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カレントアウェアネス
No.292 2007年6月20日
CA1632
欧州連合の情報政策と欧州デジタル図書館
欧州連合の情報政策
欧州連合(EU)の行政執行機関である欧州委員会(European Commission:以下「EC」という。)は,2000年3月のEUサミットで合意された「リスボン戦略(Lisbon Strategy)」において,デジタル情報技術を用いて,2010年までにEUを世界で最も活発な知識立脚型経済社会にすることを目標として掲げた。そして,この目標を実現するための具体的な行動計画として,「eEurope 2002 Action Plan」が策定された。eEurope 2002以降,継続的に行動計画が策定・実施されたが,リスボン戦略は充分な効果を発揮しないまま見直しが迫られた。2005年6月に,これまでの取組の成果と課題を踏まえ,2005年から2010年に至る戦略計画として「i2010:欧州情報社会2010−成長と雇用のための欧州情報社会」(以下「i2010 計画」という。)(1)が定められた。これは,EU経済の成長と雇用促進のために,デジタル情報技術の進展に沿って,EU社会全体が採用すべき包括的な戦略計画であると整理できよう。このi2010計画は3つの重要な柱を持っている。第1には,単一欧州情報空間(Single European Information Space)の構築である。EU圏全体に安価で安全な大容量通信サービスを整備し,豊富で多様なコンテンツを相互運用性を確保しつつ提供することを意味する。第2には,ICT分野の開発および研究に対する投資を増加させることである。EUにおけるICT関連研究に対する支援を2010年までに,現在よりも80%増加させることを目標とする。第3には,ICTを介して公共サービスと生活の質の向上を図ることである。とりわけ,EU加盟国の国民がデジタルサービスの恩恵を等しく受けることができるように,デジタル・デバイドの解消を目指す。
欧州デジタル図書館とデジタル化計画
こうした i2010計画の中の最重要プロジェクトの1つに, 欧州デジタル図書館(European Digital Library:以下「EDL」という。)の設立がある(E390,E461参照)。EDL設立の目的は,ICTを利用した電子図書館を構築することによって,「ヨーロッパの多様な文化的かつ科学的な遺産(Europe’s diverse cultural and scientific heritage)」へのアクセスを容易にし,さらには,それを人々の関心を惹くものとして提供することである。また,提供の際には,ヨーロッパの文化的遺産の多文化性や多言語性を尊重することが明示されている(2)。このようなEDLは,「文化遺産(cultural heritage)」部門と「科学および学術情報(scientific and scholarly information)」部門とに分けられる。
前者の計画の概要は,2005年9月に発表された(3)。それは,さまざまな文化遺産(書籍,フィルム,写真,手稿,スピーチ,音楽等)で,パブリックドメインにあるものや著作権者の許諾を得たものをデジタル化し,インターネットで公開することを通して,いつでも,どこでも,誰でも文化遺産にアクセスできるようにすることである。概要発表後の約半年後の2006年3月には,さらなる具体案が示された(4)。それによると,(1) 2006年末までにEU圏内の国立図書館から全面的な協力を取り付ける。さらに,公文書館や美術館にも協力関係を拡大する。(2) 2008年までに200万点の書籍,映画,写真等をデジタル化し,インターネットで公開する。2010年までに600万点のデジタルコンテンツの公開を目標とする。(3) デジタル化した画像に関しては,TEL(The European Library;CA1556参照)のポータルサイトからワンストップで公開する。このように,膨大な文化遺産をデジタル化し,それをEU圏の人々が自由(フリー)に利活用できる機会を提供することが,EDLの一つの目標とされている。そして,現在,フランス国立図書館がEDLのプロトタイプを構築するまでに至っている(5)。
しかし,デジタル化計画自体は,順調に進んでいるとは言いがたい。2006年8月には,デジタル化作業が想定よりも遅れているという認識から,ECはEDL計画促進に向けた勧告を出した(E541参照)。こうした遅延の主な理由には,著作権処理問題がある。EU圏では著者が亡くなってから70年間は著作権が存続するので,この間は,複製権や公衆送信権等の関係から,許諾を得ない限りデジタル化を行うことはできない。したがって,円滑にデジタル化できるのは1920年代以前の著作物に限られてしまうのではないか という危惧が生じている(6)。だが,この件に関しては,EDLのHigh Level Expert Group(高次専門家グループ)が検討を行い,2007年4月に,デジタル化の方針を明確化している。それによると,第一に,所謂Orphan Works(著作権は存続しているものの,著作権者やその連絡先が不明であり,デジタル化等に関する許諾を得たくとも誰に依頼すれば良いか分からない作品のこと)に対しては,利用の前に効率的に調査が可能なシステムを構築すべきであるとしている。第二に,「絶版資料(Out-of-Print Works)」に関しては,「図書館等に書籍そのものは存在するものの,権利者が商業的な価値を失っていると判断したもの」と定義し,この資料のデジタル化を行い,そのデータを施設内のコンピュータネットワークで使用する上で,権利者とライセンス契約を結ぶというモデルを提示している(E646参照)(7)。
欧州デジタル図書館とオープンアクセス
文化遺産 のデジタル化プロジェクトの一方で,EDLは,科学および学術情報のアクセス,提供,保存に関する諸問題にも取り組んでいる(E611参照)。ECは,2007年2月に,当該問題についての通知を出し,学術情報の流通を促進しつつ,デジタル環境下での学術情報のアクセスを保証することの重要性を説いている(8)。公的な助成による学術情報は原則的にオープンアクセスにすること,また,デジタル形態で流通している学術情報の長期保存に対して明確な戦略を立てること,この2つが大きな柱となる。特に,上記通知においては,次の4つのアクションを取ることが明記されている。(1) ECが公的資金を提供した調査・研究成果に対しては,自由(フリー)なアクセスを確保する。また,研究者がオープンアクセスリポジトリへ投稿する際の手段を明確化する。(2)デジタルリポジトリ等のインフラ構築および電子情報の長期保存に関するツールの開発に巨額の投資を行う。(3) 将来における電子情報保存ポリシー策定のため,電子情報保存にどれだけのコストがかかるのかについての調査を行い,同時に,学術出版のビジネスモデルを検討する。(4) 学術情報のより良いアクセス,提供,保存体制の確立のため,さまざまな利害関係者との協議を欧州議会レヴェルで実施する。このような学術情報流通に関するEDLのプロジェクトにおいて,関係者の期待が大きいのは,公的な助成を受けて産み出された学術情報をオープンアクセスにすることである。欧州研究諮問委員会(European Research Advisory Board:EURAB)は,2006年12月,ECの研究開発プログラムである「EU第7次枠組計画」(9)の助成を受けた研究成果に対しては,オープンアクセスを義務付けるように,ECに勧告している(E604参照)(10)。
欧州デジタル図書館の存在意義
EDLは,まだ構想・模索の段階にあると言って良い。しかし,i2010計画を土台として,EDLの構築にかけられた理念は,EUにとって重要なものであるはずである。というのも,ECの情報社会・メディア担当委員であるレディング(Viviane Reding)は,次のように語っているからだ。「一つの集合的記憶(a collective memory)がなければ,我々の存在は意味を持たず,何にも到達できない。集合的記憶は,我々のアイデンティティを定義するのであり,我々は,この集合的記憶を,教育のために,あるいは,仕事,余暇のために使うことができるのだ」(11)。つまり,EDLは,ヨーロッパという多文化的かつ多言語的共同体が有する過去の著作物のデジタル化を推進するとともに,現在次々に産出されている学術情報のアクセシビリティを向上させることによって,EUという新しい共同体のための「精神的土台」を築こうとしている,と言うことができるように思われる。
調査及び立法考査局海外立法情報課:鈴木尊紘(すずき たかひろ)
(1) i2010計画に関しては,Commission launches five-year strategy to boost the digital economy. (online), available from < http://ec.europa.eu/information_society/eeurope/i2010/docs/press_release_en.pdf >, (accessed 2007-04-13). を参照。より詳細な説明は,i2010 – A European Information Society for growth and employment. (online), available from < http://ec.europa.eu/information_society/eeurope/i2010/docs/communications/com_229_i2010_310505_fv_en.pdf >, (accessed 2007-04-13). を参照。なお,日本語で書かれた当戦略計画の簡潔な考察としては,下記の2点が挙げられる。木庭治夫. EUのi2010戦略をめぐるICT政策の動向. KDDI総研R&A. 15(9), 通号177, 2005, 1-15., 有倉陽司. 欧州の情報社会化推進政策の動向. JEIMA Review. 7(5), 2006, 36-41. また,リスボン戦略の見直し及び2005年以降の8つの重要政策については,Commission sets out 8 key EU measures to create more growth and jobs. (online), available from < http://europa.eu/rapid/pressReleasesAction.do?reference=IP/05/973&format=HTML&aged=0&language=EN&guiLanguage=en >, (accessed 2007-05-24).を参照。
(2) EDL の全般的説明に関しては,What is the Digital Libraries Initiative. (online), available from < http://ec.europa.eu/information_society/activities/digital_libraries/what_is_dli/index_en.htm >, (accessed 2007-04-13). を参照。なお,現在,EDLを主導しているのは,ドイツ国立図書館であり,参加国 は15か国である(アイスランド,アイルランド,イタリア,オーストリア,オランダ,ギリシャ,スイス,スウェーデン,スペイン,スロベニア,ドイツ,ベルギー,ノルウェー,リヒテンシュタイン,ルクセンブルグ)。2007年末までにはEUに加盟している全ての国の国立図書館がEDLに参加する予定である。この点に関しては,EDL project Partners. (online), available from < http://www.edlproject.eu/partners.php >, (accessed 2007-04-13).を参照。
(3) Commission unveils plans for European digital Libraries. (online), available from < http://europa.eu.int/rapid/pressReleasesAction.do?reference=IP/05/1202&format=HTML&aged=1&language=EN&guiLanguage=en >, (accessed 2007-04-13). なお,EDLプロジェクトは,多言語環境下でのデジタルコンテンツ(特に,地理的,教育的,文化的,科学的,学術的コンテンツ)へのアクセスの向上を目指す「eContentplusプログラム」にも資金の助成を受けている。この点に関しては,EU contribution to the European digital library. (online), available from < http://www.edlproject.eu/digital_libraries.php >, (accessed 2007-04-13).を参照。
(4) European Commission steps up efforts to put Europe’s memory on the Web via a “European Digital Library”. (online), available from < http://europa.eu.int/rapid/pressReleasesAction.do?reference=IP/06/253&format=HTML&aged=0&language=EN&guiLanguage=en >, (accessed 2007-04-13).
(5) このプロトタイプは,“Europeana” と呼ばれるもので,下記URL で公開されている。< http://www.europeana.eu/ >, (accessed 2007-05-24).
(6) こうした危惧に関しては,ドイツ国立図書館のEDL担当者であるブリッタ・ヴォルデリング(Britta Woldering)によって表明されている。Old books only in European Digital Library. (online), available from < http://euobserver.com/871/22383 >, (accessed 2007-04-13).を参照。
(7) High Level Expert Group – Copyright Subgroup, Report on Digital Preservation, Orphan Works and Out-of-Print Works, Selected Implementation Issues. (online), available from < http://ec.europa.eu/information_society/newsroom/cf/itemlongdetail.cfm?item_id=3366 >, (accessed 2007-05-24).を参照。なお,韓国においては,発行日から5年以内の販売用図書を除いて, 図書館等が図書を電子的に複製し,図書館間で伝送することができる。(韓国著作権法第28条による。)この点についての詳細は以下を参照。文化庁. 韓国における著作権侵害対策ハンドブック. (オンライン版), 入手先 < http://www.bunka.go.jp/1tyosaku/kaizokuban/pdf/korea_singai_handbook.pdf >, (参照 2007-07-12).
(8) 当通知そのものは,Communication on access to scientific information in the digital age. (online), available from < http://ec.europa.eu/information_society/activities/digital_libraries/doc/scientific_information/communication_en.pdf >, (accessed 2007-04-13).を参照。プレス・リリースとして,より簡略に整理されたものとしては,Scientific information in the digital age:Ensuring current and future access for research and innovation. (online), available from < http://europa.eu/rapid/pressReleasesAction.do?reference=IP/07/190&format=HTML&aged=0&language=EN&guiLanguage=en >, (accessed 2007-04-13).を参照。
(9) 「EU第7次枠組計画(EU Seventh Framework Programme)」は,EU加盟国間の共同研究活動,欧州研究評議会(European Research Council:ERC)を通して実施される基礎的研究,人材の流動性の促進,「知」に基盤を置く地域や中小企業の支援,この4つの助成を行うものである。詳細は,EUの第7次研究枠組み計画(FP7). (オンライン版), 入手先 < http://jpn.cec.eu.int/relation/showpage_jp_relations.science.fp7.php >, (参照2007-04-13).を参照。
(10) EURAB.SCIENTIFIC PUBLICATION:POLICY ON OPEN ACCESS. (online), available from < http://ec.europa.eu/research/eurab/pdf/eurab_scipub_report_recomm_dec06_en.pdf >, (accessed 2007-04-13).
(11) こうした言明に関しては,Commission unveils plans for European digital Libraries, op.cit. (3).を参照。
鈴木尊紘. 欧州連合の情報政策と欧州デジタル図書館. カレントアウェアネス. (292), 2007, p.11-14.
http://current.ndl.go.jp/ca1632