件の提起する問題が学術コミュニケーションに対してもつ意味、また学術コミュニケーションと社会の関係など、科学コミュニケーションの側面から考えてみたい。なおここで、学術コミュニケーションとは、学者の共同体のなかに閉じられたコミュニケーションを指し、科学コミュニケーションとは、学者の共同体の境界をこえて、広く社会とのコミュニケーションをふくんだものを指す。

 まず学術コミュニケーションに対してもつ意味について考えてみる。本事実は、メルク社に対する訴訟(メルク社製の薬Vioxx服用中に心臓麻痺で死亡した患者に関する訴訟)のプロセスで明らかになった。そこで、世界医学雑誌編集者協会(World Association of Medical Editors)のメンバーであるイェリネク(George Jelinek)氏は、「かの出版物は、メルク社によって資金供与され、かつメルク社の製品に対しポジティブな結果を導く論文のみが掲載されているにもかかわらず、ピアレビューされた論文のように誤解されやすい状況だった」と証言した(4)。つまり、情報を受け取る医師の側から言えば、医師らは、医薬品の使用を促進するようにデザインされた出版物を、まるでピアレビューされた論文誌かのようにElsevier社から受け取っていたことになるのである。これは、ピアレビューによって維持されている真面目な医学雑誌群に対する侮辱であると同時に、学術コミュニケーションにおいてピアレビューがもっている認知的権威(学者集団のなかである見解や考え方が幅広く用いられ、権威をもったものとして考えられていることを指す)を汚す行為である。問題の雑誌群には、編集委員会のもとで書かれたという誤解を与えるような表現があったことから、ピアレビューされた論文が一つの認知的権威であることを逆手に利用していたことが示唆される。学術コミュニケーションにおいて形成されていた信頼や認知的権威を脅かすことになる行為といえよう。

 次に、学術コミュニケーションと社会の関係、ひいては科学と社会のコミュケーションの問題として捉えてみよう。学術コミュニケーションのみならず、一般社会においても、「ピアレビューのある雑誌に載った論文は妥当性の保証がされている」という前提が共有されている。ピアレビューされた論文は、社会においても1つの認知的権威なのである。この事件は、この前提および社会からの信頼や認知的権威に対してどのような意味をもつのだろうか。

 学術コミュニケーションと社会の関係を考える際、本事件と韓国のファン(黄禹錫)らによる捏造事件(CA1582参照)とを比較してみると、興味深いことが明らかになる。2005年のScience誌上に載せた2本の論文がファンによる捏造であることが発覚した際、ピアレビューの果たす役割についての議論が多くまきおこった。Nature誌のエディトリアルは、ピアレビュー(査読)システムは論文に書かれていることは事実であるという前提のもとに作動しており、不正を検知するためにデザインされているわけではない、と明言している(5)。それに対し、NYタイムズ紙は、科学ジャーナルが虚偽の報告をふるいわけするゲートキーピング機能をもつことを期待する(6)。このように、雑誌の内側(編集委員会)の考えるピアレビューの実態と、外側(刊行された雑誌論文を外からながめる一般のひとびと)によるピアレビューの受け取り方との間には、大きなギャップがあることが示唆された。それに対し、今回の事件は、ひとびとのピアレビューへの信頼、研究者のピアレビューへの信頼を逆手に利用していたという点は悪質ではあるが、ファンの事件のときのように、ピアレビューのゲートキーピング機能への疑いの目、あるいはピアレビュー自体への根本的見直し、といった議論まではいっていない。出版社が守るべきこと(ピアレビューしていない論文をピアレビューしたかのように装ってはいけない、スポンサーがついていることは公開しなくてはならない)を守っていなかったことが指摘され、一連の議論はそのような出版社の行為を社会的に罰することによって、実はピアレビューの認知的権威を守ろうとしているように観察される。その意味で、つまり出版社レベルの話で終えられる、という意味ではファンらのケースよりは学術コミュニケーションに対して社会のもつ信頼へのダメージは軽症といえるかもしれない。

 これらの事件の提起する問題を、倫理の問題として論じることは簡単である。たとえば、ファンのケースは、投稿者の倫理の問題であり、今回の事件は、出版社の倫理の問題である。しかし、科学コミュニケーションの問題として捉えると、より根源的な問いが喚起される。ピアレビューによって生まれている認知的権威を、ほんとうに不問のまま信頼してよいのだろうか。雑誌の内側の考えるピアレビューの実態と、外側によるピアレビューの受け取り方との間にあるギャップをこのまま放っておいてよいのだろうか、そもそも何故ピアレビューされた雑誌論文に認知的権威が生まれているのだろうか、などの問いである。Elsevier社の倫理の問題として片付けるだけでなく、彼らを非難することによって守られている科学コミュニケーション上のシステムとは何なのか、という問いが喚起される。

東京大学:藤垣裕子(ふじがき ゆうこ)

 

(1) “Elsevier published 6 fake journals”. The Scientist. 2009-05-07.
http://www.the-scientist.com/blog/display/55679/, (accessed 2009-10-15).

(2) “Elsevier admits journal error”. FT.com. 2009-05-06.
http://www.ft.com/cms/s/0/c4a698ce-39d7-11de-b82d-00144feabdc0.html, (accessed 2009-10-15).

(3) “Statement From Michael Hansen, CEO Of Elsevier’s Health Sciences Division. Regarding Australia Based Sponsored Journal Practices Between 2000 And 2005”. Elsevier. 2009-05-07.
http://www.elsevier.com/wps/find/authored_newsitem.cws_home/companynews05_01203, (accessed 2009-10-15).

(4) Hutson, Stu. Publication of fake journals raises ethical questions. Nature medicine. 2009, 15(6), p. 598.

(5) Three cheers for peers. Nature. 2006, 439(7073), p. 118.
http://www.nature.com/nature/journal/v439/n7073/full/439118a.html, (accessed 2009-10-15).

(6) Wade, Nicholas et al. Researcher Faked Evidence of Human Cloning, Koreans Report. The New York Times. 2006-01-10, A1.

 


藤垣裕子. 「偽学術雑誌」が科学コミュニケーションにもたらす問題. カレントアウェアネス. 2009, (302), CA1700, p. 7-8.
http://current.ndl.go.jp/ca1700