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カレントアウェアネス
No.289 2006年9月20日
CA1600
政策としてのオープンアクセス:NIHパブリックアクセス方針の現状と課題
1. NIHパブリックアクセス方針の位置づけ
2005年5月2日,米国の国立衛生研究所(以下,NIHとする)によるNIH パブリックアクセス方針(正式名称は,Policy on Enhancing Public Access to Archived Publications Resulting from NIH-Funded Research)(1)が施行されてすでに一年が経過した。同方針の成立過程やその詳細は他稿に譲るが(2)(3),その概要を確認しておくと,NIHから研究助成を受けた研究者はその成果として執筆した学術雑誌論文の最終原稿を,刊行後12か月以内にPubMed Central(E096参照)へ任意登録することが求められるというものである。同方針は,これまで学術情報流通に直接関与してこなかった研究助成機関や政府がオープンアクセスを奨励する勧告や報告書を出したという点で多くの関心や議論を呼び,その後のオープンアクセスの動向に大きな影響を与えることになった出来事として位置づけられる。方針提案当初は,6か月以内の登録義務化という強制力を持つものであったが,実際の方針は12か月以内の任意登録となり,方針施行後どれだけの研究者が最終原稿を登録するのか,今後のオープンアクセスの成否を占う意味でもその成果が注目された。
2. 方針実施後の成果
2006年1月に,NIHは連邦議会に対してパブリックアクセス方針の履行状況についての報告書を提出した(4)。それによると,2005年5月2日から12月31日の8か月間で,同方針の対象となる論文約43,000編(推定値)のうち,実際に登録されたのは1,636編で登録率は3.8%(推定値)であった(もともとPubMed Centralに登録されている雑誌に掲載された論文や,2005年5月以前に発表された論文は該当しない)。登録された原稿の6割が出版後即時公開され,17%がその後10か月後までに,残り23%が10〜12か月後に公開された。NIHは同方針を周知させるため内部職員,全ての助成研究者,出版社等にメール,書類,説明会などを配布・実施しており,米国19大学を対象に行った調査では研究者の大半が同方針を知っていたという結果から,広報活動が登録率の低さの理由ではないとしている。
2006年6月末時点でPubMed Centralへの登録原稿総数は5,280編で,右肩上がりに上昇している(図)。そのうち実際に公開されているものは同年8月中旬時点で3,442編であった。登録原稿は,HTML形式とPDF形式で提供され,それが著者最終原稿であることがわかるように「NIH-PA Author Manuscript」と明記されており,PubMed Centralでの公開日や出版社が提供している電子ジャーナルへのリンクなども付与されている。
図 NIHMSシステムへの論文登録数の推移(2005年5月2日から2006年6月30日まで) ※画像をクリックすると新しいウインドウで開きます。 |
3. 研究者の反応
2006年1月にPublishing Research Consortiumは,生命科学および医学分野の学術雑誌に発表したことのある米国の著者1万6千名(回答者1,128名)を対象にEメール調査と電話によるインタビュー調査を行い,パブリックアクセス方針に対する研究者の認識や意見を報告している(5)。回答者の85%が同方針の存在を知っていたが,手続きの詳細を含めて方針について「よく」知っていると回答したのは20%以下で,原稿の登録プロセスやそのメリットなどについての理解が浸透していない。科学研究へのアクセスを強化するという考え方は広範な支持を得ているが,学術雑誌の予約購読数の減少など研究者が抱いているパブリックアクセス方針が学術出版へ与える負のイメージを払拭できておらず,NIHによる広報活動も研究者から見れば不十分であり結果として低い登録率へとつながっている(24%が登録したと回答)。パブリックアクセス方針を支持する研究者は,科学情報への広範なアクセスは本質的な利益で,特に貧しい国の研究者のためになるとみなしており,研究に対して税金という形で資金を提供している公衆に対して研究成果を還元するのは義務であると感じている。一方で登録しない研究者は,学術雑誌にもたらす損失,著作権,登録された原稿に含まれうる誤りに対する懸念を示している。
4. 学会・出版社の反応
パブリックアクセス方針に対して,オープンアクセス雑誌を刊行している出版社を除いてほぼ全ての出版社の対応は消極的であり,原稿登録のプロセスを出版社側が研究者に代わってコントロールする傾向が強い。
個々の出版社の対応をまとめると,1) 0から12か月のエンバーゴ(登録後一定期間のアクセス不可),2) 著者による登録許可,あるいは出版社による代行(および著者の登録禁止),3) 最終原稿のみ許可あるいは編集済みPDFファイルの提供といった項目を組合せたいずれかになっている。たとえば,電気電子学会(IEEE)は刊行12か月後の著者による自発的な登録を認めており,論文の最終版をも著者に提供している(6)。一方で,エルゼビア社は雑誌の執筆要綱に,著者に代わってPubMed Centralへの原稿の登録を行う代わりに著者が直接登録することを禁止する旨を明記している(7)。ワイリー社も同様に,著者代行登録を行うかわりに著者による登録を推奨していない。刊行と同時に原稿を登録するが,利用可能になるのは12か月後としている(8)。
これら二社の対応はパブリックアクセス方針を遵守する姿勢を見せているが,著者に代わって出版社が登録を代行することで可能な限りPubMed Centralでの無料アクセスを回避する動きであるように見え,同方針が持つ弱点をうまく利用している。
2005年10月,57の医学・科学系非営利出版社からなるDC Principlesグループは,NIHのザーフーニー(Elias Zarhouni)所長に対して,PubMed Centralへ原稿を登録する代わりに,PubMedから出版社のサイトで提供しているファイルへのリンクを張ることを提案した。2006年3月と4月にも再び提案を行っているが,全てNIHから拒絶されている。
5. 政策としてのオープンアクセスが抱える課題
2005年11月15日の同方針のパブリックアクセスワーキンググループでは,登録を義務化し最終原稿ではなく編集済みのファイルを登録すべきなどといった意見が出され,さらに2006年2月8日には,米国国立医学図書館(NLM)の評議会がザーフーニーに対して刊行後6か月以内の登録の義務化を公式に推奨した。同年6月15日には下院歳出委員会でも,2007年度の予算案で12か月以内の登録義務化が要求されるなど,パブリックアクセス方針を強化する動きが高まっている。
3.8%という登録率の低さは,当初の目的と照らし合わせれば任意登録が政策としても戦略としても失敗に終わったと見てよいだろう。これは,セルフアーカイビングを義務化したクイーンズランド工科大学の機関リポジトリへの登録率が,任意登録であるその他のオーストラリア7大学の4倍近くにもなることからも示されている(9)。世界最大級の研究助成機関であるNIHは助成研究から年間6万〜6万5千編もの論文を生み出しており,原稿登録の義務化が研究者集団および学術出版界にもたらす影響力は一大学の比ではなく,出版界からの反発を招く結果となっている。NIHは科学情報への広範なアクセスという当初の目的の実現と商業出版社などとの利害調整との間の板挟みにあっているのが現状だろう。
NIHは過去の広報活動が登録率の低さの原因ではないとしているが,Publishing Research Consortiumの報告書からは,研究者がパブリックアクセス方針の目的や利点を十分に理解しているとは考えられない。同報告書は遵守率を上げるために,方針全体のプロセス,方針がもたらす付加的な利益,登録プロセスの簡易化,著作権に対する立場,学術雑誌への影響などを説明することが必要だとしている(5)。他にも,NIH自らがパブリックアクセス方針に従って登録された論文と非登録論文との被引用率の違いを調査するなど,今後も研究者に対してより具体的に目に見える形でパブリックアクセス方針を遵守することのメリットを伝え理解させる必要があるのではないか。
将来オープンアクセスの歴史が記される場合,NIH パブリックアクセス方針は必ず言及される出来事である。このまま壮大な失敗として終わるのか,それとも偉大な失敗として華々しい成功への転身をはかるのか,政策レベルでのオープンアクセスの議論が始まったばかりである日本においては,今後もその動向を注視していく必要性は多いにあるだろう。
慶應義塾大学大学院:三根慎二(みね しんじ)
(1) Policy on Enhancing Public Access to Archived Publications Resulting from NIH-Funded Research. (online), available from < http://grants.nih.gov/grants/guide/notice-files/NOT-OD-05-022.html >, (accessed 2006-07-25).
(2) 筑木一郎. 英米両国議会における学術情報のオープンアクセス化勧告. カレントアウェアネス. (282), 2004, 15-19.(オンライン), 入手先< http://www.dap.ndl.go.jp/ca/modules/ca/item.php?itemid=976 >, (accessed 2006-07-25).
(3) 尾身朝子ほか. 研究助成機関とオープンアクセス – NIHパブリックアクセスポリシーに関して. 情報管理. 48(3),2005, 133-143.
(4) The NIH progress report to Congress. (online), available from < http://publicaccess.nih.gov/Final_Report_20060201.pdf >, (accessed 2006-07-25).
(5) NIH Author Postings (February 2006) A study to assess understanding of, and compliance with, NIH Public Access Policy. (online), available from < http://www.alpsp.org/news/NIH_authorpostings_report.pdf >, (accessed 2006-07-25).
(6) IEEE Position Statement on NIH Public Access Policy. (online), available from < http://www.ieee.org/web/publications/rights/IEEE_Position_on_NIH_Policy.xml >,(accessed 2006-07-25).
(7) Elsevier NIH policy statement (online), available from< http://authors.elsevier.com/getting_published.html?dc=NIH >, (accessed 2006-07-25).
(8) Wiley InterScience :: Author Resources :: Journal Manuscript Submission. (online), available from < http://www3.interscience.wiley.com/authorresources/journal-man-sub.html#natins >, (accessed 2006-07-25).
(9) Sale, Arthur. Comparison of content policies for institutional repositories in Australia. First Monday,11(4), 2006. (online), available from < http://www.firstmonday.org/issues/issue11_4/sale/index.html >, (accessed 2006-07-25).
三根慎二. 政策としてのオープンアクセス:NIHパブリックアクセス方針の現状と課題. カレントアウェアネス. (289), 2006, 2-4.
http://www.dap.ndl.go.jp/ca/modules/ca/item.php?itemid=1033