カレントアウェアネス
No.267 2001.11.20
CA1436
ニコルソン・ベイカーの静かな図書館
今年(2001年)の2月に次のようなニュース記事が,あるメーリングリストに載せられた。「サンフランシスコのラッド図書館財団(Ludd Library Foundation)は,ラッド図書館を設計し建設するための資金募集活動を始めると発表した。このラッド図書館は,無料の公共図書館で,図書館サービスの基本に立ち返ろうとするものである。つまり,静かな厳粛な環境の中で読書,調査や研究を行えるようにする。本日,財団理事会議長であるニコルソン・ベイカー氏は,『公共図書館は,本や読書を犠牲にして技術面のからくりに熱中している』と述べた。」さらに,今の図書館管理者は,文化の保存,読書,静かな研究と瞑想の場としての図書館を壊し,そこに騒々しい情報と娯楽のセンターを作り上げているが,ラッド図書館には,コンピュータはなく,コンピュータゲームもないが,カード目録があり,静かな環境で勉強できるのだという説明がある。
いかにもニコルソン・ベイカーのしそうなことなので,事実のように思えてしまうが,このメールの発信者は,最後に「これは作り事……しかしありそうなことだ」と書いている。
ニコルソン・ベイカー(Nicholson Baker)は,『もしもし』,『中二階』,『フェルマータ』,『室温』(いずれも岸本佐知子訳,白水社刊)で知られた作家であり,『ニューヨーカー』誌の常連寄稿家である。1957年生まれなので40歳代半ばであるが,写真ではずっと年寄のように見える。メールの中のラッド図書館の名の由来は「ラッダイト(Luddite)」の語源とされているネッド・ラッド(Ned Ludd)の「ラッド」である。19世紀初頭の英国の工業労働者たちの中に,夜中に覆面をして工場を襲い,自分たちの仕事を奪った「機械」を打ち壊した人々がいた。彼らは「ラッダイト」と呼ばれ,このコンピュータの時代にも米国には「新ラッダイト運動」がある。ラッダイトは,教科書でも時代錯誤の代表のようになっているが,実際には,打ち壊したのは旧式の機械に限られ,真っ当な人たちだったという擁護論もある。
ベイカーはこれまで,カード目録を廃棄してしまったことに怒り,次にサンフランシスコ公共図書館が新館建設の際に大量の本を処分してしまったことに怒り,さらに新刊のDouble Foldなどでは,図書館が新聞の保存のためにマイクロフィルムに撮った後,その原紙を廃棄していることに怒っている。
ベイカーの図書館と図書館員に対する激しい非難のいくつかについて考えてみよう。
一つは資料保存である。図書館の資料保存における媒体変換の考え方は,長期保存に適さない紙に印刷された新聞などは,最も長期保存に適するとされているマイクロフィルムに撮影し,撮影後は,いずれ脆くなり読めなくなるのであるから,原紙は保存スペースをとらないようにすみやかに廃棄してしまおうというものである。こうした考え方と手順で新聞保存プログラムが行われてきた。ベイカーはこのような考え方や手順に疑義を挟んでいる。要するに原紙も残せということである。
ベイカーは英国図書館から廃棄されそうになっていた Chicago Tribune 紙(1888-1958)などを約175,000ドルで買い取り,米国ニューハンプシャー州の古い製粉所に納め,米国新聞保管所(American Newspaper Repository)を設立している。原紙がなければ新聞の挿絵の色もわからないのであるから,原紙の保存をして研究に役立てたいという趣旨である。
確かにスペースの確保と管理の手間を減らすといった合理性を重視してきた資料保存活動はこのままでよいのか,保存の仕方について図書館界の中だけでコンセンサスがあればよいのか,といった議論を行う必要があり,この点でベイカーの批判と活動は意味がある。しかし,ボランティアで運営されている保管所はいつまで存続できるのか,利用者はいるのか,原紙はいずれ脆くなってしまうではないか,という疑問は残ってしまう。
次は,目録カードである。1994年の『ニューヨーカー』誌の記事で,ベイカーはカード目録からオンライン目録への変化を調査し,図書館員がオンライン目録になって不要となったカードを無造作に捨てていることに腹を立てた。クリフォード・ストールの『インターネットはからっぽの洞窟』(倉骨彰訳,草思社)は,現在では苦笑しながら読むしかない見当はずれが多い愚痴っぽい本であるが,この中でストールはベーカーの記事を引用しつつ,カード目録ではカードを1枚ずつ見ていくことによって様々な知識が得られ,連想もできるが,オンライン目録は低機能で役に立たないと述べている。ストールは全般的に感情を優先させたので,見通しを誤ったわけだが,カード目録についても懐旧の情によって判断した。
ベイカーは,オンライン目録をカード目録に戻せと言っているわけではない。カード目録は,廃棄される前に既に何年も凍結されていた。この凍結されたカード目録は,冊子体の National Union Catalog や失われてしまった修道院の手書きの目録と同じであって,「一つの失われた世界の全景図」であり,過去のある時点である一群の読者層に利用可能だった本の一覧表であると言う。さらに,目録は,当時,本がどのように記述され,排列され,相互に関係づけられているのかを教えてくれるものである。カード目録は幾世代もの図書館員の知的で難しい仕事の集積なのだから,保存する価値があると言っている。
図書館にとって書誌コントロールや目録は一つの概念であり,それを具体化したものが冊子体目録やカード目録,オンライン目録である。そのときどきで利用しうる媒体を使って目録を作ってきた。また,蔵書の成長とともに目録も成長していくのであり,特定の時点で切り取ることに意味を見出すことなど想像もつかない。たまたま,カード目録からオンライン目録への転換が起こり,凍結されたカード目録が残されることになっただけのことである。ベイカーは,カード目録から開放された図書館員が,河原で不用になった目録カードの穴に風船をつけて空高く飛ばしたというエピソードを苦々しく紹介しているが,これは行き過ぎだったかもしれないものの,責められるほどのことではなかろう。
ベイカーがカード目録博物館を作ってくれれば,目録カードを段ボールにしまい込み,その処置に困惑している多数の図書館が助かるだろう。図書館ではなく博物館に近い立場から図書館を責めているのである。
ベイカーは,おそらくさまざまな電子化作業に追われ,資料の保存にまで手が回らなくなった図書館に対し苛立っているのだろう。サンフランシスコ公共図書館のドーリン館長への批判にはそれが端的に現れている。確かに,かける費用の面でも労力の面でも現在は,従来の紙の資料と電子媒体との間のバランスがよくない。ほとんど利用者のいない電子媒体の作成,維持に多額の費用が費やされている状況である。こうすることが本当に未来に続く唯一の道であるのならベイカーのことはほっておけばよいのである。しかし,電子媒体中心の図書館,コミュニケーションの場,交流の場を強調した図書館が利用者からあまり支持されなくなっていることに目を向けるなら,そうもいかないのが困ったところである。
日本にも,ベイカーのようなタフで行動的な図書館批判者が欲しいものだ。
慶應義塾大学文学部:上田 修一(うえだしゅういち)
Ref: Nicholson Baker returns in prose and prank. Am Libr 32(4) 28-29, 2001
Baker, N. Double Fold: Libraries and the Assault on Paper. Random House, 2001. 370p
Baker, N. Deadline. The New Yorker 24 July 42-61, 2000
American Newspaper Repository. [http://home.gwi.net/~dnb/newsrep.html] (last access 2001. 9. 18)
Baker, N. Discards. The New Yorker 4 April 64-86, 1994
Baker, N. A couple of codicils about San Francisco. Am Libr 30(3) 35, 1999