CA975 – 国立図書館に「国」は必要か? / 柳与志夫

カレントアウェアネス
No.183 1994.11.20


CA975

国立図書館に「国」は必要か?

世界の主要国立図書館で,今,改革の動きが急である。それも外部環境の変化に対応するだけの小手先のものではなく,自ら積極的に将来の状況をつくりだそうとする改革に取り組んでいる。そのめざす方向には幾つかの共通点が見られるが,資料のデジタル化政策はそのひとつであろう。米国議会図書館の「National Digital Library」構想は,その典型的事例であり,そこでは電子納本制度を始めとする新しい技術・制度の開拓の必要性が強く認識されている。

こうした各国国立図書館改革への意欲の背景となる要因は複雑であるが,これまで国立図書館を支えてきた(あるいはその前提として存在してきた)諸制度・理念の多くが不確実なものとなってきたとの危機感が大きな位置を占めることは間違いない。それらの理念とは,例えば「納本制度」「全国書誌」「国内最大(有数)の研究図書館」などである。

全国書誌を考えてみる。全国書誌の作成と国立図書館の存在は不可分の関係にある。近代国民国家の出現による「国」「国民」の発見なしには,それを前提とする「National Literature」は成立せず,それを基に記述する全国書誌の作成も不可能である。また,王の蔵書を保管する図書館から,国立図書館への転換も,国民国家あってのことと言えよう。

しかし,全国書誌に収録すべき「国内刊行物」は,将来も明確な対象となりうるだろうか。すでに多くの学術情報や行政情報が,国内で印刷物として出版される以前に,インターネットを通じて世界的に流通し始めている。しかもそれは単に紙メディアが電子メディアに置き換わった形式上の変化ではなく,電子討論グループの議論や各種生データなど,それまで印刷物では流通していなかった情報が含まれるという内容的な変化なのである。国内で発行される印刷物のみのリスト作りに今後どれほどの意義があるだろうか。各国がこぞってデジタル図書館の構築に向かっているのは偶然ではない。

情報スーパーハイウェイやマルチメディアなどデジタル情報の生産・流通・利用をめぐる現在の論議が,どちらかと言えば情報の生産・提供者側の利害に関わる論点に傾きがちであることは否定できない。あるいは膨大な情報のフローの制御に目を奪われて,情報のストックの制度的保障への配慮は欠けがちである。多様なメディア・著作者が関わり,常に改変され,発展するハイパーテクストのあり方は魅力的であるが,一方で,すべてのテクストが生産者・媒介者・利用者との関係で常に変動し,その度ごとにテクストの状態や利用の条件を決定しなければならないような世界に人は堪えられるだろうか。その意味で,電子的テクストの著作責任者を確定(あるいは推定)し,最終版(あるいは利用可能版)を保障し,何よりもテクストの集合単位を措定する,新たな書誌コントロールの機能を国立図書館が電子納本制度を通じて行うことの意義は十分認められるだろう。

私的情報から区別された公共的情報・知識の国立図書館による蓄積は今後の情報生産の発展にとって重要な要因となる。しかしそれは必ずしも国立図書館の将来の発展を保証するものではない。

政治・経済あるいは情報流通などのあらゆる分野で国家の境界が障害になっていることは確かである。民族紛争や国民教育などあらゆる社会問題の中で,国家の存在そのものの矛盾が顕著になりつつある。むしろ近代国家はその最盛期を過ぎ,解体に向かって緩かな崩壊が始まったとも考えられよう。その中で,文化に関しては多くの国でそれを支える重要な役割を国が果たしており,より積極的な関与を求められている場合も少くない。国民による電子メディア情報の利用について,国立図書館によるストック調整機能の充実に当面の目標とすべき価値を見い出すことは難しいことではない。他にも,テクスト情報の諸ネットワーク間接続における標準化の推進など,果すべき幾つかの機能がある。

それらは,しかし必ずしも国立図書館が行わなければならないものではないし,複数の別の機関が代わって行うことになるかもしれない。いずれにせよ国家の存在を前提とする国立図書館は,将来的には大きな変化を受けざるを得ず別の形態への脱皮が求められる時期が来るのは確かなことのように思われる。

柳 与志夫(やなぎよしお)

Ref: 図書館研究所図書館情報学調査研究プロジェクト主要国における国立図書館の将来構想班 「脅威」を「機会」へ −各国の国立図書館に見る戦略− 国立国会図書館月報 (400/40l) 3-23, 1994