CA1582 – ES細胞論文捏造事件に見る電子ジャーナルの効用と課題 / 村上浩介

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カレントアウェアネス
No.287 2006.03.20

 

CA1582
 

ES細胞論文捏造事件に見る電子ジャーナルの効用と課題

 

1. はじめに

 2005年末から2006年にかけて,韓国社会と科学界は大激震に見舞われた。ヒトES細胞(Embryonic stem cell: 胚性幹細胞)研究の第一人者,ファン・ウソク(黄禹錫)ソウル大学獣医学部教授の論文が,まったくの捏造であったことが判明したのである。このスキャンダルは連日のように,韓国だけでなく日本も含む世界各国のメディアで報じられた。

 学術論文の捏造事件は,残念ながら,古今東西にわたり枚挙に暇がない(1)。しかし,この事件は,電子掲示板や電子ジャーナルといったデジタル環境が重要な役割を果たした点で,非常に画期的である。本稿では,事件の概要とともに,特に電子ジャーナルの対応を紹介する。

 

2. 捏造事件の概要

 ファンはScience誌に,2004年に「クローン胚盤胞由来の多能性ヒトES細胞株の証拠」,2005年には「ヒト体細胞核移植胚盤胞に由来する患者対応型ES細胞」という論文を相次いで発表した(2)。理論上,あらゆる組織に分化する可能性を有するES細胞は,難病治療など再生医学の分野での活用が期待されており,これらの論文は,ヒトES細胞,さらには患者に対応したDNAを有するヒトES細胞を作製した世界初の画期的な事例であった。

 ところが,これらファンの研究に用いられた受精卵の提供に関して,海外の研究者から倫理的な問題が提起された(3)。さらに,ファンの研究チームの元研究員から受けた内部告発を元に,韓国のTV局・MBC社が卵子売買および論文捏造疑惑を報道した。しかし,ファンの研究チームから,この取材は脅迫・懐柔を伴ったものであったと取材倫理に関する批判が出されてしまう。ファンは既に,韓国社会から広く尊敬を集め英雄視されており,取材倫理の問題を認めたMBCに対しては,市民からの抗議が殺到した。MBCは後続報道の中止を余儀なくされたばかりか、不視聴運動により経営危機まで取り沙汰されてしまう。

 このとき,インターネットが決定的な役割を果たした。捏造疑惑の報道を受け,韓国の生物学研究情報センター(BRIC)のコミュニティページ(電子掲示板)に集まり検証を行っていた若手生物学者たちが,2005年論文の写真が捏造されたものであることを暴いたのである(4)。これを韓国のインターネット専門ニュースサイトが報道したことは,またたく間に海外にも伝わり,大きな反響を呼んだ。日本の電子掲示板でも関連する検証が行われ,その結果はすぐに韓国にフィードバックされた(5)。共同研究者の属するピッツバーグ大学,Science誌も真相究明に乗り出す。事ここに至り,ファンの共同研究者たちもデータや成果の捏造を認めてしまった。この事態を受けてソウル大学が調査委員会を設置し,検証が行われた結果,2004年,2005年の論文とも捏造されたものであることが正式に発表された(6)。またこれを受けてScience誌も両論文を撤回した(7)。ファンは「捏造は知らなかった,仕組まれたものである」などと弁明しているものの,引き続いて韓国の検察や監査院が,詐欺や研究費の横領等の容疑で捜査を行っている。

 

3. デジタル環境が果たした役割

 この事件に対し,デジタル環境が果たした役割は以下のように整理できよう。

 第一に,ウェブ版の新聞・雑誌等で,情報が即座に伝播したことが挙げられる。この事件においては,学術雑誌のみならず,一般雑誌,新聞,電子掲示板,個人のウェブサイトなど,実に多くのメディアが随時,互いを引用しながら情報を提供していった(8)。特に,韓国の3大新聞(朝鮮日報,中央日報,東亜日報)はいずれも韓国語版,英語版,日本語版(朝鮮・東亜は中国語版も)を提供しており,韓国内部のローカルな反応・対応がただちに海外に伝わっていった。

 第二に,検証作業に多くの者が関与できたことも忘れてはならない。検証作業が行われた日・韓の電子掲示板はいずれも公開制・匿名制であることから,参加の間口は広く開かれており,また立場にとらわれない意見の投稿が可能であった。日・韓の検証情報が共有されたことも,少なからぬ意義を持つものであった。

 そして第三に,これらの論文がオンラインで提供されていたことが挙げられる。この事件では,写真とDNA指紋の複製の検証が鍵となったが,これらのデータがデジタル画像でも提供されていたことにより,拡大縮小・回転・分割等の操作を容易に行うことができた。また,データへのアクセシビリティも高かった。Science誌の場合,オンライン版はゲスト,無料登録利用者,個人契約購読者,機関契約購読者の4段階のアクセスレベルが設定されているものの,検証対象となった画像の多くを含んでいた補足資料は,ゲストのレベルでもアクセスできた(9)Science誌がトップクラスの引用数を誇る雑誌であることを考えると,契約購読を行っている機関は多く,検証者たちは論文本体についても容易に入手できたと考えられる。複数の者が,オンライン環境にさえあればどこからでもデータを入手でき,また画像データの操作を行えたこと,これが事件の究明を早めた要因の一つであろう。

 なお,この事件において,インターネットによるある種の世論形成が行われ,これが否定的な役割を果たしたことにも留意する必要がある。韓国においては,従来からインターネットを通じた「サイバーデモ」と称する抗議活動が盛んに行われている。事件を報道したMBCへの抗議もインターネットで呼びかけられて拡大した(10)。もちろん,ファンへの熱狂的な支持を生み出す背景として,マスメディアによる世論形成があったことは言うまでもないが,そのマスメディアによる真相究明の活動を妨害するほどに過激化していったのは皮肉である(11)

 

4. 電子ジャーナルの対応と課題−撤回された論文の扱い

 前述のとおり,この事件の究明には電子ジャーナルが効果を発揮した。しかし,当初から電子ジャーナルを提供する学術雑誌が積極的に対応していたわけではない。むしろ,Science誌の対応は鈍かった。ライバルのNature誌が倫理的問題をいち早く取り上げ問題を提起したのに対し,Science誌が倫理的問題を取り上げたのはその1年後である。また論文の捏造疑惑に対しても,インターネットでの検証が進むまで対応しなかった。

 しかしながら,調査を行う方針を決めてからの動きは迅速であった。オンラインで検証作業者を募集するとともに,事件に関連する記事・論文をまとめた特集ウェブページを作り,通常は読むのに契約が必要なものもオープンにした(12)。電子ジャーナルの特性を活かしたこの対応は,検証作業に非常に有効であったのみならず,捏造を生み出した学術雑誌としての説明責任の点からも重要な措置であったと言えよう。このページが継続されれば,捏造事件を検証し,再発を防止するためにも非常に有益であると考えられる。

 一方で,電子ジャーナル固有の問題も発生している。捏造が発覚し撤回された論文のデータをどのように取り扱うか,という問題である。

 2006年2月9日現在,Science誌の特集ページからわかる限りにおいて,ファンの研究グループの論文はScience誌を含む合計4誌の6本が撤回されている(13)Science誌のウェブサイトでは,2004年,2005年の論文2本について,要旨,全文HTML版ともに撤回された旨の表示があり,それをクリックすると撤回の経緯を記したEditor’s Noteが表示される。全文PDF版は最初のページに撤回の表示があり,最終ページにEditor’s Noteが付されている。いずれにおいても,撤回された旨が即座にわかるようになっている。

 しかしながら,同様にウェブサイトで提供されている他誌の論文は,必ずしもこのような対応になっていない。Stem Cells誌とScience Express誌においては,要旨と全文HTML版はScience誌同様の対応となっているが,全文PDF版については手が加えられておらず,撤回されたことがわからない。Biology of Reproduction誌の場合,本文を削除して撤回された旨だけを表示した第二版を作成しているが,元の初版には何ら手を加えていない。さらに,Proquest等のアグリゲータサービスから提供されているデータの場合,2006年2月9日現在,Science誌の論文も含め,撤回された旨がまったく表示されていないどころか,ファンが論文発表後に追加した補足資料すら提供されていない。

 論文の撤回,さらには訂正や補足などをどのように扱えばよいのか。ただ単に論文の引用というレベルでは,利用者がいつ,どの情報源からデータを入手したかを明示するだけでよいのかもしれない。そしてそれは,利用者のミスとして処理され終わるだけのものかもしれない。しかしながら,論文に基づいて実験や診療を行う分野の場合,利用者が重要な訂正や補足に気づかない場合,人命に関わる事態を招くおそれがある。医学・薬学等の分野ではすでに,学術雑誌や引用・索引データベースにおける撤回や訂正への対応の問題点が指摘されているところであるが(14),今回の事件を踏まえると,これらに加えて電子ジャーナルやアグリゲータにおける対応も,十分に検討されなければならないだろう。

 

5. おわりに

 この事件が与える示唆は非常に多岐にわたっている。本稿で見たような電子ジャーナルの効果以外にも,研究者倫理,研究者コミュニティの権力関係,科学雑誌の査読制度,マスメディアの報道,インターネットによる世論形成,社会心理・集団心理,科学技術の公共性といったいくつもの論点からの分析が可能である。科学者の不正を防止する有効な手立てを考える上で,これらの分析を総合することは必要不可欠であろう。

 これに加えて,撤回や訂正・補足といった事実の後,どのように情報を提供し,悪意のない引用や再利用を防いでいくかという問題もまた,見過ごされがちではあるが重要である。この事件からも,訂正・補足・撤回等をどのように扱うかが課題であることがわかった。学界,出版界,データベース業界,アグリゲータ業界などを横断した共通のスキームが必要になっているのではないだろうか。

関西館事業部図書館協力課:村上浩介(むらかみ こうすけ)

 

(1) Broad, W. et al. (牧野賢治訳) 背信の科学者たち. 京都, 化学同人, 1988, 312p. ; 山崎茂明. 科学者の不正行為 ? 捏造・偽造・盗用. 東京, 丸善, 2002, 195p.

(2) Hwang, Woo Suk et al. Evidence of a Pluripotent Human Embryonic Stem Cell Line Derived from a Cloned Blastocyst. Science. 303, 2004-03-12, 2004, 1669-1674. (online), available from < http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/303/5664/1669 >, (accessed 2006-02-08). ; Hwang, Woo Suk et al. Patient-Specific Embryonic Stem Cells Derived from Human SCNT Blastocysts. Science. 308, 2005-06-17, 2005, 1777-1783. (online), available from < http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/308/5729/1777 >, (accessed 2006-02-08).

(3) いくつか記事が存在するが,最初に報じたのは以下のもの。この記事は契約購読者でなくてもオンラインでアクセス可能となっている。Cyranoski, David. Korea’s stem-cell stars dogged by suspicion of ethical breach. Nature. 429, 2004-05-06, 2004, 3. (online), available from < http://www.nature.com/nature/journal/v429/n6987/full/429003a.html >, (accessed 2006-02-08).

(4) anon… “The show must go on…”. BRIC声の広場. (Korean). (online), available from < http://gene.postech.ac.kr/bbs/view.php?id=job&no=3464 >, (accessed 2006-02-08).

(5) 検証は主に匿名掲示板「2ちゃんねる」の生物板で行われた。掲示板のログが残らないので,ここでは韓国での報道を紹介する。日本のインターネット掲示板 “幹細胞の重複写真3対をさらに発見”. Pressian. 2005-12-10. (Korean). (online), available from < http://www.pressian.com/scripts/section/article.asp?article_num=30051210112223 >, (accessed 2006-02-08).

(6) なお正式発表前の中間発表(2005年12月29日)において,捏造の事実は公表されている。ソウル大学調査委員会. ファン・ウソク教授の研究疑惑に関する調査結果報告書. ソウル大学, 2006. (Korean). (online), available from < http://www.snu.ac.kr/ICSFiles/afieldfile/2006/01/10/report.pdf >, (accessed 2006-02-08). ; Seoul National University. “Summary of the Final Report on Hwang’s Research Allegation”. SNU News. (English). (online), available from < http://www.snu.ac.kr:6060/sc_sne_b/news/1196178_3497.html >, (accessed 2006-02-08).

(7) Kennedy, Donald. Editorial Retraction. Science. 311, 2006-01-20, 335. (online), available from < http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/311/5759/335b >, (accessed 2006-02-08).

(8) higon. “韓国幹細胞研究スキャンダル 目次 (Korean stem cell researchers in chaos. Index)”. higonの日記. (online), available from < http://slashdot.jp/~higon/journal/329668 >, (accessed 2006-02-09).

(9) American Association for the Advancement of Science. “Access & Subscriptions”. Science. (online), available from < http://www.sciencemag.org/help/readers/access.dtl >, (accessed 2006-02-08).

(10) 竹嶋渉. 黄禹錫博士への異常な愛情. 諸君!. 2006.3, 2006, 89-97.

(11) マスメディア側からの反省・検証作業も行われている。<2005年を反省します>真実知らぬまま「黄禹錫神話」作り. 中央日報日本語版. 2005-12-30. (online), available from < http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=71215 >, (accessed 2006-02-08) ; 集中点検 – ファン・ウソク報道. 新聞と放送. 421, 2006.1, 18-49. (Korean)

(12) American Association for the Advancement of Science. “Special Online Collection: Hwang et al. and Stem Cell Issues”. Science. (online), available from < http://www.sciencemag.org/sciext/hwang2005/ >, (accessed 2006-02-08).

(13) (2)の2本に加え,それぞれのオンライン速報版であるScience Express誌の2本,StemCells誌の1本,Biology of Reproduction誌の1本である。Hwang, Woo Suk et al. Evidence of a Pluripotent Human Embryonic Stem Cell Line Derived from a Cloned Blastocyst. Science Express. 2004-02-12, 2004, 1-6. (online), available from < http://www.sciencemag.org/cgi/reprint/1094515v1.pdf >, (accessed 2006-02-09). ; Hwang, Woo Suk et al. Patient-Specific Embryonic Stem Cells Derived from Human SCNT Blastocysts. Science Express. 2005-05-17, 2005, 1-11. (online), available from < http://www.sciencemag.org/cgi/reprint/1112286v1.pdf >, (accessed 2006-02-09). ; Kim, Sun Jong et al. Effects of Type IV Collagen and Laminin on the Cryopreservation of Human Embryonic Stem Cells. Stem Cells. 22(6), 2004, 950-961. (online), available from < http://stemcells.alphamedpress.org/cgi/content/full/22/6/950 >, (accessed 2006-02-08).; Cheon, Seon Hye et al. Defined Feeder-Free Culture System of Human Embryonic Stem Cells. Biology of Reproduction. (DOI 10.1095/biolreprod.105.046870), 2005, 1. (online), available from < http://www.biolreprod.org/cgi/rapidpdf/biolreprod.105.046870v2.pdf >, (accessed 2006-02-09).

(14) Atlas, Michael C. et al. Retraction policies of high-impact biomedical journals. Journal of the Medical Library Association. 92(2), April, 2004, 242-250. ; 山崎茂明. 前掲書, 123-128.

 

Ref.

黒影. “韓国幹細胞狂騒曲”. 幻影随想. (online), available from < http://blackshadow.seesaa.net/article/11755805.html >, (accessed 2006-02-09).

Special Report: 世紀の捏造を生んだ韓国病. Newsweek日本語版. 21(3), 2006, 16-22.

石黒武彦. 総合科学雑誌における不正行為論文の逐次刊行とその撤回および背景. 情報管理. 46(12), 2004, 828-834.

 


村上浩介. ES細胞論文捏造事件に見る電子ジャーナルの効用と課題. カレントアウェアネス. (287), 2006, 2-4.
http://www.ndl.go.jp/jp/library/current/no287/CA1582.html