CA1662 – 隠喩としての人文系学術書 / 長谷川一

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カレントアウェアネス
No.296 2008年6月20日

 

CA1662

 

隠喩としての人文系学術書

 

人文系学術書とデジタル化

 電子ジャーナルは、これまでのところ学術出版のデジタル化においてもっとも「成功」したもののひとつにあげてよいだろう。一方、モノグラフに代表される人文系学術書は、これとはひどく対照的な状況にある。

 ここでいうモノグラフとは、ひとつのテーマについて深く掘り下げた論考のことだ。一般に、ひとりの研究者によって著され、まとまった分量をもち、多くは書籍の形態で出版される。人文系学術書の基本形であり、人文学の研究成果の軸となる発表形態である。

 モノグラフについてもまた、1990年代以降デジタル化が模索され、英語圏では実際に大きなプロジェクトが立ちあげられた(1)。プロジェクトは巨大化し、デジタル・アーカイヴが構築され、オープンアクセスも実現された。それ自体は意義あることだが、にもかかわらず、当初掲げていた華々しい惹句に見あう成果は達成されていないことは指摘されてよいだろう。そもそも発足の目的のひとつとして、デジタルメディア時代にふさわしいモノグラフの新しい形式をつくりだすことが謳われていたからだ。この目的は、いつのまにか揮発してしまったらしい。

 人文系学術書のデジタル化が模索された背景には、従来の冊子体ベースの出版が直面していた閉塞感がある。ひらたくいえば、書籍を出版しても売れず、売れないから次の出版が厳しくなるという悪循環である。これは学問の危機をまねく一大要因だという議論の中心を、少なくとも初期の段階において、英語圏では大学・学協会・研究図書館といったセクターが占めていた(2)。これにたいし、日本でこの種の議論を担ったのは一部の出版産業関係者であった。

 日本でも人文系学術出版の市場が縮小し、学術書にたいする社会的関心の深刻な低下に直面していたが、産業内部からは、流通の制度疲労をその要因と見なす言説が絶えなかった(3)。出版活動が書物という物質を基盤におく以上、流通制度に依存せざるをえない。書物ないしテクストのデジタル化は、こうした物質的・制度的制約をバイパスしうるのではないかと考える者もあらわれた。しかしこれらの議論によって具体的な見通しが得られたとはいいにくく、散発的に見られるいくつかの例外を除き、実践に結実することはなかった(4)

 

拒絶と隠喩

 ジャーナルがデジタル化される過程では、少数の有力学術出版社による寡占化が進む一方で、既存の権威と制度自体を揺さぶり相対化するような新たな形式が早い時期に生みだされた。査読が完了して著名ジャーナルに論文が掲載されるのに先だってオンラインで公開するプリプレス電子ジャーナルなどがその代表である。

 それにくらべると、人文系学術書の歩みはいかにも鈍重に見える。電子ジャーナルが具体化していく脇で、あいかわらず人文学の最良の成果は書物の形で出版されるという構図は生きながらえている。そのさまは、みずからをデジタル情報に置き換えようとする力にたいし、人文系学術書があたかも拒絶を示しているようですらある。

 拒絶?

 工学的あるいは社会科学的な意味での技術論の水準だけで見れば、書物は情報の搬送体であって、操作可能な対象である。それ以上でも以下でもない。そのような思考に慣れた耳には、この表現はたんなる喩え話と響くにちがいない。

 たしかに、「人文系学術書はデジタル情報に還元されるのを拒絶する」とは比喩である。ただし比喩は、一般に漠然とそう信じられているような修辞上の装飾であるとはかぎらない。なかでも隠喩(メタファー)は、人間が認識し思考するうえで、けっして欠くことのできない基盤を織りなしている(5)

 いま、この文章を読んだあなたが、「そんな浅薄な発想じゃ、しっかりした論理の枠組みに載らないよ」と叫んだとしよう。そのとき、あなたの発話を構成する概念は隠喩に依存している。「浅薄な発想」は、紙のように薄っぺらい格好をした物体としてイメージされただろう。「しっかりした枠組み」は、コンクリートを固めるときに用いられるような堅固な型枠のようなものとしてイメージされただろう。むろんどちらも現実に存在してはおらず、前者を後者の縁に載せようとして失敗し、ハンプティ・ダンプティのように地べたに転げ落ちてしまうという現象が現実におきたはずもない。

 隠喩とは、事物を別の事物に置き換えるのではなく、事物と事物を結ぶ関係に注目し、さらに別の事物間の関係とのあいだに共通性を見出すことで成立する。したがって、隠喩はつねに、隠喩によって成り立っている概念を意味するのだ(6)

 それでは、デジタルメディア時代の人文系学術書がおかれている状況を、隠喩という視点から考察してみよう。そう、人文系学術書はみずからがデジタル情報に還元されることを、まさに拒みつづけてきた。いったい、なぜ?

 

作者と冊子体

 端的にいえば、それは人文系学術書が、それ自体で一個の自律した作品であることを(少なくとも理念的には)要請するからだ。作品を「人間(ヒューマン)」といいかえてもよい。人文系学術書とは、近代的主体のひとつの隠喩なのであり、それは「人文学(ヒューマニティーズ)」というプロジェクトの成り立ちに、根幹においてかかわっている。

 作品は一般に、それ自体を何かに還元されたり、別のものに置き換えられたりすることを根本において拒む。作品とは包括的なものであり、総体性を体現すると考えられているからだ。だから作品であるためには、分節されて境界が引かれ、その内側に一貫した秩序が内包され、個々の要素はそれにしたがって配置され、全体が統合されていなければならない。

 だが、書かれた文字(絵でも図でもいいのだが)は、本来たがいに疎遠でばらばらなものだ。それらが統合され、一貫したテクストとして構成されてゆくためには、読まれなければならない。フーコー(Michel Foucault)によれば、そのとき発見されるのが「作者」である(7)。統合のしかけは、むしろパフォーマティヴなのである。

 作者と聞けば、ふつう、その文章を実際にしたためた実在の人物を想起するだろう。現にテクストの生産者がその所有者であるとする図式は、今日の著作権概念の基本をなしている。ところが、フーコーのいう作者は、テクストの生産者=所有者をさすのではない。そうではなく、テクストに一貫した秩序を与える、その統一性の原理こそが、作者なのだ。

 だとすれば、そのような統合された総体性を物質的な水準で担保するのが冊子体、すなわち複葉の紙を綴じた書物の形式である。ブルーメンベルク(Hans Blumenberg)がいうように、綴じられた冊子体としての書物という隠喩に本質的なのは、異質なもの、ばらばらに分裂したもの、矛盾するもの、なじみのないものとよく知っているものを、統一として把握しようとする力であった(8)。書物が秩序化された空間として理解されてきたことは、扉・天・地・背・柱・小口・のどといった冊子体の各部位の命名法に明瞭に認められる。人文系学術書の執筆や編集は、しばしば建築をつくることに喩えられるだろう。

 

カードと書物

 ブルーメンベルクによれば、書物は、その時代その時代における知の総体性の隠喩であった(9)。中世キリスト教において、世界は神によって書き込まれた一冊の書物であるとする隠喩がまず確立する。ここには、それが読解可能であることが含意されている。以降、人文主義の勃興とルネサンスをへて近代にいたる過程で、神から自然や人間へ認識の対象が移行しつつ分裂し、同時に認識の焦点としての人間が主体化されてゆく。中世的な超越的な書物の単数性は根底から解体され、複数にわかれて専門化してゆく学問分野のひとつひとつが、それぞれ一冊の書物としてイメージされるようになってゆく。

 18世紀には『百科全書』が実現し、図書館の存在が浮上してくる。これらは、無数に分裂した書物が、差異を内包したまま収集・組織されることで、新たな総体性を獲得するための装置として企図されたものだ。けれども、こうした知を普遍的な総体として束ねようとする志向は、20世紀に入って破産する。知は無限に自己増殖をつづけるのみ、そこに方法ばかりが卓越する。

 ベンヤミン(Walter Benjamin)は1920年代、すでに学問的な書物は2つの異なるカードファイルシステムを古くさいやり方で媒介するものにすぎないと見抜いている(10)。ある書物の重要な点はことごとく、著した学者のカードボックスに見出されるのだし、その書物を研究する者は、それをじぶんのカードファイルに取り込むのだから。したがって、「当今の学者の平均的著作は、カタログのように読んでおくべきである」(11)。インターネットや各種データベース、アウトラインプロセッサや文献管理ソフトウェアなどの支援をうけ、ワードプロセッサを駆使して執筆される今日の「平均的」な人文系学術書もまた、「カタログのように読んでおくべき」性質のものにちがいない。

 

知の身体

 中世以来、書物は統合の隠喩であり、同時に解体されつづけてきた。原克によれば、これはすなわち、近代的主体が機能的部分へと解体されてゆく様相そのものである(12)。二つのことが示唆されよう。

 ひとつは、人文系学術書とは、一個のすぐれた主体による認識と思考が一貫した秩序のもとにまとめられた包括的で総体的な作品であるという、いかにも近代的なフィクションは、いまや明らかに破綻しているということである。

 もうひとつは、こうした人文系学術書の解体は、近代的主体としての「人間」の解体と裏表の関係にあると見られなければならないということである。これは、石田英敬のいう「人間以後(ポスト・ヒューマン)」という認識へとつながってゆく(13)。当然その矢は、認識の焦点であり探究の対象でもある「人間」という主体を生みだし前提にしてきた人文学にも向かうだろう。

 人文系学術書・人文学・「人間」の三つが目下直面する「危機」はすべて連動している、あるいはひとつの状況の三側面である。大学などの高等教育機関を企業体的組織へと再編成する動きの足許を浸すのは市場主義だが、市場主義を基礎づけるのは、主体を特定の機能的部分に還元する視線である。実用主義のみが著しく突出する傾向のなかで、もっとも厳しくその存在理由が追及されたのは、「教養」に象徴される人文学的な知ではなかったか。

 にもかかわらず、人文学がかろうじてその命脈を保ちつづけてきたのだとしたら、その要因のひとつは、冊子体という物質的基盤に求められる。たしかに、人文系学術書を一個の宇宙と見なす構図はもはや成立しない。だが、たとえカードの羅列で執筆されたとしても、それが冊子体という有限な空間性を担保する形態によって物質化されさえすれば、事後的に世界性は生成しうる。著作を手にとり、読む。そのときわたしたちは、そこに「作者」を発見し、「一貫した秩序」を読み込もうとするだろう。裏返せば、冊子体という物質的形式こそが、人文学的な知の身体なのである。

 さて今日、グーグル・ブック検索に象徴されるように、統合の隠喩であった書物が機能的部分へと解体されてゆく長い道程の最終段階へと達しつつある(14)。書物をネット検索のための資源としてデータ化することは、いくつかの水準で検討されなければならない。いまはこう記すにとどめよう。人文系学術書から冊子体という物質的基盤が失われるのは、ちょうど人間がみずからの受肉した身体を奪われるようなものだろう、と。

明治学院大学:長谷川 一(はせがわ はじめ)

 

 

(1) American Council of Learned Societies. “ACLS Humanities E-Book”. http://www.humanitiesebook.org, (accessed 2008-05-02).

(2) 英語圏における人文系学術書をめぐるデジタル化にかんしては、下記第3章を参照せよ。
長谷川一. 出版と知のメディア論. みすず書房, 2003, p.185-235.

(3) 日本における人文系学術書の「危機」およびデジタル化をめぐる言説にかんしては、下記第4章を参照せよ。
長谷川一. 出版と知のメディア論. みすず書房, 2003, p.237-274.

(4) わたしの考えでは、日本の人文系学術書出版について、「人文書」という言葉を抜きに語ることはむずかしい(「人文書」とは、人文系学術書という中立的な表現とは異なる固有の概念である)。詳しくは次を参照されたい。
長谷川一. 出版と知のメディア論. みすず書房, 2003, p.237-274.

(5) たとえば次を参照せよ。
Levi-Strauss, Claude. 野生の思考. 大橋保夫訳. みすず書房, 1976, 366p.

(6) Lakoff, George et al. レトリックと人生. 渡部昇一ほか訳. 大修館書店, 1986, p.7.

(7) Foucault, Michel. “作者とは何か?”. ミシェル・フーコー文学論集, 1. 清水徹ほか訳. 哲学書房, 1990, p.11-70.

(8) Blumenberg, Hans. 世界の読解可能性. 山本尤ほか訳. 法政大学出版局, 2005, p.12, (叢書・ウニベルシタス, 831).

(9) Blumenberg, Hans. 世界の読解可能性. 山本尤ほか訳. 法政大学出版局, 2005, p.12, (叢書・ウニベルシタス, 831).

(10) Benjamin, Walter. “一方通行路”. 記憶への旅. 浅井健一郎ほか訳. 1997, p.17-140, (ちくま学芸文庫:ベンヤミン・コレクション, 3).

(11) Benjamin, Walter. “一方通行路”. 記憶への旅. 浅井健一郎ほか訳. 1997, p.55, (ちくま学芸文庫:ベンヤミン・コレクション, 3).

(12) 原克. 書物の図像学:炎上する図書館・亀裂のはしる書き物机・空っぽのインク壷. 三元社, 1993, p.182.

(13) 石田英敬. 記号の知/メディアの知:日常生活批判のためのレッスン. 東京大学出版会, 2003, p.357.

(14) 詳しくは次を参照。
長谷川一. グーグル切断. 情報学研究:学環:東京大学大学院情報学環紀要. 2006, (70), p.89-104. http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/pblc-achv/bulletin/70/hasegawa.pdf, (参照 2008-04-21).

 


長谷川一. 隠喩としての人文系学術書. カレントアウェアネス. 2008, (296), p.4-6.
http://current.ndl.go.jp/ca1662