『カレントアウェアネス』の編集に係わって / 田村俊作

カレントアウェアネス
No.300 2009年6月20日

 

『カレントアウェアネス』の編集に係わって

 

 『カレントアウェアネス』が300号、創刊30周年を迎えたとのこと、編集に多少とも係わった一人として、いささかの感慨がある。

 『カレントアウェアネス』の創刊が1979年の8月、私が客員調査員として勤務したのが1990年の6月から2002年の3月までであるので、刊行期間全体の3分の1強に係わったことになる。以下思い出話を中心に書き綴ってみたい。個人的な思い出なので、記憶違いも多々あるかと思うが、ご容赦いただきたい。

 私が係わっていた当時、『カレントアウェアネス』は月刊で、当時の図書館協力部にあった図書館研究所が編集・発行していた。事務局を担当したのは、研究所内の支部図書館課図書館情報係である。毎月1回、各部局から兼務で出てきていた編集委員と、図書館情報係、それに客員調査員で編集委員会を開き、取り上げる記事の企画、執筆者、担当編集委員などを決めていた。

 掲載する記事は毎号5~6本、図書館に関連する内外の動向をなるべく広く目配りするように配慮していた。類似の記事を掲載するものに、『図書館雑誌』(日本図書館協会刊行)のニュース欄と、『情報管理』(科学技術振興機構刊行。当時は日本科学技術情報センター、次いで科学技術振興事業団の名で刊行)などの海外文献紹介欄があった。海外文献紹介欄はもともとねらいが違うので、編集の際に特に意識することはなく、むしろ海外文献のチェックをする際参考にした。海外の記事はどうしても米英中心になってしまうため、なるべく世界各国・地域に関する話題も取り上げるようにした。また、トピックも政策、サービス、資料組織等と分散するように配慮した。

 一方、『図書館雑誌』のニュース欄にはわが国の図書館界のニュースがいち早く掲載されるので、『カレントアウェアネス』としての独自性を出すことに苦労し、結局あまりうまくいかなかった。どうしてもニュースが後追いになってしまうため、『カレントアウェアネス』では少しまとまった動向レビュー的な記事にしようとしたのだが、そうなると今度は書くのが難しくなり、なかなか記事としてまとめられなかった。結果的に、記事の中心は海外の動向になった。国内記事であふれる今日のウェブサイト「カレントアウェアネス・ポータル」を見ると、隔世の感がある。

 客員調査員として、『カレントアウェアネス』の編集に関連する私の主な任務は、内外の雑誌や新着図書をチェックして、記事になりそうなトピックを探すことと、事務局に寄せられた原稿を校閲することであった。前任者は牛島悦子先生だったが、牛島先生が退職されてから私が就任するまでに若干の空白期間があったため、直接業務の引継ぎを受けることはなかった。そのため、これといった明確な指摘はできないのだが、牛島先生の時代とでは誌面に違いがあるのではないかと考えている。

 記事の材料探しは、主に図書館研究所が管理する図書館学資料室で行った。私が勤務する慶應義塾大学の三田メディアセンター(慶應義塾図書館)にも図書館・情報学資料室があり、内外の文献を豊富に揃えていたが、研究・教育に関連したものを収集するために、外国文献はどうしても英語中心になってしまう。それに対し、国立国会図書館(NDL)の図書館学資料室は世界各国・地域の文献を広く収集しており、さすがに全世界を相手にする国立図書館は違うと感心したことを覚えている。

 とは言え、私の乏しい語学力では多様な言語で書かれた文献を読みこなせるはずもなく、トピックの発掘や執筆には、編集委員を中心にNDL職員の方々に助けられることが多かった。特にアジア資料課や海外事情課などで海外文献をチェックしている方々から寄せられる情報はたいへんありがたく、また、NDLが単に資料を収集・提供するだけでなく、それを読みこなし、活用する力を備えた組織であることを実感した。かつて中井正一NDL初代副館長はNDLを中央気象台に例えて、毎日の新聞など、同館が収集する個々の資料は気圧報告に相当するもので、調査員がそれを整理することによって、気圧配置が明らかになり、気象の変化を知ることができる、NDLがわが国において果たす役割はそのようなものだ、と記した(1)。図書館の動向という限られた領域ではあったが、NDLのそのような力を目の当たりにしたのは得難い経験だった。

 執筆はNDLの若手職員を中心に依頼した。これは『カレントアウェアネス』の発行に若手職員の研修という役割も持たせていたからである。そのため、寄せられた原稿は内容・表現ともかなり丁寧にチェックし、修正した。内容面では、原文献はもとより、関連文献に当たって、裏付けをとるように心がけた。裏付けとなる文献を捜して書庫内を動き回ったが、NDLが所蔵する多様な資料に触れる良い機会となり、これも楽しい経験だった。

 表現面では、固有名の表記に注意した。図書館関係では、用語辞典や雑誌に収録された用語解説のたぐいを集めて、常時参照できるようにしていた。また、海外の情報をいち早く伝えているという意識から、記事に出てくる新語に対して、記事番号の先頭に「T」をつけた用語解説を載せるようなことも行った。人名や地名はそれぞれの辞典を調べた。政府組織については『主要国行政機構ハンドブック  改訂版』(ジャパンタイムズ、1993)などを参照したが、英国などでは行政組織の変化が激しく、適切な名称を見つけるのに苦労した。

 年に1回は特集を組んだ。一人の編集委員を中心に企画を立て、記事の構成や関連文献の収集を行った。特定の領域の動向を広く概観する機会となり、私自身にとっても学ぶところが多かった。

 関西館の開館に伴う機構改革で図書館研究所がなくなり、図書館に係わる調査研究機能が資料と共に関西館に移ることになったときに一番心配したことの一つが、『カレントアウェアネス』の存続だった。関西館での新体制を検討する中で、図書館研究所のサービスに対する関係者の意見聴取を行ったが、『カレントアウェアネス』については存続を希望する声が圧倒的に多かった。中でも、日本の図書館史・図書館事情が専門で、外国事情にはさほど興味をお持ちではないのではないかと考えていた某重鎮から、『カレントアウェアネス』がとても役立っていると言われたときは嬉しかった。それだけに、東京本館の職員の日常的な協力が期待できない中で、文献をチェックして記事の材料を探し、執筆を依頼する、といったことが果たしてできるものかどうか、心配でならなかった。速報を主体とするメールマガジンの『カレントアウェアネス-E』を発刊し、印刷体の『カレントアウェアネス』を季刊にする、という構想のねらいの一つも、執筆者を確保する負担を減らすための苦肉の策という一面があったように記憶する。

 関西館が開館し、『カレントアウェアネス』が新発足して以来、以上の懸念を吹き飛ばし、発展を遂げているのは誠に喜ばしい。私なども、原稿を書いたりするときには、「カレントアウェアネス・ポータル」で関連記事をチェックするように心がけているが、さまざまな動きを実にまめに記事として掲載しているので助かっている。最新動向に関する情報収集が、雑誌や新聞などの印刷物からインターネット中心へと変わってきていることにうまく対応したということなのだろうが、そうした変化をうまく捉まえ、ポータルサイトへと発展させた関係者の才覚と努力に敬意を表したい。

 「カレントアウェアネス・ポータル」はいまや図書館をめぐる内外の動向を知る不可欠のツールになっている。今後共、動向の変化をうまくキャッチし続け、情報発信の方法に絶えず気を配りながら、一層の成長を期待したい。

慶應義塾大学:田村俊作(たむら しゅんさく)

(1) 中井正一. 論理とその実践. てんびん社, 1972, p. 102-3.

 


田村俊作. 『カレントアウェアネス』の編集に係わって. カレントアウェアネス. 2009, (300), p.5-6.
http://current.ndl.go.jp/ca_no300_tamura