4.5. 子どもの情報行動に関する社会学的研究

 歴史学・社会学の古典とも呼べる研究のひとつ,『〈子供〉の誕生:アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』のなかでAriesが明らかにしたように,近代化の過程で,子どもは「小さな大人」から「純真無垢であり,特別な庇護を受けるべき存在」へと変容を遂げた(Aries 1980)。一方,情報メディアの発達は,近代に生きる人びとを直接的に経験可能なリアリティの場から引き剥がし,抽象化された情報空間のもとに置いてきた(Lippman 1987)。そして同時に,この抽象化された情報空間では「本物」を見失う危険性があるという認識が醸成された。

 このような「純真無垢な子ども」と「本物を見失わせる情報メディア」という認識枠組みは,「本物を見失わせる情報メディアは,子どもに悪影響を与える」という言説へと繋がっていく。こうした考え方は,テレビやゲーム,携帯電話(ケータイ)が登場した当時の社会の反応を見ても明らかなように,新興メディアが登場したときに特に顕著に表れる。ここでは,何をもたらすか予測ができない「新しさ」と従来のスタイルとの「断絶」がとりわけ強調される。

 しかし,こうした電子的な情報メディアだけが「悪」と位置づけられるわけではない。今では娯楽の1つとして一般化し,さらには「芥川賞」や「直木賞」などをはじめとする栄誉ある表彰の対象にもなっている小説も,かつては「俗悪メディア」と見なされていた。高橋一郎は,明治期には人に悪影響を及ぼす「俗悪メディア」と価値づけられていた小説が,次第に「教育的メディア」へと転換を遂げていく過程を,知識社会学の枠組みを用いながら考察している(高橋 1995)。またパオロ・マッツァリーノは,時代によって「悪役」になるメディアが,日本では本 → 映画 →テレビと移り変わってきたことを指摘している(マッツァリーノ 2004)。

 彼らが明らかにしているように,小説や本,情報メディアの価値はそれだけを単独で取り出して論じられるものではなく,社会的,時間的,政治的な文脈など,その背景と密接に関わりあっている。また,私たちは新しく登場したメディアをその都度受容し,環境の中に組み込んできた。つまり情報メディアが一方的に私たちの社会を変容させてきたのではなく,それを受容してきた人間や社会の側の働きも同じように重要であり,注目する必要があるだろう。

 社会学は,「私たち自身の生活や他の人びととの生活を形づくる諸々の影響作用について,自分個人の世界観を抜きにもっと注意深く考察する」1(Giddens 2004)ことを1つの思考スタイルとし,当然そうあるべきものとして日常生活のなかに溶け込んでいる規範や仕組みそのものを論題として俎上へ乗せ,一度解体し,その自明性を成立させている様々な要素について分析する。そこで本稿では「子どもの情報行動」をめぐる社会学的研究のレビューとして,「子どもの情報行動」,すなわち本を読む,テレビを見る,ケータイを使う,インターネットを使う・・・といった行為を,社会的,文化的,政治的,経済的,時間的,空間的な文脈と密接な結びつきをもったものとして捉え,考察している近年の成果を紹介する。

4.5.1. 子どもと情報メディア環境

 テレビ,本,マンガ,ゲーム,インターネット,携帯電話,オーディオ機器など,様々な情報メディアで構成されている現代の情報メディア環境と子どもたちの関係は,どのように理解することができるのだろうか。ここでは,情報メディア環境と子どもの関係の歴史性や,情報メディアが子どもたちのコミュニケーションに与える影響について分析した研究を紹介する。

 小林直毅,毛利嘉孝編の『テレビはどう見られてきたのか:テレビ・オーディエンスのいる風景』は,日常生活に溶け込み自明化してしまったために,依然情報メディアの1つとして重要な位置を占めているにもかかわらず,議論の素材として取り上げられることの少なくなったテレビと,その「オーディエンス」の関係,つまり「具体的にどのような空間と時間のもとにテレビが置かれているか」,「テレビを見ることによって,具体的に何をどのように体験しているか」,「具体的にそうした体験を通じて,どのような人が,どのようにしてテレビ・オーディエンスとして存在することになるのか」に焦点を当てた論文集となっている。そのなかでも小林直毅は「若者」というオーディエンスの誕生について(小林直毅 2003),小林義寛は「家族団らん」とテレビの関係について論じている(小林義寛 2003)。

 佐藤卓己は,歴史的な文脈から「メディア」を論じる代表的な論者であるが,情報メディアの歴史的変遷が子どもと大人の関係にもたらした影響について,次のように指摘する。書物による情報伝達では読み書き能力に優れた大人と,その能力が未熟な子どもという大人優位の関係が成立し得たが,映画,ラジオに始まる電子メディアはその関係を変質させ,子どもと大人の境界は消滅してきた。その要因としては,電子メディアが提供する情報は,文字ほどの抽象性を持っておらず,年齢にかかわらず理解可能であり,また伝達される内容も明確に「大人向け」,「子ども向け」と区分されてはいないことなどがあるという(佐藤 2006)。

 以上の論考は,それぞれのメディアの社会における位置づけが変化していることに留意せず,情報メディアについて論じることや,大人を優位とする大人と子どもの関係を出発点とし,子どもと情報メディアの関係を理解しようとすることが,時として的外れに終わる危険性に気付かせてくれる。子どもと情報メディアの関係や大人と子どもの関係は,決して静態的なものではなく,歴史の網の目のなかでダイナミックに変容していくものであり,このことに注意を払う必要があるだろう。
また,情報メディアと子どものコミュニケーションとの関連に注目した研究として,下記などが挙げられる。

 橋元良明は,情報メディアが友人を中心とする対人関係に全体的な影響を及ぼす,という考え方には留保を示しながらも,若者の特質とメディア利用が何らかの関係を持っていることは十分考えられるとし,ポケベル・ケータイの利用者では,非利用者よりも人との共感性が高く,現実体験を重視する傾向にあること,テレビゲーム利用者は,非利用者よりも共感性が低く,現実体験を軽視する傾向にあることを実証データから明らかにしている(橋元 1998)。

 松田美佐はケータイが仲介する若者のコミュニケーションの構造について分析を行い,その特質を「選択的」に結びつけられる対人関係であるとし,従来の人間関係の広い/狭い,深い/浅いとは位相の異なるものであることを指摘している(松田2000)。ケータイとコミュニケーションのあり方との関わりを論じている論者として,松田のほか辻大介などが挙げられる(辻 1999, 鈴木・辻 2006)。

 浅野智彦はインターネット上のコミュニケーションの特質を押さえた上で,現代の若者のアイデンティティについて論じ,「今や自己は抽象的・規範的な他者というクッションを間におくことなく,あれこれの具体的な他者との諸関係にストレートに接続するようなものになってきている」2こと,またその自己像の特徴として,「一貫性や統合性を失い,無数の諸関係の中に緩やかにほどけて行きつつある」3と指摘している(浅野 2005)。

 橋元,松田,辻らによる一連の研究は,「若者は人間関係が希薄である」という言説が現実に妥当かどうかを意識しながら,こういった言説と距離を取りつつ,実証的で冷静な分析を行ったものとして位置づけられよう。

4.5.2. 子どもの身体と情報メディア

 メディアを受容する側のありように注目した視点として,社会があるメディアを受容していく過程で私たちが組み込んでいく身体感覚への注目がある。「身体感覚に注目する」とはどういうことか,読書を例に示してみよう。書を読むときの基本スタイルはかつて「音読」であったが,明治期以降の近代化の過程のなかで,人びとは「黙読」というスタイルを自明化してきた,言い換えれば「黙読」というスタイルが私たちの身体にビルトインされてきた(御手洗 1999, 2002, 山梨 2001)。同じようなことが,テレビやゲーム,ケータイなど他のメディアとの関係でも言えるのではないか。こうした着眼点のことを指している。

 藤村正之は,1990年代以降におけるメディア環境と子ども・若者たちの身体というテーマを,(1)背景,(2)言説,(3)感覚という論点に整理し,説明している。(1)では,メディア環境が子どもや若者たちの生活や意識にもたらす比重の増大を,メディア自体の影響力に求めるのではなく,希薄化した人的環境との相関関係のもとで大局的に論じ,(2)では,メディアと子どもをめぐる議論の言説が「メディア・バッシング」と「メディア・アドボカシー」に2極化していることを取り上げ,どちらの言説においても背景となる社会状況への洞察が十分でないために,実情を適切に反映してはいないことを指摘している。(1),(2)を押さえたうえで,(3)でメディアのハードとしての表現形態や機器がもたらす身体感覚(インタラクティヴ感,身体の記号化,身体の感覚化など)について検討している(藤村 1998)。

 吉見俊哉は,テレビアニメ,テレビゲーム,ディズニーランドといった子どもたちのメディア環境を取り上げ,それぞれを歴史的に振り返りつつ,1960年以降「子どもたちの日常のリアリティそのものが,メディアによって取り囲まれ,映像的に構成されるようになってきている」4,「テレビ映像的な世界像は,すでに子どもたちの世界の外側から影響を及ぼしているというよりも,子どもたち自身がさまざまな自分たちの物語を作り出していくときの規定的なコードとなっている」5とし,メディア環境の歴史的変遷が子どもの身体感覚にどのような影響を及ぼしたか,また,新しい身体感覚を身に付けた子どもの実践が,周囲の環境にどのような作用を及ぼしているのか,ということを分析している(吉見 1995)。吉見は日本におけるカルチュラル・スタディーズの代表的な論者である6。カルチュラル・スタディーズでは文化を,「統一的・一貫的な原理で構成されるものというより,さまざまな諸要素がぶつかる戦場のようなものであり,矛盾や亀裂が発生し,ねじれや妥協を包含しながら,あたかも結果的に所与であるかのように構成されていく」7政治性をおびた実践プロセスであると考える(藤村 2007)。吉見が示しているように,カルチュラル・スタディーズの分析枠組みを用いることにより,情報メディアがもたらす能動的な環境変化だけでなく,情報メディアを使用する側が環境を構成していく実践に注目した分析にまで,考察の幅を広げることができる。

 水越伸は,新興メディアを積極的に使いこなそうとし,工夫を加える利用者に注目する。無線やラジオ,パソコンの草創期を取り上げながら,メディアの「遊び」としての利用,すなわち「可能なる利用法」を模索する積極的な利用者の活動の重要性を歴史的分析から示している(水越 2002)。

 技術を受容する身体へ注目することは,昨今注目されることが多いメディア・リテラシー教育についても新しい可能性を示唆する。吉見は現在の子どもが有している想像力,身体感覚,共同性を前提としたメディア・リテラシー教育を提唱しており,単に情報メディア機器の使い方を学ぶだけでなく,メディアを媒介として成立する世界のあり方を自覚し,能動的に再編していく方法を身につける必要性を主張している(吉見 1995)。水越はメディアを利用する際に「『あな』や『すきま』を見いだし,そこに主体的に棲息する力」としてのメディア・リテラシーが必要であるとしている。水越は技術が使い方を規定するのではなく,人が技術の使い方を規定すると捉え,メディアへ能動的に関わっていくリテラシーの必要性を主張している(水越 2002)。

4.5.3. 「子どもと情報メディア」をめぐる言説の分析

 本論の冒頭で,「本物を見失わせる情報メディアは,子どもに悪影響を与える」というイメージについて触れた。このような言説は,ことあるごとにマスメディアによる報道などによって増幅し,私たちのなかに定着してきたように思われる。一方で,子どもと情報メディアの関係をポジティブに捉える言説がある。「新しい情報技術やメディアは輝かしい未来社会を実現する」といったものである。北田暁大・大多和直樹が整理しているように,子どもとメディアの関係というトピックをめぐっても,このような否定的な言説と,肯定的な言説が,お互いに摩擦することなく併存するという状況がある(北田,大多和 2007)。特に,子どもとメディアというトピックが話題になる機会が多い教育の文脈においては,明確に現れると考えられる。しかし,現実をこのような二極化の枠組みで捉えることは難しく,大多和が指摘しているように,二元論に回収されることなく,より冷静で深遠な議論を繰り広げていくことが求められており,ここではそういった試みを紹介する。

 教育界の情報メディアに対する価値付けの恣意性とその恣意性が正当性を獲得するメカニズムを明らかにしたものとして,冒頭で紹介した高橋の論考がある(高橋 1995)。

 大多和は高橋の研究に着想を得,「メディアが価値付けられる現象に着目することにより,教育界と社会がいかなる関わり方をしているのかについて考察する」8という観点から,メディアの悪影響論とメディアの教育への導入という相容れない2つの現象が同時進行しているという現代的なメディア状況の理解を試みている(大多和 1997)。また別の論稿において,主にテレビを中心にテレビゲーム等も含めながら,戦後の教育界においてメディアに対し,どのような言説が生成されていったのか,3つの時代区分(1950年代~1960年代後半,1960年代後半~,1980年代~)について整理し,知識社会学の視座から検討を加えている。そのうえで現在の教育分野の議論では,メディアがもたらす「ヴァーチャル」な世界に対する,教育的価値の相対的に高い「リアル」な世界,リアルな世界を思考力を育むことによって豊かにする「イマジナリ」な世界,という見方が主流になっていると指摘している。このような想定のもとでは,現実世界のリアル性,体験教育を過剰に評価してしまうきらいがあるが,ヴァーチャルがすでに現代の経験を枠づけている要素の1つであると考えられる現在では,そこを出発点とした教育の創出が必要なのではないか,と示唆している(大多和 1999)。そのほか情報化と若者の描かれ方について,1980年代後半から1990年代前半にかけて検討を加えたものとして,新井克弥の研究がある(新井 1993)。

 また言説の生成過程を歴史的に分析するのではなく,言説が根拠としている「事実」の危うさを指摘する研究もある(阿久津ほか 1989, 1990, 1991)。阿久津善弘らは,子どもに悪影響を与えるとされる暴力番組の暴力刺激が一様に扱われてきたことの問題性を指摘し,どのような暴力番組が,視聴者にどのような影響を与えるのかを暴力番組の類型化の試みを通して明らかにしている。

 八尋茂樹は,印象論のみでテレビゲーム批判/擁護論を唱えるのではなく,議論の足場を固めてからゲームの効用や悪影響について論じる必要性があると指摘し,ゲームに対する批判的見解と肯定的見解が,実際のゲームのどのような内容と関連しているのかを,エスノグラフィーの手法を用いて明らかにしている(八尋 2005)。八尋によると,情報提供者の語りの内容は,状況(会話が大人同士/子ども同士/大人と子どもで行われたか)によって,否定的/肯定的と使い分けられており,それらの語りを多面的に捉え,立体的に構築していくことにより,ゲームに対する人々の見解を社会的・家庭的・教育的な文脈から理解することが可能になるとしている。

 前述のマッツァリーノは,子どもの読書の通説の1つとも言える「小中高と学校段階が上がるにつれて読書量が減る」という読書調査の結果に対し,異なる学校段階では,読書する本の難易度や量が大きく異なることが考えられ,読書冊数のみから「読書量が減った」という結論を導くやり方の危険性を指摘している。
これから子どもの情報行動についてより深遠な議論を展開していくためには,言説の歴史性や言説の拠り所である各種データやその結果分析の危うさを自覚し,言説についてじっくり吟味していく必要があるのではないだろうか。

4.5.4. 子どもの情報行動に潜在する階層性

 観察し易い形で現れないために見過ごされがちではあるが,子どもの情報行動の根本的な部分に,社会構造の階層性がある程度反映されていると考えることができる。

 出身階層が何であれ,本人の才能と努力次第では,「いい学校」や「いい会社」に入ることができる―このことが真実であって欲しいと願う人は少なくないだろう。しかし,教育社会学の研究者が明らかにしてきたように,教育達成度と出身階層の間には少なからず関連性があるという(苅谷 2001)。これには経済的な富裕度などのほかに,親の学歴の高さ,話し方の作法,どのような趣味を持っているかなど,日常の生育環境のなかで身についていく有形・無形の文化的環境や条件もまた,重要な影響を及ぼしている。つまり文化が一種の資本(文化資本)として作用し,その多寡が学校教育や就業などの場面で階層性を再生産(文化的再生産)する契機となっているのである(Bourdieu 1990, 1991)。

 子どもの情報行動も例外ではなく,個々の子どもたちの情報行動の背景には文化資本の多寡という問題が潜在しているということに注意を払う必要があるだろう。家にどのくらい,どのような本があるかということや,テレビ,パソコン,ゲーム機器類の有無,親の情報行動はどのようなものであるか,こういった要素が子どもの情報行動のありようや,情報メディアの選好などに与える影響をも含めて議論していく必要があると考えられる。

 現在のところ,このような観点から子どもの情報行動を検討している研究はほとんどない。示唆を与えてくれるものとして,学歴の再生産について論じている論者のなかには,出身家庭の文化資本,文化環境を測定する尺度の1つとして,「家族が本を読んでくれたかどうか」を採用し,この「読書資本」がその後の教育達成過程に与える影響についても考察している片岡栄美の研究や(片岡 2001),「家庭にある家財・資材の所有率」を尺度として採用し,そのなかでパソコンやファックスなどの情報機器の所有率と文化的再生産の関連について述べている大前敦巳の研究などがある(大前 2002)。

4.5.5. まとめ

 私たちはすでに,常に,重層的な情報メディア(本,テレビ,ケータイ,インターネット…)に囲まれており,その中でそれらを利用して生活している。しかし情報メディアとの私たちの社会の関わり方は,所与のものではないし,不変のものではないだろう。私たちが情報メディアを使用することによって,情報メディアと社会の関わり方は一定の形式を生みだしながら,同時に不断に作りかえられている。つまり,情報メディアを重要な構成要素とする社会のありようは刻々と変化し続けているのである。このような認識を前提とし,子どもがどのようにその社会を生きているかを仔細に見ることは,単純な情報メディア悪玉論/善玉論では見えない,豊かな知見をもたらすことができるのではないだろうか。本稿で紹介した論考はそのための,問題の「読み解き方」を私たちに示唆してくれる。(堤)

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  2. 浅野智彦 (2005). ネットは若者をいかに変えつつあるか. 大航海. No.56, p.179.
  3. 浅野智彦 (2005). ネットは若者をいかに変えつつあるか. 大航海. No.56, p.179.
  4. 吉見俊哉 (1995). “メディア環境のなかの子ども文化”. 共生する社会. 佐伯胖. 藤田英典, 佐藤学編. 東京大学出版会, p.21, (シリーズ学びと文化, 4).
  5. 吉見俊哉 (1995). “メディア環境のなかの子ども文化”. 共生する社会. 佐伯胖. 藤田英典, 佐藤学編. 東京大学出版会, p.21, (シリーズ学びと文化, 4).
  6. 詳しくは,吉見俊哉. カルチュラル・スタディーズ. 岩波書店, 2000, 132p.などが参考になろう。
  7. 藤村正之 (2007). “文化と再生産”. 社会学. 長谷川公一ほか編. 有斐閣, p501.
  8. 大多和直樹 (1997). メディアと教育のパラドクス-メディアの教育への導入と悪影響批判の同時進行状況をめぐって. 東京大学大学院教育学研究科紀要. 第37巻, p.102.

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