E1455 – 障害者のアクセス権と著作権の調和をはかるマラケシュ条約

カレントアウェアネス-E

No.241 2013.07.25

 

 E1455

障害者のアクセス権と著作権の調和をはかるマラケシュ条約

 

 2013年6月にモロッコのマラケシュで開催された世界知的所有権機関(WIPO)の外交会議で,「盲人,視覚障害者及び読字障害者の出版物へのアクセス促進のためのマラケシュ条約(Marrakesh Treaty to Facilitate Access to Published Works for Persons who are Blind, Visually Impaired, or otherwise Print Disabled,訳はWIPO日本事務所による)」が日本を含む186の全加盟国の合意を得て成立した(公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会が同条約草案の日本語仮訳をウェブサイトに掲載している)。この新条約により,国際障害者年(1981年)の前後から始まった障害者の知識アクセスを保障するための著作権法のありかたを巡る30年余にわたる国際的な議論は,新しい段階に進むことになった。

 2008年に発効した国連障害者権利条約は,障害者に知識と文化のアクセスを保障している。その国連の一専門機関として障害者権利条約の実施に責任を負うWIPOは,急速に普及を見せる出版の電子化に着目して,障害者のアクセス権と著作権とを調和させるために,マラケシュ条約とすべての人のニーズを配慮する「インクルーシブな出版」の促進を一体のものとして進めている。

 マラケシュ条約の目的は,視覚障害者をはじめとする読書が困難な多くの障害者のために著作権を制限して特別に製作された,DAISY図書等のアクセシブルな型式の複製物の提供およびそれらの複製物の国境を越えた共同利用の促進である。同条約が対象とする「障害」は,プリント・ディサビリティ(Print Disability)と呼ばれる幅広い概念である。具体的には,視覚障害者と「知覚もしくは読みに関する障害がある者で,そのために,印刷された著作物を,機能障害または障害のない者と実質的に同程度には読むことができない者」および「身体障害により本を持っていることや扱うことができない者,あるいは,両目の焦点を合わせることや両目を動かすことが,読むために通常必要な条件を満たせるほどにはできない者」(同条約第3条)が含まれている。日本では2010年1月に著作権法が改正され,これを受け日本図書館協会が「図書館の障害者サービスにおける著作権法第37条第3項に基づく著作物の複製等に関するガイドライン」を策定している。そこでは,対象となる「障害」を,視覚,聴覚,肢体,精神,知的,内部,発達,学習の各障害と,いわゆる「寝たきり」,一過性の障害,入院,その他図書館が認めた障害としている。

 今回の条約が実際に大きなインパクトを与えるのは,英語圏やスペイン語圏,あるいはスワヒリ語圏のように,国境を越えて同一言語圏が存在する国々が,障害者の知識アクセス保障のために著作権を制限して製作されたDAISY図書のグローバルなオンライン提供システムを構築したときである。WIPOは,マラケシュ条約の対象となる人々に国境を越えて「アクセス可能な複製物」を効率良く,同時に著作権を守りつつ提供するためのTIGARと呼ばれるパイロットプロジェクトをこれまで進めてきた。マラケシュ条約の成立によって,このTIGARで得られた知見をもとにした国際的なDAISY図書提供システムが実現へ向かうことになる。

 マラケシュ条約は20か国が批准すると発効する。日本はこの分野の著作権法整備が進んでおり,同条約批准のために改正を要することは少ないと考えられるが,米国はDAISY図書提供団体が同国著作権法の解釈として「国内使用のみ」という立場をとっている点に問題を抱えている。そのため同国の視覚障害者等は国外からDAISY図書を受け取ることは可能だが,国外に提供することはできないという状況にあり,これが国際的な批判を招いてきた。世界中に大きな影響を与える米国のマラケシュ条約批准の成否が注目されている。

 WIPOはマラケシュ条約の合意交渉と平行して,著作権者が自ら「インクルーシブな出版」を行えるようにするための国際的な環境整備として,DAISYコンソーシアムと国際出版連合(IPA)を通じてアクセシブルな電子出版の標準規格であるEPUB3の普及を推進している(CA1796参照)。マラケシュ条約とEPUB3の普及により,プリント・ディサビリティを有する人々が十分な情報と知識を得た上で参加・参画する権利の保障に,同条約で「公認機関(authorized entity)」として定義される図書館は極めて重要な役割を果たすことになる。なお,手話を必要とするろう者は読むことの困難を抱えるという点では同条約の対象に含まれると考えられるが,米国映画協会等が聴覚障害者を同条約の対象から除外する主張を展開しているとも報じられており,著作権を制限して製作された手話入りのEPUB3図書の国際的流通を同条約が保障できるかどうかは今後の取り組みが決定すると思われる。一見して「著作権の制限」に関する条約であるマラケシュ条約が,障害者の知識アクセス問題の根本的な解決である出版物そのもののアクセス可能化を目指していることを正しく理解することが重要である。

(デイジーコンソーシアム理事・河村宏)

Ref:
http://www.wipo.int/pressroom/en/articles/2013/article_0017.html
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/access/copyright/marrakesh_treaty_jp_wipo201306.html
http://www.jla.or.jp/portals/0/html/20100218.html
http://www.visionip.org/tigar/en/
http://www.huffingtonpost.com/james-love/disney-viacom-and-other-m_b_3137653.html