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慶應義塾大学信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館) 酒井 由紀子(さかい ゆきこ)
はじめに
米国国立医学図書館(National Library of Medicine: NLM)は、保健社会福祉省(Department of Health and Human Services: HHS)傘下の国立衛生研究所(National Institutes of Health: NIH)の一機関で、世界最大のヘルスサイエンス分野の図書館である。
その使命は「医学および関連分野の進展を助け、医学の進展と市民の健康にとって重要な科学、およびその他の情報の普及と交換を助ける」(1)ことにある。900万以上の図書や非図書のコレクションを所蔵して利用に供するとともに、毎日、数兆バイトのデータを数百万の利用者へ届ける電子情報サービスの開発・運用を行っている。1997年に世界へ向けて無料公開された“PubMed”をはじめ、そのサービスの恩恵をこうむっている利用者は米国にとどまらない。また、取り扱うデータは書誌やテキスト情報だけではなく、1988年に設立されたNLMの一部門である国立バイオテクノロジー情報センター(National Center for Biotechnology Information: NCBI)が開発・運用する“GenBank”に代表される遺伝子関連のデータベースや解析ツールが、ヒトゲノムプロジェクト(Human Genome Project)で果たした役割は計り知れない。さらに、NLMは1836年の創設以来、主に医学研究者や医療従事者をその利用者としてきたが、1990年代終わりから、一般人をもその利用対象と位置づけるよう方針の転換をした。信頼性のある健康情報ポータルサイト“MedlinePlus”を運営するほか、一般市民への健康情報提供サービスを支援する様々な活動を行っている。また、直接の情報サービスだけではなく、医学図書館や関連機関のネットワークを通じた医学文献提供サービスの調整や、一般市民向け健康情報提供を支援する助成事業、情報サービス活動や情報学の研究開発を進めるための教育研修事業などとその活動範囲は多岐にわたる。
2006年9月にNLMの最高意思決定機関である評議会(Board of Regents)は、2006-2016年を対象とした長期計画(Long Range Plan)を承認し発表した。NLMの長期計画は、今後の活動の指標となる重要な報告書である。最初の長期計画報告書は1987年に出版されたが、今回の長期計画は活動全体を対象とした報告書としては、2000年についで3つ目にあたる。本稿では、医学および関連の情報関連事業によって、米国のみならず世界の医学研究と健康のために貢献するNLMが果たす役割を理解するために、概要と概況につづき、NLM長期計画について、さらに最新の同報告書でまとめられた20年間の軌跡と、目標に見る今後の方向性について最新動向をおりまぜながら解説したいと思う。
(1) 米国国立医学図書館の概要および概況
NLMの前身は1836年に創設された陸軍軍医総監事務所の図書室で、1956年に陸軍から公衆衛生局の傘下に移され、国立医学図書館と命名された。現在の所在地は首都ワシントン(Washington, D.C.)に近いメリーランド州ベセスダ(Bethesda, MD)で、広大な土地を持つNIHキャンパスに、1961年建設された第38ビルと1987年に増築された第38Aビルがその本拠地である(図1)。
図1. ベセスダにあるNLMの建物
出典:“NLM Art, Images and Logos”. NLM. http://www.nlm.nih.gov/about/imagespage.html, (accessed 2007-03-04).
NLMを率いる館長は1984年以来、病理学者で情報技術の医療への応用のパイオニアでもあるリンドバーグ博士(Dr. Donald A.B.Lindberg)である。副館長のハンフリー氏(Betsy Humphreys)は長く図書館運営部門で実務の先頭に立って働き、先進的な用語プロジェクトである統合型医学用語システム(Unified Medical Language System: UMLS)を率いるなど輝かしい実績を積んで、2006年に現在の職位に昇格したばかりである。内部の現業部門は大きく5つに分かれる。1)外部の機関への助成や契約事業を受け持つ外部事業部門(Division of Extramural Program)、2)図書館運営部門(Division of Library Operation)、3)研究開発を行うリスターヒル国立生物医学コミュニケーションセンター(Lister Hill National Center for Biomedical Communication)、4)特定分野のサービスを受け持つ特別情報サービス部門(Division of Specialized Information Services)、5)1987年に設立されたゲノム関連のデータベースやツールを提供するサービスで有名な国立バイオテクノロジー情報センター(NCBI)がそれである。
予算規模は2008年度要求で約3億1,300万ドル(1ドル120円として約376億円)を超える。事業別割合(図2)では図書館運営部門が最も多く28%を占め、バイオテクノロジーセンター事業(24%)、および外部委託助成事業(22%)と続く。また、NLM自らの研究開発部門であるリスターヒルセンターにも17%が割り当てられている。1%とわずかながら独立費目として明記されているNIHロードマップ事業は、NIHが全体で進めている横断的な研究事業で、28機関すべてに平等に割り当てられ予算計上されている項目である。
図2. 事業別予算割合
出典:“FY 2008 Budget”, NLM. http://www.nlm.nih.gov/about/2008CJ.pdf, (accessed 2007-03-04).
スタッフは2006年9月現在655名で、約半数の49%は図書館運営部門、約1/4の24%はNCBIのスタッフである。なお、ここに外部委託・助成事業で雇用されている、約200名は含まれていない。
次節からは、最新の長期計画報告書をもとに、ここ20年間のNLMの軌跡と今後の方向性などについて、各活動別に述べてみたい。
(2) 「NLM長期計画2006-2016」にみる20年間の軌跡と今後の方向性
1) NLM長期計画(NLM Long Range Plan)の沿革
(一覧と原題は表1)
NLM長期計画は、長期の未来予測をもとに重点目標を決め、直近の3~5年にいかにして優先的に資源を割り当てるかを具体的にまとめた報告書である。最初の長期計画は1985年から20年間先を見据えて方針を定めたものをまとめて1987年に出版された。この報告書の中で目標のひとつであった、「バイオテクノロジーのための情報サービス」が直接1988年のNCBIの設立に結びついている。
その後、環境の変化に応じ特定分野についての報告書が出版された。1)アウトリーチ・サービスの強化に結びついた「医療従事者の情報アクセスの改善」(1989)、2)画期的なヒト解剖画像プロジェクト“Visible Human Image”に代表される「電子イメージ」(1990)、3)先進工業国の重要課題として取り組まれた「毒物・環境情報」(1993)、4)米国医学図書館協会(Medical Library Association: MLA)の教育要綱“Platform for change”(2)で医学図書館員の教育の担い手として指名されたことを受けた「ヘルスサイエンス図書館員の教育と研修」(1995)、5)1997年にMEDLINEをPubMedを通じて無料公開し、世界の人々の健康のために貢献する方針を、より明確にした「世界の中のNLM」(1998)の5つである。
それまでの長期計画と目標に対する到達度を検証する追跡記録(1999)を経て、次の全体的な長期計画がまとめられたのは2000年である。2000年の長期計画は、10年後の未来予測をもとにまとめられ、一般市民向けの健康情報についてもNLMが責任を持つことを明確に示している。その他、分子生物学情報システム、生命工学、研究成果出版の将来、電子情報への永久アクセス、情報学研究の基礎、世界の健康のためのパートナーシップなどが盛り込まれている。
表1.NLM長期計画一覧
1987 | NLM Long Range Plan |
1989 | Improving Health Professionals’ Access to Information |
1990 | Electronic Imaging |
1993 | Improving Toxicology and Environmental Health Information Services |
1995 | Education and Training of Health Sciences Librarians |
1998 | A Global Vision for the National Library of Medicine |
1999 | The NLM Track Record |
2000 | National Library of Medicine Long Range Plan 2000-2005 |
2006 | Charting a Course for the 21st Century: NLM’s Long Range Plan |
出典:“Charting the Course for the 21st Century: NLM’s Long Range Plan 2006-2016”. NLM. http://www.nlm.nih.gov/pubs/plan/lrpdocs.html, (accessed 2007-03-04). にすべての報告書へのリンクがある
2) 2006-2016版作成のプロセス
最新の「長期計画2006-2016」の作成計画は、2004年9月のNLM評議会(Board of Regents)で承認された。続いて、計画委員会の共同委員長2名とメンバー5名が指名された。共同委員長のひとりは医療政策に関する実績のある元下院議長のギングリッチ氏(Newt Gingrich)で、もうひとりは、現在ヴァンダービルト医療センターで最高情報責任者(Chief Information Officer: CIO)を務めているステッド博士(William Stead)である。ステッド博士は、もともと内科医であるが、1980年代にデューク大学(Duke University)、1990年代にヴァンダービルト大学で統合型先進情報管理システム(Integrated Advanced Information Management System: IAIMS)プロジェクトを推進した著名な医療情報学者でもある。
2005年4月には、「戦略的展望」(Strategic Visions)と題する会合が開催された。これは、未来予測会議とでもいうべきもので、長期計画の範囲より先の20年先までの科学、医学、技術、社会経済にいたるまで、NLMの活動に影響があると思われる事象について議論が行われた。参加者は計画委員会メンバーにアドバイザーを加えた25名であった。医学博士11名が多数派であるが、遺伝学、コンピュータ科学や工学の博士に、看護学、図書館情報学、公衆衛生学、政府刊行物や商業流通までと幅広い分野の専門家を招聘している。図書館関係者では電子図書館の実現を先導してきたリンチ(Clifford Lynch)氏とほかに2名の図書館員が含まれている。
この未来予測に基づいて、さらに4つの分科会が招集された。2005年末から2006年初めにかけての会合の結果、各分科会から提出された目標とその実現のための勧告がまとめられ、承認されたのち最終報告書にまとめられた。この長期計画報告作成までには合計約80名が関与したが、うち23名が図書館員である。その中には、米国医学図書館協会(Medical Library Association: MLA)でも活躍している、カリフォルニア大学ディヴィス校のヨコテ(Gail Yokote)氏、現会長のシップマン(Jean Shipman)氏、元会長のワトソン(Linda Watson)氏、事務局長ファンク(Carla Funk)氏などが含まれている。このような各界からの英知を結集して計画が練られた。
3) 20年間の軌跡
「長期報告2006-2016」では新たな目標と、それを実現するための勧告に先立って、最初の長期計画の対象となった1985-2005年の20年の軌跡がまとめられている。以下、報告書で取り上げられた主要な活動について、若干の補足とともに述べることにする。
NLMの各活動に先んじて、特記事項として触れられているのは予算である。この20年間で5,740万ドル(1986年)が3億2,300万ドル(2006年)と5倍以上の規模に拡大している。議会に対し予算を獲得する役割を20年以上負ってきたリンドバーグ館長も、同報告書の前書きの中で、NLMの成功を支えてきたひとつの要素は比較的順調だった予算の伸びだったと主張している。しかし、予算は最近では2005年を境に若干の減少傾向にあり、2008年度要求の3億1,300万ドルは前年比0.7%減となっている。
1. 文献を中心とした医学情報へのアクセス
文献検索や文献提供の変化については、情報技術の革新による進展が劇的である。たとえば、20年前には書誌データベースの作成や提供にはメインフレームと商業通信ネットワークを利用し、入力は手作業であった。2005年にはインターネットを利用した電子的な仕組みが定着し、年間60万件収載する書誌・抄録データの82%は出版社から直接電子的に受け取っている。また、274,000件の相互貸借依頼の96%は電子的に受け付けている。NLM最大のデータベースであるMEDLINEは、1986年に始めた、初めての個人向け“GreatfulMed”サービスを経て、1997年に稼動したPubMedでインターネットとブラウザがあればだれもが無料で検索可能となった。“OLDMEDLINE”と呼ばれる古い時期のデータセットも、MeSH(医学件名標目表)の改訂付与などの整備が完成し、2006年にMEDLINEへ統合された。
その結果、1950年まで遡って約1,500万件の書誌データが同じ条件で一括検索可能となっている。年間検索利用回数は1997年には3,000万件だったが、2005年には8億2,500万件と27倍以上の伸びを見せている。文献提供の全国的な仕組みは、NLMが頂点となり、約6,000の様々な規模の医学図書館や関係機関が参加している全国医学図書館ネットワーク(National Network Libraries of Medicine: NN/LM)が担っている。同ネットワークは、現在一般市民向けの健康情報提供での役割も大きいが、これについては「アウトリーチ」の項目で述べることにする。
2. ファクトデータ
1987年出版の最初の長期計画で掲げられた「バイオテクノロジーにおけるファクトデータの利用に貢献する」という目標を受けて、翌年の1988年に国立バイオテクノロジー情報センター(NCBI)が設立された。ヒトゲノムプロジェクトで中心的役割を果たしたGenBankほか、現在も生物科学研究に欠かせない遺伝学、生物学のデータにかかわる事業や研究開発を、NIHの研究機関や研究者と共同で継続している。最近では、NIHの各機関が横断的に協力する“Roadmap”事業の一環として、“PubChem”を開発・提供を開始した。PubChemは新薬開発において重要な低分子(small molecules)の情報リポジトリで、生物的な機能と高分子との相互作用へのリンクが用意されている。これには現在、750万の低分子情報と500万の分子構造データが収載されている。
3. アウトリーチ事業
1989年の特定分野の長期計画として目標とされた「アウトリーチ」は、医学図書館が身近にない医師向けの文献提供サービスが中心であった。全国医学図書館ネットワークの整備や、直接個人が文献を依頼できる“DOCLINE”や“Loansome Doc”の普及で、当初の目標は達成されたと言える。全国医学図書館ネットワークでは、2006年に全国8つに分けられた地域にそれぞれ設置している拠点図書館(Regional Medical Library: RML)と、5年毎に行われている契約を交わしたばかりである。また、試験的に設置していた全米の参加機関が共通して利用できる国立研修センター (National Training Center and Clearinghouse)など、3つの組織が正式運用に移行された。
1990年代末以降は、アウトリーチ事業でも一般市民への比重が大きくなっている。地域で実施されている研修プログラムが1996~2001年の約4,700件から2001~2006年の9,400件と倍増したのも、一般市民や彼らへの健康情報サービスの担い手とされている公共図書館員向けプログラムが盛んになったためだろう。また、特に今後の課題となっているのは、健康格差(Health Disparities)が生じがちなアフリカ系アメリカ人、先住アメリカ人、ラテンアメリカ系アメリカ人へのサービスである。
さらに一般市民向けの広報活動も、アウトリーチ事業のひとつとして位置づけられている。1996年に始まったNLM館内での展示のほか、2005年からは巡回展示も行われ、ウェブ上の展示では高校生までに向けられた教育資料も含め掲載されている。
4. 一般市民向け健康情報提供
NLMにとって消費者健康情報(Consumer Health Information: CHI)と呼ばれる一般市民向け健康情報サービスは、MEDLINEがPubMedとして無料公開された1997年が元年と言える。MEDLINEはもともと医学の専門家向けのデータベースであるが、PubMedが公開されると一般市民からの利用が予想以上に多く、約1/3を占めることが記録されたのである(3)。「長期計画2000-2005」に一般市民を利用者と位置づけることが明記されて以来、NLMのホームページの利用者ガイド区分、広報文書や予算教書の文書など、すべて“for the public”(一般市民向け)が先に登場する。地域での活動は、前述のとおり全国医学図書館ネットワークを通じて行われる。NLMによる直接の一般市民向け健康情報サービスは、特定ウェブサイトの開発・運用が主である。PubMed公開翌年の1998年には、一般市民向けのリンク集“MedlinePlus”のサービスが開始され、続けて“ClinicalTrials.gov”(2000年)、“Tox Town”(2002年)、“Household Products Database”、“Genetics Home Reference”(2003年)などと次々に特定分野のサイトが開設された。2006年に始まった、医薬品のラベル情報を提供する“DailyMed”のサービスも、当初医療従事者を対象としていたが、現在は一般市民の利用を想定して開発中である。
MedlinePlusは、年間1億を超える人が8億5,000万ページを閲覧する最大の一般市民向け健康情報ポータルサイトで、連動して地域の医療機関や地域に特定した情報が探せる地方版サイト“Go Local”も20箇所がサービスを開始している。700以上の医学トピック、医学辞書・事典、医療機関情報に加え、2004年には外科手術のビデオ配信、2006年には人体の部位からのナビゲーション、毎週リンドバーグ館長自らが新しいトピックを紹介する、iPodやiTunesによる音声配信サービスも始まった。また、病院の待合室で患者に読んでもらう健康雑誌MEDLINEplus Magazineも発刊されるなど、拡充を続けている。
臨床試験の登録サイトClinicalTrials.govは、1997年の食品医薬品局近代化法(FDA Modernization Act)に対応したサービスで、患者も参加可能な臨床試験を探すことができる。登録数は約3倍となり、138か国の臨床試験情報29,000件が登録されている。2005年には、生物医学雑誌編集者の団体(International Medical Journal Editors)の申し合わせにより、14の医学雑誌で投稿論文の条件として、臨床試験をいずれかの公式登録サイトに事前登録することが義務付けられたため、登録数が急増した。
一般市民向け健康情報提供では、NLM以外の国家レベルの組織も様々な活動をしている。全国図書館情報学委員会(National Committee on Library and Information Science: NCLIS)もそのひとつであるが、同委員会による第2回目の健康情報図書館賞(2006 NCLIS Health Information Award for Libraries)の授賞式は、2006年5月3日にNLMで行われた。NLMでは1999年の実証研究で、一般市民向け健康情報提供の担い手として公共図書館がふさわしいとして、以降助成事業を推進している。NCLISで授賞した10館の中にも、NLMの助成を受けた図書館プロジェクトが含まれている。
NLMでは、医療機関や医師側からの患者への情報提供のための事業も行っている。情報処方プロジェクト(Information Rx Project)は、医師が患者にMedlinePlusの情報を参照するよう、サイトとページ名を情報処方箋に書いて手渡すというプロジェクトである。これは2003年に米国内科医師会(American College of Physicians)との協力で開始されたが、2007年からはさらに、米国整骨療法学会(American Osteopathic Association)と協力して事業を拡大する予定である。
5. PubMed Centralとフルテキストへのアクセス
“PubMed Central”(PMC)は、NLMの一部門NCBIがNIHのために開発し、2000年2月から運用している無料のデジタルアーカイブである。PMCはNIHの助成した研究の成果の無料公開を推進する“Public Access Policy”の受け皿であるが、NLM自体はオープンアクセス運動を直接支持する立場を示していない。リンドバーグ館長も2006年の“NLM update”の中で、関係団体や出版社との共同事業の可能性があると述べ、中立的な立場を強調している。しかし、PMCはカレントな雑誌論文のオープンアクセスの基盤としても実際に利用され、同時に、一部の雑誌については遡及的なデジタル化によって過去の論文への無料アクセスも実現している。
2007年2月現在、PMCの収載雑誌数は310タイトルで、収載論文数は675,000件である。うち60%は“Back Issue Digitization Project”で遡及的にデジタル化されたものである。当初は条件を満たした雑誌の掲載論文のみを収載する仕組みだったが、「オープンアクセス出版に関するベセスダ宣言」(4)後、2003年10月に開始された“Individual Open Access Articles”や、“Public Access Policy”(5)の発効にあわせ2005年5月に開始された“Author Manuscripts”の仕組みにより、論文単位の登録が可能となった。前者は現在2件しか登録がされていないが、後者は5,529件が登録されている。加えて、商業出版社が著者に費用を求めてオープンアクセス化するSpringer社の“Open Choice”やWiley社の“Online Open”の論文なども登録が始まっている。なお、国際的な協力も展開中で、すでに英国Wellcome 財団の助成研究の成果もNIHと同様にPMCへの登録が促されているため、ミラーサイトが英国に設置されている。
なお、PMCの起源となった構想は、当時のNIH所長ヴァームス(Harold Varmus)が提唱した“E-biomed”である(6)。ここでは非査読論文なども搭載する構想であったが、批判が強く、PMCの設立当初から査読があることが条件となった。論文単位の登録が可能となった現在でもこの方針は変っていない。
また、PMCで決めた論文アーカイビングのためのXMLのDTDは標準的な形式として、英国図書館(British Library)や議会図書館(Library of Congress)にも受け入れられており、これが世界標準となる可能性がある。
6. 特定分野の情報サービス
特定分野の情報サービスとして特筆されているものに、長期計画の補遺版に従って重点が置かれた、毒物・環境学分野の各種情報サービスと、デジタル画像技術を駆使した“Visible Human Project”がある。
毒物・環境学分野の情報サービスも、毒物学者、化学や薬理学者といった医学研究者から、救急サービス従事者や一般市民へとその対象を広げている。専門家向けサービスには関係データベース複数を同時検索できる“ToxNet”(Toxicology Data Network)がある。一般市民向けには、地域ごとに物質汚染状況や健康関連統計などを把握できる“ToxMap”、家庭で使われる製品の危険物質を調べることのできる“Household Products Database”、インタラクティブに身近な毒物について学ぶことができる、子供向けの“ToxMystery”や“Tox Town”などがある。
Visible Human Projectによって提供されているのは、MRI、CTと低温切開片から作成された、男性と女性のヒト解剖情報データセットで、1994年から1995年にかけて完成した。無料の契約で利用が可能である。現在、世界50カ国の2,000箇所で医学教育、診断、治療計画、仮想現実システムや芸術分野にいたるまで、幅広い分野で利用されている。また、同データセットを利用するために、大学や企業と共同開発したオープンソースソフトウェア“NLM Insight Segmentation and Registration Toolkit”(ITK)は画像を使った研究でよく利用されている。
7. 情報ネットワーク基盤構築への貢献
現在の高度な情報サービスを支えるネットワーク基盤は、言うまでもなくインターネットである。NLMは、インターネット普及に直接結びつく国家情報基盤構想(National Information Infrastructure)に先行する、高性能コンピューティング・コミュニケーション(High Performance Computing and Communication: HPCC)計画で中心的役割を果たした。HPCC計画は、NIHのほかに国防総省高等研究計画局(ARPA)、国立科学財団(NSF)、航空宇宙局(NASA)ほか連邦8機関が参加する大規模な事業だったが、1991年に開設されたHPCC事務局の初代局長にはNLMのリンドバーグ館長が指名された。そして、HPCC計画推進のために、NLMは助成金によってテレメディシンなどの研究開発を進めた。当時開発されたインディアナポリスの医療情報ネットワークは、地域医療情報のモデルとして全国で受け入れられている。現在は、より万全なネットワークづくりや非常時の負傷者へのスマートタグの利用の研究開発などに対し助成を行っている。
8. 統合型医学用語システムUMLS
NLMは生物医学分野の言語の意味に応じたシステム開発の基盤として、1990年に統合型医学用語システム(UMLS)を開発し発表した。UMLSはメタシソーラス、意味ネットワーク、特別レキシコンの3種類の知識ソースと、付属のソフトウエアから成る。核となるメタシソーラスは、当初10の用語集を統合した125,000の用語と64,000の概念で構成されていたが、2007年2月現在は17の言語、119の用語集、コードから統合した640万の用語と130万の概念に成長している。いまは臨床に特化した用語の標準化事業に取り組んでいる。UMLSはNLMのPubMedなどの検索の仕組みで利用されているほか、無料で外部の機関でも利用できるようになっている。
9. 助成事業
NLMは1965年以来、様々な助成事業によって、研究開発や新しい情報サービス事業の発展を促進している。助成事業にはいくつかの枠組みがあるが、「研究助成」では、当初は医療情報システム開発、現在はバイオインフォマティクスや生命工学へと重点が移行されてきている。「資源助成」の枠組みは、実際の情報管理システムや情報サービスのために用意されている。1980年代に始まった、医療センターでの統合的な情報管理システムを整備するためのIAIMS助成もこのカテゴリーに入っている。IAIMSプロジェクトは、図書館員が主任研究者となった大学が多くあって、医学図書館界でも注目された。現在は、それまでの助成プロジェクトの評価のもとに模様替えし、より多くの医療機関に対し門戸が開かれている。
10. 根拠に基づく医療(Evidence-Based Medicine: EBM)を支えるヘルスサービス研究情報センター
NLMは議会の要請を受け、1993年にヘルスサービス研究に関する情報センター(National Information Center for Health Services Research and Health Care Technology: NICHSR)を設立した。1990年代初めからのEBMを推進する政策の一環として開設されたもので、米国医療研究・品質庁(Agency for Healthcare Research and Quality: AHRQ)と協力し、診療ガイドライン、エビデンス報告書やヘルスサービス研究成果などのデータベースの開発・提供などを行っている。1997年には、疾病対策予防センター(Center for Diseases Control and Prevention, CDC)と共同で、公衆衛生に従事する専門家のための情報提供サイト“Partners in Information Access for the Public Health Workforce”(http://phpartners.org/)を開設している。なお、Partnersはアウトリーチ事業としても位置づけられている。
11. 教育・研修事業
NLMは、MLAの教育要綱“Platform for Change”(7)の中で、医学図書館員の教育の担い手のひとつとして指名されていて、そのための研修プログラムを用意している。また、リスターヒルセンターやNCBIが中心となって推進する医療情報学やバイオインフォマティクスの教育・研修プログラムも数多く設けられている。
図書館員向け教育プログラムで長期にわたるものは、NLMで1年間を過ごす“Associate Fellowship Program”で、修士号取得後の研修として位置づけられている。任意で2年間とすることができ、2年目は協力している大学医学図書館での研修となる。もうひとつの学術医学図書館協会(Association of American Health Science Libraries: AAHSL)と連携したリーダーシップ研修制度“Leadership Fellows Program”は、2002年に始まった新しいプログラムである。ベビーブーマーの大量退職を控え、次世代のリーダー養成を目指すもので、館長を目指す中堅以上の医学図書館員が参加し、指導には現在医学図書館長を務めるほかの医学図書館員が助言にあたる。1年間に何度かの集合研修や助言者の所属する図書館の訪問、Webでの議論などを組み合わせた内容となっている。
教育・研修プログラムはほかにも、NLMや関係機関で開催されるバイオインフォマティクスや各種インターネットツールの使い方の短期研修などのほか、医療情報学の博士課程学生のための助成や、IAIMSなど助成事業の中で展開される研修プログラムなどがある。また、地域で実施される教育・研修プログラムは地域拠点図書館が主導する。なお、PubMedのTutorialなど、ウェブ上で実施されるものも教育・研修プログラムとして位置づけられている。
NLMでは以上のような20年間の軌跡のレビューを前提に、「戦略的視点」会議で検討された未来予測をもとに、新しい環境変化に対応するため次のような長期計画が立てられた。以下に4つの目標と主要な勧告について、関連する最新動向を加え記述する。
4) 「NLM長期計画2006-2016」の4つの目標と勧告
目標1:生物医学データ、医学知識、健康情報へのシームレス、かつ不断のアクセス
最初の目標は、NLMの伝統的な図書館情報サービスの使命を反映している。具体的な勧告には、NLMの増築計画と危機対策が含まれている。NLMの建物は1987年にNCBI設立時に650名のスタッフを想定して増築されたが、すでに一部の部署はNIHキャンパスをはずれた貸しビルなどに点在している。電子時代を迎えた現在でも、スタッフや電子サービスの施設のために、より広いスペースが必要であるとして、1,300名のスタッフを想定した建物の設計図をすでに完成している。2003年11月にNLMで開催された「場としての図書館」(Library as Place)という会議で、その設計図が披露されていた。危機対策は、2001年の9/11同時多発テロ事件や2005年のハリケーン「カトリーナ」など、実際に起こったテロや自然災害などの脅威の体験が契機になっている。全国医学図書館ネットワークが災害時により有効に機能するよう災害計画に関する助成事業を行うほか、NLM自体の危機管理の整備がうたわれている。なお、NLMはすでにヴァージニア州に重要なシステムのためにバックアップ施設を備えている。また、ドイツ医学中央図書館(Deutsche Zentralbibliothek für Medizin)と重要な医学雑誌のコレクションを相互に補完する覚書を策定中である。
目標2:ヘルスリテラシーを促進し、ヘルスアウトカムを高め、世界中の健康格差を減少させるための信頼ある情報サービス
一般市民向けの健康情報サービスを推進し、さらにその効果が最大となるよう、情報を健康のために使う一般市民のリテラシーを高めることを目指している。また、世界に貢献するNLMとして、その対象を海外の開発途上国にまで広げようとしている。さらに、健康への情報の影響を測定するアウトカム測定のための研究開発に、認知科学の手法を取り入れることなどが提唱されている。
目標3:科学における発見の促進と、科学研究の実用への応用を迅速化する、生物医学、臨床、および公衆衛生情報の統合情報システム
NLMはこれまでも書誌データだけでなく、遺伝学情報を中心としたファクトデータや画像データ、また、医学概念を組織化したUMLSなど様々なリソースを開発してきたが、さらに、これらを発展応用することが目標に掲げられている。ひとつは、遺伝学情報の臨床応用である。たとえば、よくある疾病の原因を一塩基変異多型に着目して解明しようとする研究プロジェクト“Genes and Environmental Initiative”(GEI)や、マサチューセッツ州で1948年から三世代に渡り継続されている長期間の住民追跡健康調査研究で、最近はDNA情報も収集されている“Framingham Heart Study”の支援などが対象となる。もうひとつは、これまで直接取り扱ってこなかった診療記録へのUMLSの発展的応用である。診療記録は生物医学情報との連動が大きな課題になっているため、NLMは用語の標準化に貢献することが求められている。個人の電子的な診療記録(Electronic Health Record: EHR)の整備は、米国が推進する国家健康情報基盤(National Health Information Infrastructure: NHII)事業でも必須の要素とされている。
目標4:生物医学情報学研究、システム開発、および革新的なサービス提供のための強力で多様な人材育成
過去30年間の情報学関連教育と研修の実績に加え、さらに重点目標に沿った必要な人材育成の必要性が叫ばれている。勧告の中には、ベビーブーマーの大量退職を受け、若いうちから優秀な人材を確保すべく、高校までの学校や大学学部での広報活動の推進が含まれている。また、既存の図書館員向けの患者教育や生物医学情報サービスを含む高度な情報サービスのため、継続的な研修プログラムや、医学、情報学、コンピュータ科学、言語学、工学などの学際的な教育の必要性が盛り込まれている。
おわりに
NLMが担う生物医学分野の情報提供という基本的な機能は、その創設当時から変わっていない。しかし、NCBIの創設による莫大なデータを扱う科学研究そのものへの直接的な寄与や、MedlinePlusの提供をはじめ一般市民を対象とした信頼できる情報のサービスなど、その守備範囲は確実に広がっている。「長期計画2006-2016」では、さらに高度な科学研究のための情報サービスや、診療記録との連携、世界の健康格差の是正など、その役割を大きく広げようとしている。
このように、広範囲の活動が着実に実行され実績をあげてきたのは、リンドバーグ館長も主張しているように、細心の立案と創造的思考(careful planning and visional thinking)(8)に鍵があるようである。本稿で追った長期計画の作成プロセスや内容から、医学研究者や図書館関係者、コンピュータ科学に限らず、政策関係者や民間の企業など広く専門家を集め、親機関であるNIH、さらには連邦政府の重点目標を節目ごとにとらえる、説得力のある計画づくりをしていることがうかがえる。しかも、計画に対する実績の評価を踏まえて、確実に次のステップに進む手続きを踏んでいる。さらに、今回の「目標4」に掲げられているように、事業の拡大には、長期的な展望にたった人材への投資も忘れずに盛り込んでいる。これらの緻密な計画、評価、そして必要な予算や人材を当てた実行のサイクルが、NLMの役割を進展させていることが理解できる。
本稿をまとめるにあたり、愛知淑徳大学 野添篤毅教授に建設的なご助言をいただきました。ここに記し、謝意を表します。
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Ref:
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