カレントアウェアネス
No.120 1989.08.20
CA611
『悪魔の詩』とアメリカ図書館−表現の自由,読書の自由−
ホメイニ師の死去後,穏健路線への転換がいわれるイランであるが,『悪魔の詩』の作者であるサルマン・ラシュディ氏への「死刑宣告」は公式には撤回されていない。日本では既に過去のものとなった感すらある今回の事件だが,米国の図書館がいかに対応したか,「アメリカン・ライブラリー」3月号に紹介されている。
ホメイニ師が本年2月14日にラシュディ氏に「死刑宣告」をした後,アメリカではイスラム教徒の抗議を考慮し,最大手の二つの書籍販売業者が売行きは好調だった同書の書店からの回収を決定した。一方,図書館には閲覧,貸し出しの要求が集まり,長い予約リストができている。そのため,図書館はこの問題の前面に立たされることとなった。
大多数の図書館はイスラム教徒からの閲覧停止,蔵書からの抹消の要求に応じていない。例えば,オハイオ大学ではイスラム教徒の学生からの申し出に対し,大学の事務総長が次のような声明をだしている。
「大学は様々な宗教団体の持つ敏感さを理解するものである。しかし,その理解をもって学内における学問追求や知的活動の基準とすることはできない。我々の立場はALA(アメリカ図書館協会)が四十年前に採択した「図書館憲章」と「読書の自由に関する宣言」に基づくものである。」
ALAは「死刑宣告」に素早く反応した。2月17日に会長名で大統領あてに電報を打ち,そこでホメイニ師の行動を「無法」な行動と非難し,大統領が言論の重要性を守るために,声明をだすことを求めた。また,同じ日にいくつかの作家の団体と共に駐米イラン大使に手紙を送り,「死刑宣告」とラシュディ氏にかけられた懸賞金の取り下げを迫っている。さらに書店,出版社の団体と共同で新聞紙上に全面の意見広告をだしている。2月23日にはワシントンで記者会見が行われ,そこで新たに結成された「ホメイニ師に抗議する表現の自由のための国際委員会」の声明が発表された。この声明には26の団体と約70名の個人も賛同し,署名している。ALAの「知的自由委員会」は事態の推移を見守り,今後も関係する各図書館に必要な援助を継続することを明らかにしている。
以上の経過でもわかる通り,米国の図書館は全体として,ホメイニ師の発言に抗議し,『悪魔の詩』を一般に公開するために全力を尽くしている。
これらの行動の基礎にあるのは,同書の内容はともかく「表現の自由」を守るという原則的立場である。それはオハイオ大学の声明や,自身は読んでいないが,「内容がなんであれ,図書館がその本になんらかの規制を加えることは表現の自由に反する」と語るイスラム教徒の図書館員の発言からもみてとれる。このことは『悪魔の詩』から離れて図書館にとって「表現の自由」とは,「読書の自由」とは何か,考えさせるものとなっている。
こうした動きに対して,先日の映画「キリスト・最後の誘惑」への抗議,上映禁止運動と比較して,今回の西欧の反応にイスラムに対する偏見や無知をみてとる意見もある(注)。
この点について,同号のエディトリアルでは,アメリカ人の内なる偏見や不寛容の存在を認めた上で,日常的に小さな戦いが繰り広げられており,これはその一つであるとする。『悪魔の詩』に対するイスラム教徒の乱暴な反応には反対するが,それを強めたのは欧米のイスラムに対する無知であり,そのことは図書館に「なぜイスラム教徒はこれほど怒るか」を市民が理解できる資料が殆どないことからもわかる。そして今回の事件から学ぶべき教訓として「図書館は過激な思想を守る戦いの最前線にある。そして図書館はその思想がなぜ過激か,人々が理解する助けとなるために,さらにすべきことがある。」と結んでいる。
さて,日本国内では,こうした視点ではなく,イスラム原理主義の特異さやイランの国内政治との関係,といったまさに「政治的」な視点からこの問題は取り扱われている。原書の輸入は事実上停止されており,翻訳がでる予定がないこともあり,図書館界の反応は鈍い。しかし,「表現の自由」や「読書の自由」が単なる西欧的な価値観でなく,普遍的意義を持つとするならば,これは私たちの問題でもある。かっての名作が差別であるとされることもある現在,図書館にとっては「外部」からの様々な問題提起に対し,どのように対応すべきか,今回の事件から学ぶことも多いはずである。
(注)「著者の『死刑宣告』でEC各国大使召還へ」 朝日ジャーナル 1989.3.3. 106-107
本吉理彦
Ref. Gordon, Flagg. Library community responds quickly, actively to Rushdie events; determined to stock novel. American libraries 20 (3) 288-289, 1989
「わが国でも一部海賊版が売られた『悪魔の詩』の問題部分」 噂の真相 1989.6
「『悪魔の詩』仏語版の行方」 出版ニュース 89.5 中・下旬号 15
東京新聞 1988.2.22他