CA790 – シュタージ記録法発効 / 戸田典子

カレントアウェアネス
No.150 1992.02.20


CA790

シュタージ記録法発効

CA706で報告した通り,旧東独の国家保安省(シュタージ)が残した膨大な文書類の扱いを定める新法の制定は,統一ドイツの課題となっていた。統一後1年余りを経た1991年11月14日,ドイツ連邦議会は「シュタージ記録法」を可決,次いで連邦参議院も12月19日これに同意し,同法は92年1月1日発効した。(「記録」Unterlagenとは,文書,カード,録音テープなどあらゆるデータの総称)

同法の制定までこの記録は,両独統一条約の付属文書及び90年12月18日に定められた暫定利用規則により,主に公職にある人物の審査に利用されてきた。たとえば旧東独の裁判官については人物審査を受けることが法律によって義務づけられ,シュタージ記録への照会もその手続きの一環となっている。ザクセン州でこの審査が終了したのはようやく91年7月になってからであった。州議会議員についても照会がおこなわれ,たとえばメクレンブルク=フォアポメルン州ではシュタージとの関わりで66人の議員中7人が辞任している。90年12月に連邦議会議員を辞任した前東独首相のローター・デメジエールの場合,シュタージの協力者であったとの報道がなされ,記録に照会された結果この嫌疑を完全にははらすことができなかった。

シュタージのスパイ活動に苦しめられてきた旧東独の人々は,何よりも自分自身に関わる記録を直接に閲覧する権利を強く求めてきたわけであるが,影響力の大きな記録であるだけに,議会では当初全会派のコンセンサスによる新法制定がめざされた。しかし諜報機関の記録利用をめぐって決裂,91年6月12日,旧東独出身の同盟90/緑の党のグループ,そしてキリスト教民主/社会同盟・自由民主党・社会民主党の与野党連合が別々の法案を連邦議会に提出し,後者の法案が成立した。

新法は基本的にすべての人に自分自身に関わる記録の閲覧を認め,連邦データ保護法よりこの法律を優先させている。法の対象となる人々を,シュタージにより監視,情報収集された「当事者」,副次的にそのデータが記載された「第三者」,シュタージの正規の職員及び非公式の職員である「関与者」,シュタージによって保護されていた「受益者」に分類し,前二者(いわゆる「被害者」については,本人以外の記録の利用,公開には厳しい制限を加え,「加害者」については保護していない。そのため,ある人が自らの記録を閲覧すると,そこに記された「加害者」についても知ってしまうわけである。新法は人物審査の対象となる公職者を列挙し,諜報機関,刑事訴追当局による利用についても定めている。

なお法案はマスコミなどが許可を得ずに記録を公開すると処罰されるとしていた。これに対して言論界から厳しい批判が出され,最終段階で修正された。

新法施行を2日後に控えた12月30日,シュタージ記録を管轄する連邦受託官のヨアヒム・ガウクは,「記録の閲覧は復讐のためではなく,過去に向かい合い,未来を建設するために役立つはずである。しかし閲覧はシュタージの犠牲者に人間としての危機をもたらすかもしれない。家族や友人がスパイであったことが判明することもあるため,文書の閲覧をするべきか,またいつするべきかについてはよくよく考えるように」と訴えた。

1月2日,いよいよ一般の閲覧がスタートし,民主化運動のリーダー達が閲覧する様子がテレビで放映された。この日だけで,ベルリンの連邦受託官本部及び旧東独の14か所の支所には数千件の閲覧申請が出され,今後その数は毎月7万件に達するとみこまれている。旧東独社会民主党の党首であったイブラヒム・ベーメが結成当初からスパイであったことも判明した。今後もこの記録から恐るべき事実が出,ジャーナリズムをにぎわすであろう。しかしこうした著名な人々だけの問題ではない。エアフルトで閲覧した青年は,12年前旅行中に逮捕され半年間拘留され突然釈放された。その理由を彼は知りたいという。「自分の過去への第一歩」とある新聞は表現している。

戸田典子(とだのりこ)

Ref: Frankfurter Allgemeineほか 1990年11月〜1992年1月
Deutscher Bundestag: Drucksache 12/723, 1991.6.12
齋藤純子 海外法律情報:国家保安警察文書法可決 ジュリスト(993) 1992.1.1-15.