CA1570 – インド洋大津波による図書館,文書館被害と今後の課題 / 坂本勇

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カレントアウェアネス
No.286 2005.12.20

 

CA1570

 

インド洋大津波による図書館,文書館被害と今後の課題

 

1. 図書館,文書館資料の命運

 営々と築かれてきた図書館,文書館の貴重で多様な収蔵品群。これらの貴重な収蔵品群が2004年12月に発生したインド洋大津波(E282参照)で目の前から消え去ってしまった。州立図書館(旧国立地方図書館)に寄贈されたばかりの新しい図書館巡回バスも流されてしまった。

 インド洋大津波で震源地に最も近く,被害も甚大であったインドネシアのナングロ・アチェ州(以下アチェ州とする)。スマトラ島の北端に位置し,歴史的に海洋交易の拠点として栄え,インドネシアへのイスラム教布教はこのアチェから始まったとされるほどにアラブ世界との交流が盛んで,「メッカのベランダ」と呼ばれる。

 歴史あるアチェには沢山の本や文書などが蓄積されてきた。個人的な感動も重なるが,震災から2か月後のアチェ地域の被災文化遺産調査過程で,アチェ地域では貴重な1640年の記年のある女性スルタンの署名入りダルワン文書も確認することができた。ダルワン文書はジャワ島を中心に今も製法が伝わる伝統文書で,世界各地に広がる同様の製法のタパには数千年の歴史があることから,謎を深く秘めた文書である。素材は和紙の製紙にも使われるカジノキで,その樹皮白皮を叩いて作り研究者でも紙との識別が難しいほど良質に仕上がる。写真や記述だけでなく,DNAなどの科学的調査を可能とする原物文書が助かり現存する意義は大きい。訪ねた熱心な個人宗教家の家(タナ・アベー)では数千冊の本や文書が継承所蔵されており,このような蔵書家や文書保有者はアチェ地域には多かったと言われる。

 しかし,このアチェ地域は大津波以前から,苦難の状況にあった。自由アチェ独立軍(GAM)と国軍の間での残忍な戦闘は地域の人々も巻き込み激化し,2003年からは一切の外国人のアチェ訪問は禁止されてしまい,自由な外部との研究交流は閉ざされてしまったのである。大地震・大津波はこうした特別な状況の中で発生した。

 テレビや新聞の被害報道写真や映像を記憶されている方も多いと思うが,地震後の津波で海岸から数キロの地帯は一面ごっそりと洗い流されてしまう悲惨な状況となった。地震被害と比べ,津波や洪水被害は泥,伝染病,腐敗などがより深刻になることから,救助作業には格別の注意が必要となる。

 アチェ州立図書館もアチェ州立文書館も強固な建物であったが,一階は完全に津波に洗われ,多くの本や文書,備品が流されるか,水損した。亡くなった職員・家族も多数にのぼった。残されたものの救出保全とともに,「失われた記録」を残すことの重要性は1995年の阪神淡路大震災でも反省と今後の課題として提起されたが,今回もこの課題は人材と資金の不足により着手されず,全容は不明のままである。

 大地震・大津波で被害を受け処分されたアチェの文化遺産はおそらく膨大になると考えられるが,訪問した州立文書館で多くの人が残念がったのは,一点しかない1960年代スカルノ時代の貴重な写真アルバム300冊余の写真画像がすべてマーブル状に流れ出したり,紙と紙が固着したりして完全に使えなくなる被害に遭ったことであった。被災から一か月以内に,外国から修復保存の専門家がせめてあと数組入って救助活動を展開していれば助かった写真アルバム群であった。また地元新聞社の貴重な取材一次資料なども含めて,地域のアイデンティティを支える多様な資料群が天災および救助専門家の不足により夥しい規模で永久に消え去ってしまったことが記憶される。

 加えて,このような悲劇的な状況に追い打ちをかけたのが,暗躍した盗賊団の悪行であった。災害発生直後から,金品をボートを使って驚くような大胆さで略奪してまわった。地元新聞社スランビーの取材情報が詰まった大型サーバーでさえ,太いケーブルを切断し持ち去られていた。日本で,大災害時にこのような盗賊団が暗躍しないことを願うものであるが。

 

2. 日本政府の支援

 失われた文化遺産は夥しい量であったが,その渦中で,インドネシア政府は復興作業に不可欠な「バイタル・レコード(Vital record)」であるアチェの住民土地台帳の救出と保全を最優先させる決定を行い,日本の修復専門家の技術的支援を要請し,受け入れた。2005年2月から3月にかけて,第一期緊急救出作業に独立行政法人国際協力機構(JICA)の専門調査団として23日間筆者が派遣され,インドネシアの国立公文書館,国立図書館の修復技術スタッフおよび現地の40人ほどの人々と共に,被災現地バンダ・アチェの炎天下で作業を行った。その後,オランダ植民地時代からの図面などを含む国土庁(BPN)に属する13トンもの土地台帳は,インドネシア空軍機でバンダ・アチェからジャカルタに緊急搬送され,マイナス40度の漁業冷凍倉庫で第二期乾燥・修復作業を待つこととなった。冷凍保管されたアチェの土地台帳原本は,10月末から日本政府の数億円の資金協力で本格的な修復作業が開始される。筆者はこの第二期作業においても,インドネシア政府側の要請に基づき,JICA派遣技術管理責任者として完了までの一年近い期間関わる予定である。大津波を受け3か月近く熱帯地域の気候の下で放置された大量の文書を,真空凍結乾燥機を用いて大々的に乾燥・修復作業を行う事例は世界的になく,24時間3交替でのハードな作業体制とともに前人未踏の難事業と想定されている。ちなみに,第二期作業に使用される12トンもの重量の大型真空凍結乾燥装置は日本製で,日本から運ばれたものである。

 

3. 図書館,文書館と事業継続計画(Business Continuity Plan:BCP)

 最近,台風やハリケーンが,発生海域の海水温度の上昇の影響を受けて巨大に発達していくメカニズムが報告されているが,地球温暖化の流れが止まらない状況で,今後ますます巨大台風や巨大ハリケーンなどが増え,その脅威が増し,また日本の特色的災害である地震の発生が各地で避けられない状況も加わる事態にある。

 このような状況において,改めて図書館,文書館は「営々と築かれ継承してきた人類の遺産を如何に守るか?」「本腰を入れて守る意思があるか?」ということが,災害多発時代の到来を前に問われてきている。さらに,今後の災害に備える上で重要なポイントは「これまでの被害予測や基準値すら超えてしまう」可能性の指摘である。最近の国内の相次ぐ台風被害,新潟中越地震,アメリカのハリケーン「カトリーナ」(E369参照)などの被害報告や防災専門家の発言からも,今後ますます,災害の猛威に遭遇することが増えてくる,という情勢にある。

 保存図書館として各国からも期待される国立国会図書館や大学図書館,専門図書館,地域固有の資料を有する公共図書館などにおいて,これまでの安全基準を万一超えたときに,収蔵資料はどんな状況に陥り,どんな具体的な救助・保全策を講じることが可能か?このような,一番大事な守るべき機関で,予想を超える最悪の事態が起こった時に,館の最高責任者が参画し責任を持ついかなる事業継続計画を有しているか,想定したかが,危機回避に役立つと考えられる。これまでの「この建物は絶対に壊れない」「ここまでは絶対に水は入らない」という安全神話は,万一その基準を超える大災害に見舞われた場合,予想もしていなかったために,ひとたまりもなく事業継続が不能か,回復に多大な時間と費用を投入しなければならない惨憺たる結果となる。

 欧米では,このような自然・人為災害やテロの脅威に対し最近取り組みを強化してきている。世界的に評価され,利用されている“NFPA1600 Standard on Disaster/Emergency Management and Business Continuity Programs 2004 Edition”(1)の製作協力機関を見ると,そこには,連邦危機管理庁(FEMA),全国危機管理協会(NEMA),国際危機管理協会(IAEM)そして全国火災予防協会(NFPA)という北米を代表する災害対応機関の名がある。今や国際的に事故や災害に遭遇した時に備えた「事業継続」という旗の下に活動する機関,団体は百以上にのぼる勢いである。

 日本国内でもやっと内閣府防災担当部署が中心になり,様々な調査研究と,実践に備えた対応策を相次いで打ち出している。企業向けに2005年8月に出した『事業継続ガイドライン第一版〜わが国企業の減災と災害対応の向上のために』(2)では,BCPを取り組み易い形で提供し,巻末に「チェックリスト」を用意して,少しでも災害時の被害を軽減し,国内の企業体力の低下を防ぐことの重要性を啓発している。経済的損失の予測がしやすく明白な企業レベルにおいては,災害への取り組み,備えは伸びていくと考えられるが,インド洋大津波でも問題となった,大災害時における「文化遺産」「図書館,文書館資料」の位置づけをどのように考えるか,ということが今後課題となる。

 国際的にも,インド洋大津波後,国際図書館連盟(IFLA)と国際文書館評議会(ICA)の会長が連名で救援支援声明を出したが,声明以上のものではなかった。国際機関としてのユネスコやIFLA,ICAなどでの「災害から図書館,文書館を守る強固な信念の醸成」と具体的救援体制作りも今後の課題となろう。というのも,現地に被災状況などの情報提供や専門家の受け入れをサポートする窓口がないと,海外からの支援も功を奏さないことが多いからである。

 

4. 大規模災害と図書館,文書館

 インド洋大津波被害に見舞われたインドネシアの事例では,専門的なマンパワーが充分でなく,様々な救助作業の限界に直面した時に,政府方針として文化遺産よりも「経済性」「行政的重要性」の明白な「バイタル・レコード」の救出を最優先し,地域特有のコレクションを有する図書館,文書館所蔵品の救出と明暗を分かつ結果となった。

 大規模災害が日本を襲った時に,国内では図書館,文書館において,政治家や官僚の反応を含め,どのような状況が繰り広げられるであろうか。勿論,危機管理の視点から,国内の図書館,文書館では防災マニュアルや防災用品の普及や「安全衛生管理チェックシート」などの全館的実践を図ることの重要性を考えるものであるが,思いもかけない現場の不安な声を耳にした。それは,図書館,文書館の所蔵品や,写真や日記など個々人の思い出を含む広義の人類の文化遺産は,平常時には「価値があり重要である」「守るべきもの」であるが,大規模災害時や非常時には人命救助や衣食住確保など優先するものが他にあり,「無くなっても仕方がない」「救出保全する余力がない」,結局現実の圧力に流されていくことは避けられない,という現実論である。歴史を振り返ると,必ずしもこの現実論通りにはなっていないが,それは,様々な立場や思いの「守り手」が存在したことにも助けられたためである。大災害や戦火の激しい極限状態でも,集団や個人の力で守られた図書館,文書館収蔵品,個人のコレクションは少なくない。しかし,そのような「守り手」が,時代の流れと,国内で近年目に付く傾向にある外部委託,指定管理者制度などの下で急速に劣勢になり,「大規模災害が起こると,歴史を刻んだ図書館は消える」という弱気な声が真実味を帯びて現場から聞こえてくる。確かに災害時には,すべての所蔵品を救出できない情勢になることが多く,一部の「絶対に助けたい収蔵品」に限られてしまう。従来では,ベテラン職員や本の虫のような造詣の深い人々が,瞬時にこのような大事な「非常持ち出し」「救出」作業をやってのけたのであろう。様々な事情で,人類の知的遺産を強固に守る体制,現地で災害時に専門的判断が出来る経験ある人材が空洞化していきつつあることに,現場の不安はあるのであろうか。

 現在,内閣府においては企業向けに続く,国や自治体向けの,予想を超えた最悪事態も想定したBCPを策定しようと調査研究を行っているが,図書館,文書館界においては,如何なる対応策を想定するのであろうか。

 なお災害多発の傾向に押され,現在世界的に災害復旧支援ビジネスを展開するBELFORの日本法人ベルフォア・ジャパンが昨年9月に日本での事業を開始した。この事業の特色は,被災したものや建物を壊して廃棄してしまうのではなく,高度な専門技術集団によって修理・修復し再活用していこうとする発想である。これまでの「同等の代価補償」という保険の概念から,「被害を受けた品への修理,修復費用の補償」も含むという新しい保険ビジネスが展開され,好評を得ていると聞く。図書館,文書館資料などは,これまでの保険制度では補償金額の査定が難しく,購入価格不明の品々は保障の対象になりにくかったが,新しい保険商品の今後の枠組み次第では,これまでの隘路を広げる希望が見え,災害や事故時の復旧対応がやり易くなる面がある。国によって保険制度は千差万別のようであるが,筆者が修復学校に通ったデンマークでは,数社の中から選んだ一社による各種保険商品の一元的取り扱いと,保険会社と連携した事故災害復旧サービス会社の存在が,あたかも医療のホームドクターのように安心の基になっているとの説明で,傾聴に値する。

 災害という不幸な出来事ではあるが,このような非日常的な場面を想定することでもって,これまで意識にも上らず埋没していた様々な日常的な課題を想起させ,結果として図書館や文書館の質が高まっていくならば,これもまた契機と考えるべきであろう。

 

注:インド洋大津波での文化遺産救済支援活動については,各種メディアで紹介されているが,英文ではIFLA/PAC Newsletter No.36 Sep.2005に筆者による記事が掲載されている(3)

(有)PHILIA:坂本 勇(さかもと いさむ)

 

(1) NFPA. NFPA 1600 Standard on Disaster/Emergency Management and Business Continuity Programs. 2004 Edition. 40p. (online), available from < http://www.nfpa.org/PDF/nfpa1600.pdf >, (accessed 2005-11-03).

(2) 民間と市場の力を活かした防災力向上に関する専門調査会ほか. 事業継続ガイドライン第一版−わが国企業の減災と災害対応の向上のために−. 2005-08-01, 33p. (オンライン), 入手先< http://www.bousai.go.jp/MinkanToShijyou/guideline01.pdf >, (参照2005-11-01).

(3) Sakamoto, Isamu. Disaster from Great Earthquake off Sumatra and Subsequent Tsunamis including Damage to Cultural Heritage. International Preservation News. (36), 2005, 16-19. (online), available from < http://www.ifla.org/VI/4/news/ipnn36.pdf >, (accessed 2005-11-01).

 


坂本勇. インド洋大津波による図書館,文書館被害と今後の課題. カレントアウェアネス. (286), 2005, 2-4.
http://www.ndl.go.jp/jp/library/current/no286/CA1570.html