CA1458 - 文化資源保存論 / 大場利康

カレントアウェアネス
No.270 2002.02.20

 

CA1458

 

文化資源保存論

 

 文化「財」や文化「遺産」ではなく,文化「資源」という言葉を使うケースが,近年増えてきている。これは,鉱物資源が様々な製品に活用されることで新たな価値を持つように,文化的な様々なモノ・コトが,ただそれだけで意味を持つのではなく,社会的に活用されて初めて意味を持つのだ,という考え方の現れといっていいだろう。文化的価値だけではなく,より広い文脈の中で文化に関する様々なモノ・コトを考えること。それが,「文化資源」という言葉をあえて使うことの意義ではないかと私は考えている。

 その文化資源を残す,ということの意味が,今,鋭く問われている。典型的なものとしては,アフガニスタンにおけるバーミヤンの石仏の破壊の例が挙げられるだろう。

 もちろん,石仏の破壊が暴挙であったことは間違いはないが,「人類共通の貴重な文化遺産の破壊をやめるべきだ」と破壊を非難した人々(私自身を含む)が,その一方で,アフガニスタンの人々の飢餓と内戦の悲惨には関心を持たずにいたことを,どう考えればよいのだろうか(1)。あるいは,その後の空爆による文化財の破壊についてはどう考えるのか。他にもこの問題に関しては様々な問いがありうるだろう。

 もう一つ,遺跡の例を引こう。ペルー北部のクントゥル・ワシ遺跡では,東京大学の文化人類学研究室を中心にして1988年から発掘が行われている。発掘の結果,様々な学術的成果が挙げられているが,ある意味で,それ以上に大きな社会的インパクトを与えたのは,ペルー最古期の黄金製の副葬品の発見であった(2)

 黄金の冠をはじめとする黄金製品の発見は,遺跡のある小さな村に大騒動を巻き起こした。もともと,ペルーでは,盗掘は当たり前,考古学者が先に発掘できるケースの方が少ない,といわれるほどである。誰が黄金を狙ってくるかもわからない。村民たちによる「埋蔵品は自分たちのものだ」という要求,村の属する市や国との駆け引きなど,様々な問題が持ち上がったが,発掘調査団のメンバーたちは,村民たちとの徹底的な対話を繰り返すなかで,一つの解決策を見出していく。

 その解決策とは,村民たち自身が運営する博物館を村に作り,そこに発掘された黄金製品などを収める,というものである。博物館設立の資金集めのために日本で巡回展示を行ったり,村民たちに様々なアドバイスをしたりするなど,学術調査という枠を超えた支援を行った調査団の努力もあり,この博物館事業は成功している。博物館の事業を紹介するために村の外に出ることも増え,村人の意識自体も変化し,博物館と遺跡を自分たちのアイデンティティの中に組み込むようになっていったという。

 この事例は,文化資源を残すために何が必要かを示しているといえるだろう。単に貴重だから残せ,といったところで,その文化資源を保存する主体となるべき人々にとって価値がなければ,あっという間に散逸・破壊の憂き目に会う。特に,ペルーのように,インカ以前とキリスト教化以降の文化的連続性が断ち切られている場合には(アフガニスタンの場合も同様な背景を見ることができるだろう)問題は深刻だ。

 クントゥル・ワシのケースでは,村民と遺跡や発掘品との関係を,博物館の運営という媒介を通じて結びつけることで,保存への意識を高めるとともに,村自体の活性化にもつなげることに成功している。逆にいえば,その社会集団にとって意味がなければ(あるいは金儲けの手段という意味しかないなど),残すことは難しいということを示しているともいえるだろう。

 こうした,遺跡における問題が,図書館とどう関係するのだろうか。

 原理的には,何も違いはない,というのが,とりあえずの答えだ。個々の資料にしても,あるいはコレクションにしても,社会の中で何らかの意味づけが与えられなければ,残らないのである。

 やや狭い領域になるが,国立国会図書館における例を挙げよう。1954(昭和29)年に江戸幕府旧蔵のオランダ語資料(蘭書)が上野図書館(当時)で再発見されたことをきっかけに,蘭学資料研究会が設立されたことを想起してほしい(3)。ある資料群がそこにあることで,人が集まり,集まった人々によって何らかの活動が行われることが,資料を生かしたのである。

 もし,江戸幕府旧蔵蘭書が,不要なものとして廃棄されていれば,蘭学資料研究会はなく,その伝統を引く洋学史学会も現在のような姿では存在しなかっただろう。逆に,資料としては残っても,蘭学資料研究会がなければ,資料の重要性などは明らかにならず,そのまま適当に放置されていたかもしれない。単に図書館という組織内部で重要と考えるだけでは十分ではない。それが外の社会と何らかの形で結びついている必要があるのだ。

 一方で,近年,江戸幕府旧蔵蘭書のような特殊(特に個人・団体)コレクションを軽視する傾向があるように思えるのは気のせいだろうか。確かに,特殊コレクションは,通常の資料と異なる管理を要請されるうえ,旧蔵者(あるいはその関係者など)との交渉や,公開にあたっての様々な条件など,やっかいなことも多い。だからといって,受け入れた特殊コレクションを単なる副本の集合として利用するのはどうか,という気がしている。

 文書館が扱う記録史料においては,記録(文書)を生み出した組織体あるいは個人の機能そのもの,あるいはその機能と社会との関連を明らかにしていく作業が重要であることが指摘されている(4)。これは,記録史料が生み出された過程を問題にすると同時に,個々の文書が単独に生み出されたものではなく,一連の活動の中で生み出されてきたものだ,という認識がその背景にあるからだ(5)。例えば,ある機関,あるいは個人のWebサイトをアーカイブするような場合を考えてみてほしい。個々のページやサイトを構成するファイル(HTMLやJPEG等)の記録だけではなく,サイト全体の構造や,他のサイトへのリンクの状況が非常に重要な情報となることが想定されるだろう。記録史料において示された考え方は,電子情報においてこそ,その有効性が明らかになっていくのではないだろうか。

 現在,議論が深められているとはいえないようだが,記録史料(文書)と個人(あるいは団体)コレクションとの関係を考えたとき,どちらも組織体あるいは個人の活動の結果,生み出されてきたことに違いはないのではないだろうか。文書館で組織体・個人単位での管理・組織化が進むと同時に,他方,図書館ではそれを資料の物理単位の個体に分解してしまう方向に進むというのは,何か問題を孕んでいるような気がしてならない。

 また,これまでの図書館における資料保存に関する議論は,主に方法・技術面に集中し,政策レベルの議論の重要性は指摘されるものの,「そもそも資料を残すとはどういうことなのか」について,十分な議論がされなかったきらいがある(6)。保存というものが収集や組織化と結びついていることは,理論的には認識されていたとしても,それが実際の取り組みの中で生かされたケースは少ないのではないだろうか。電子情報の保存についても,技術的な課題は頻繁に取り上げられても,残すことそのものの意味はあまり語られていないように思う。

 図書館の中にいる限り,資料がそこにあること,資料が残っていることは当たり前のことに思えるかもしれない(私自身もそうだった)。しかし,実際には,残っていることそのものが,これまでその資料を持っていた人・組織の活動の結果なのであり,その活動が社会の中で行われている以上,「残る」ということの中には,多かれ少なかれ,社会的な意味が含み込まれている。だからこそ,「残す」ということの意味を,図書館の内側の論理でだけではなく,社会的な文脈の中で確認していかなければならない。

 そしてそれは,単に図書館という枠組みの内側だけで議論されるべきことではないはずだ。ここで示したように,「出版物」という枠だけでは見えないことが,他の領域の事例から見えてくることもある。記録史料や電子情報も含めた文化資源という新しい視点と広がりが,今こそ図書館界に必要とされているのではないだろうか(7)

国立国会図書館:大場 利康(おおばとしやす)

 

(1) 例えば,マフマルバク,M.アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ  現代企画室 2001.191p を見よ。
(2) 以下,クントゥル・ワシ発掘に関する経緯は,大貫良夫 アンデスの黄金 クントゥル・ワシの神殿発掘記 中央公論新社2000.224p による。
(3) 石山洋 蘭学資料研究会ことはじめ 蘭学資料研究会研究報告 復刻版 付巻 竜渓書舎 1986. p. 25-32. または,大久保利謙ほか 蘭学資料研究会発足の思い出 参考書誌研究 (38) 1-21,1990 を参照。
(4) 安藤正人 記録史料学と現代 アーカイブズの科学をめざして 吉川弘文館 1998.352p など。
(5) だからこそ,記録史料の記述は,全体から部分という形で行われることが望ましいとされる。 記録史料記述の国際標準 北海道大学図書刊行会 2001. 64p などを参照。
(6) 安江明夫ほか 図書館と資料保存 雄松堂出版 1995. 453p などを参照。
(7) 本稿のアイディアは,筆者が社会人学生として所属している,東京大学人文社会系大学院文化資源学研究専攻において受講した講義および演習にその多くを負っている。特に,夏期集中講義として行われた国文学研究資料館史料館教授安藤正人氏,国立民族学博物館助教授関雄二氏による講義には大きな示唆を受けた。この場を借りて感謝の意を表したい。

 


大場利康. 文化資源保存論. カレントアウェアネス. 2002, (270), p.11-13.
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