CA706 – ドイツ統一と「シュタージ文書」 / 戸田典子

カレントアウェアネス
No.136 1990.12.20


CA706

ドイツ統一と「シュタージ文書」

東西ドイツは1990年8月31日,両国の法律を統合する「統一条約」に署名した。この条約は,経済面での統一を定めた7月1日発効の「国家条約」に対し,「第二国家条約」とも呼ばれる。本文,議定書,付属文書をあわせて1,000ページにのぼる,詳細なこの条約の成立を土壇場で危うくしたのが,「シュタージ文書」の取り扱いであったことは,あまり知られていない。

シュタージとは,東独の国家保安省(MfS 壁開放後,国家保安庁(AfNS)に格下げ。その後廃止)直属の秘密警察,国家公安局の略称である。シュタージは東独全国に監視,盗聴,密告の網を張りめぐらせ,反体制運動を弾圧し,社会主義統一党の独裁を支えてきた。このシュタージが残した個々の市民に関する記録が「シュタージ文書」である。文書は計600万点,書架延長168kmに及ぶ。内400万点が東独市民,200万点が西独市民の記録である。この文書により,シュタージによって負わされた不当な罪をはらすケースもあれば,シュタージの秘密協力員であったことが暴露されるケースもあり得る。極めて危険かつ重要な文書なのである。

市民のシュタージに抱く怨念は深い。1989年12月4日,全国各地の旧MfS本部が市民に襲われた。シュタージ文書の中には独裁体制の犯した罪を証拠だてるものも多く,これらの書類が廃棄されることを市民は恐れたのだ。以後市民による委員会が,3月に自由選挙による東独人民議会が選ばれてからは内務省直属の政府委員会及び議会所属のMfS/AfNS解体特別委員会が,この文書を管理してきた。

統一条約の署名を一週間後に控える8月24日,人民議会はこの文書の保護と利用を定める法律をほぼ満場一致(反対1票)で可決した。この法律は,旧MfSの活動を「政治的,歴史的,法的に追究」することを目的とし,文書をその発生した場所――東独の各地域――に保管し,シュタージの犠牲者についてはその名誉回復のために文書の利用を保証しよう,というものであった。ベルリンの文書は人民議会が選んだ監督官が,各州の文書は各州議会が選んだ監督官が管理する,としていた。

議会の審議では,監視国家体制下では被害者と加害者の区別はつけられない,文書はむしろ早急に廃棄し,過去を許して新たな出発をすべきである,との主張もあった。だが,東独の歴史の最も暗い部分を自らの責任で直視,検証し,決着をつけたい,という主張が圧倒的に勝ったのである。

ところが,両独代表が作成した統一条約草案は,こうした東独側の意志とはかけ離れたものだった。草案によれば,10月3日の統一以降,上記の8月24日の法律は無効となり,シュタージ文書は西独コブレンツの連邦文書館に移されてしまう。この文書について条約の「付属文書I」は,1)全ドイツ議会が最終的な法律を定めるまでは,連邦文書館長が政府特別監督官として管理する 2)東独市民を少なくとも1名含む3名の顧問が,特別監督官に助言する,等を定めている。西独側は極めてプラグマティックに,他の文書とあまり差をつけず,データ保護に重点を置いた立場をとり,草案作成過程で東独の主張をおさえてしまった。

驚いた人民議会は8月30日,東独政府に対し,8月24日の法律を統一後も有効とすることを条約に明記せよ,と求める決議を出す。反対が2票,保留は1票であった。東独の強い拒否にあった西独は,後の交渉を約束して,31日午後とりあえず条約の調印を終えた。同日夜交渉が始まり,その結果 1)全ドイツ議会が最終的な法律を定める際,8月24日の東独法に留意する 2)文書の管理は,最終的な法律までは,東独政府の提案により人民議会の同意の上で遅くとも10月2日までに任命された政府特別監督官があたる 3)特別監督官に助言する5名の顧問の内,少なくとも3名は東独に住む人とする 4)文書は東独のどこか1カ所に置く,という線で合意した。西独与党は付属文書を以上の内容に改めた条約批准のための法案を,8月31日の日付けで西独連邦議会に提出した。(資料がないが東独も同様の手続きをとったと思われる)

これで妥結が成るかに見えたが,9月4日,市民団体「ノイエス・フォールム」のメンバーを中心とする21人の東独市民が,ベルリンの旧MfS本部を占拠しバリケードを築いた。占拠者は,あくまで8月24日の法律を有効とするよう主張した。彼らの要求の核心は,文書を一カ所に集中せず,発生した地域に保管せよという点,および当事者が文書を直接閲読できるようにせよ,という点であった。条約では,名誉回復のための「利用」は可能とされていたが,閲読できるかどうかは曖昧であった。占拠者に同調する人々は,ドレスデン,ライプツィヒ,エルフルトでも旧MfSの建物の前で監視を始めた。人民議会も条約審議を遅らせて占拠者を支持する姿勢を示した。両独間の交渉が再開する中で占拠は2週目に入り,12日には21人がハンストを始めた。

9月17日,東独側の交渉者であるクラウゼ次官が妥結策を発表した。その内容は,1)条約を補完する条項を協定の形式で定める 2)特別監督官,5名の顧問に加え,5つの東独州から各1名の顧問を出す 3)文書は集中的行政下におかれるが,保管場所,利用は地域毎でもよい 4)一点の文書には関係者として40〜60名の第三者の名前が登場するため,データ保護の観点から当事者でも閲読は認められない。ただし充分な情報権を保証する,というものだった。これに対し占拠者はあくまで当事者の閲読を求め,9月20日,審議中の人民議会に入り,主張を書いた横断幕をかかげた。人民議会は彼らの演説を許したが,結局上記の妥結策を内容とする協定と共に条約を可決した。西独連邦議会も同日条約及び協定を可決,翌21日連邦参議院も同意を与えた。こうして統一条約は批准手続きを終え,10月3日の統一にこぎつけたのである。

9月28日人民議会は,MfS/AfNS解体特別委員会委員長のヨアヒム・ガウクを特別監督官に決めた。ガウクはノイエス・フォールム出身の議員で(現在は監督官に専念),8月24日の法律を起草した人物である。東独は国家としての消滅の間際に,統一後もなお過去の傷を見つめ,克服する道を確保した。統一後の現在,文書の検証は進み,ガウクは,シュタージ関係者を徹底的に追究する姿勢を見せている。だが,これを「シュタージ狩り」として反発する声もある。文書についての最終的な法律制定は,12月2日の選挙後,議会の焦点となろう。東独の意志は新議会でどこまで貫かれるだろうか?

戸田典子(とだのりこ)

Ref: ドイツ,スイスの新聞1990年8月〜10月。
Presse- und Informationsamt der Bundesregierung: Bulletin. (104), 1990. 9. 6; (112), 1990. 9. 20
Deutscher Bundestag: Drucksache. 11/7760, 1990. 8. 31; 11/7817, 1990. 9. 10