カレントアウェアネス
No.352 2022年06月20日
CA2019
学術界とソーシャルメディア―Twitter活用の功罪と希望―
東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構:横山広美(よこやまひろみ)
概要
学術界とソーシャルメディア、特にTwitterではたびたび激しい軋轢や炎上が見られる。学術に関するあらゆる情報がオープンに議論されることは好ましいことであるが、付随して起きる軋轢により失われるものにも注意が必要である。ここでは科学技術社会論の観点から問題の整理を試み、ソーシャルメディアと学術界の付き合い方について、分断された「島」同士をつなぐ、知性にユーモアを加えた場の醸成を提案する。
研究者の社会的責任論から考えるソーシャルメディア
昨今、ソーシャルメディアの中でも特にTwitterで、研究者の発言が注目され参照されることが多い。新型コロナウイルス感染症、ロシアによるウクライナ侵攻、ハラスメントなど注目されるソーシャルメディア上の議論でも、研究者の参加が多く見受けられる。また、テレビや記事で解説をする研究者の多くがソーシャルメディア上でも発言をしており、旧来メディアでの考察を補う情報の発信や、人となりがわかることが魅力となり、フォロワー数を伸ばしている。一方で、トラブルも少なくない。研究者同士の議論の過熱や対立は、あちこちで見られる。小さな行き違いから、主張の対立までさまざまであるが、それぞれの正義感をもとに活動している様子がうかがえる。研究についての広くオープン化された議論は歓迎すべき望ましいことであるが、さまざまな歪みが新たに生じているのも事実である。炎上のメカニズムや正義感についての研究はあるが、ここでは研究者が重視する学術界の規範について注目をする。
こうした現状を、科学技術社会論の観点から整理している、科学者の社会的責任論に当てはめてみたい(1)。1つ目は研究に不正がない「質管理」、2つ目は、ゲノム編集や人工知能(AI)などの科学技術が作ったもの・作ろうとしているものの未来世代にわたる影響に責任を担う「製造責任」、そして3つ目は、専門の知見を社会に分かりやすく説明する責任を含む「応答責任」である。多くの研究者が、キャリアを積むうえで、この3つを肝に銘じていると考えられる。ここでは特に、ソーシャルメディア上の活動と関連する「質管理」と「応答責任」についてみていきたい。
学術界のツイートで時折激しく炎上するのが、「質管理」の追求である。研究者コミュニティにとって極めて重要な問題であり、不正はあってはならないと、議論が尽くされる。研究者コミュニティの中で議論を行うためのウェブサイトもあるが、解決への議論・プロセスがソーシャルメディア上にオープン化され、そこでの議論が重要性を持つようになった。ここで思い出すのは、英国で2009年に起きたクライメイトゲート事件とそれを評価した科学技術論者のコリンズ(Harry Collins)の主張である(2)。この事件は、温暖化を急先鋒で主張する研究者らが作ったプロットに改ざんがあったことが、インターネット上に暴露された彼らのメールのやりとりから明らかになった事件である。この事件が、英国における一般社会の研究者のイメージである、何か特別なオーラを纏った神秘的な研究者像が破壊されるのに決定的だったという。研究者がインターネット上に普段の姿を見せることで「普通の人」だとわかり、その権威が社会に移行して、誰もが専門家のようにプレーヤーとして参加するようになり、誰が専門家なのか、という問いが生まれ議論された。ここではインターネット上としているが、ソーシャルメディアが重要な役割を果たしているであろう。
次に「応答責任」について昨今の事例から考える。感染症について最新の状況や研究に関する情報の需要が高まったコロナ禍において、ソーシャルメディアは、研究者が社会からの要請に応える場として活用され、また、要請先の選定の場として機能しているように見受けられる。コロナ禍において、多くの情報がソーシャルメディアを通じて拡散された。特に専門性が高く発言力もある研究者は、ソーシャルメディアと旧来メディアでの露出が相互に強め合い、影響力を高めていった。こうした研究者は、時には過度に英雄化され、科学者のスター化現象が起きた(3)。しかしこうした危機時にも、専門性が高い研究者であるにもかかわらず、メディアに取り上げられにくい人がいることに注意が必要である。むろんすべての研究者にスポットを当てることは必要もないが、一部のメディアが担っていた、目利きとして専門家を探す仕事が、情報源をソーシャルメディアなどに頼りがちになることで、ソーシャルメディア上で発信を行っていない研究者を見逃してしまう傾向が懸念される。また、スター化された研究者が述べること以外にはスポットが当たりにくいという、負の側面があることに注意が必要だ。
一方でコロナ禍では、世界と比較して日本ではなかなか拡充されなかったPCR検査の有用性について、研究者や医師がソーシャルメディアで改善を促す活動を行う事例が見受けられる。ソーシャルメディアの良いところは、こうした広義の専門家の活動が見えやすいことではないだろうか。
しかし、実際のところ、社会への応答責任を果たさねばと思う義務感からソーシャルメディアに参加している研究者が多いかというと世界的にはそうでもなく、雇用目的等が多いようだ(4)。インターネット上のプロファイル情報はもはやアカデミアの就職活動に欠かせず、日本では科学技術振興機構(JST)が提供するresearchmap、欧米ではResearchGateやAcademia.eduなどが使われるが、Twitterなどで目立つことが研究や就職に必ずしも役立つとは認識されていない。一方で、この数年、インターネット上でどのくらい話題にされたかという「オルトメトリクス」が重視されるようになり、ジャーナルはインターネット上での見える化、ソーシャルメディア戦略を進めている。論文が読まれるにもTwitterをはじめとするソーシャルメディアが重要であり、学術界とソーシャルメディアの共存はますます進んでいると言えるであろう。
学術界の在り方が問われるソーシャルメディア
ソーシャルメディアではこれまで見てきた研究の内容や社会的責任に関する問題を越えて、研究者が当事者として学術界の在り方を問われる議論も盛んに行われる。学術界に降りかかるフェイク情報と闘う研究者もいる。この原稿を書いている間にも、政治家の間違った発言を即座に打ち消し、正しい情報を流す役割を、何人かの目立った研究者が行った。
ところで、ソーシャルメディア上には悪意あるグレーゾーン攻撃が多く存在しており、フェイク情報という形で様々な媒体で拡散されている。こうした情報を適切に排除するのに、ソーシャルメディア上で活動する研究者個人は尽力すべきだろうか。放置はできないが、研究者個人が担うのがはばかられる分量と内容であることも多い。あまりに問題が大きいときには、学会等からの発信を検討することが適当な場合もあるであろうし、何よりテレビや新聞などのマスメディアがこうした際には大きな役割を担うのが重要であろう。
さらに、女性研究者に対する、Twitterをはじめとしたソーシャルメディア上でのオンラインハラスメントは、世界的に大きな問題となっている(5)。これは切実な問題である。プレゼンスを発揮したい研究者が、女性であるという理由だけで男性よりも意見を発しにくいソーシャルメディア上の環境が確かにあると筆者も感じる。男性を含むアカデミアにおけるオンラインハラスメントも指摘されているが、日本ではやはり女性へのハラスメントが厳しく、改善が必要である。
場の醸成に必要なものは
さて、多くの期待と同時に問題をはらんだ学術界とソーシャルメディアの関係であるが、結局どのように付き合っていくのがよいのだろうか。ソーシャルメディアが異なる政治的思考を持つ人たちを分断することは良く知られている(6)。そろそろ私たちは、分断を融和する使い方を目指していくべきではないか。インターネット上で、個別アカウントに対する「個別的信頼」が爆発的に生じた例として、個人の車がタクシーの役割をするBlaBlaCarやUberといったシェアリングエコノミーの浸透が指摘されている。見ず知らずの人の車に乗ってタクシー替わりに使うこのシステムは、運転手個人への信頼感の有無が肝になる。こうした現象は、運転手個人への信頼がインターネットを通じて爆発的に拡大したという解釈ができ、「信頼の革新」と呼ばれる(7)。一方で議論の場としてのソーシャルメディア全体に、こうした信頼感があるわけではない。個別的信頼と対比して、相手を知らない場合でも相手が裏切らないと信頼できる社会全体への信頼感を一般的信頼と呼ぶが、学術界の議論においてソーシャルメディアにそれを求めるのはなかなか難しい。しかしそれをも理解した上で、研究者が率先してソーシャルメディアを安心して議論ができる場にしていく必要があるのではないか。
多くの研究者は真面目過ぎるのかもしれない。ふざければよいというものではないが、ユーモアを交えて議論の緩急を使い分ける名アカウントは以前から人気である。つい確認したくなる、フォローしたくなる、そうしたアカウントが静かに波及している。分断された島同士をつなぐこうした使い方を、意識的にもっと取り入れていくべきかもしれない。
コロナ禍で対面の機会が減り、オンラインが中心になるからこそ、こうした議論の余白部分が大事になってくるのではないか。もちろん、譲れない議論を徹底的にするのも研究者の社会的責任である。同時に一歩引いて、ゆとりあるセルフプロデュースをする研究者を見習いながら、ソーシャルメディア上での社会貢献ができたらと思う次第である。
(1) 藤垣裕子. 科学者の社会的責任. 岩波書店, 2018, 91, 19p., (岩波科学ライブラリー, 279).
(2) ハリー・コリンズ. 我々みんなが科学の専門家なのか?. 鈴木俊洋訳. 法政大学出版局, 2017, (叢書・ウニベルシタス, 1055).
(3) 横山広美. “スター科学者ではなく「グループボイス」を”. Voice. PHP研究所, 2021, (523), p. 75-81.
(4) Greifeneder, E.; Pontis, S.; Blandford, A.; Attalla, H.; Neal, D.; Schlebbe, K. Researchers’ attitudes towards the use of social networking sites. Journal of Documentation. 2018, 74(1), p. 119–136.
https://doi.org/10.1108/JD-04-2017-0051, (accessed 2022-04-26).
(5) Veletsianos, George et al. Women scholars’ experiences with online harassment and abuse: Self-protection, resistance, acceptance, and self-blame. New Media and Society. 2018, 20(12), p. 4689-4708.
https://doi.org/10.1177/1461444818781324, (accessed 2022-04-26).
(6) Conover, M.; Ratkiewicz, J.; Francisco, M.; Goncalves, B.; Menczer, F.; Flammini, A. Political Polarization on Twitter. International AAAI Conference on Web and Social Media. 2011, 5(1), p. 89-96.
https://ojs.aaai.org/index.php/ICWSM/article/view/14126, (accessed 2022-04-26).
(7) 与謝野有紀. “信頼の革新、間メディア・クラック、およびリアルな共同の萌芽”. ソーシャルメディアと公共性 リスク社会のソーシャル・キャピタル. 遠藤薫編. 東京大学出版会, 2018, p. 97-123.
[受理:2022-05-18]
横山広美. 学術界とソーシャルメディア―Twitter活用の功罪と希望―. カレントアウェアネス. 2022, (352), CA2019, p. 5-7
https://current.ndl.go.jp/ca2019
DOI:
https://doi.org/10.11501/12301405
Yokoyama Hiromi
Academia and Social Media—The merits, demerits and hopes of using Twitter