レファレンス協同データベース新着事例

植物学者松村任三の略歴、業績を知りたい。日光植物園とも関わりがあると聞く。(栃木県立図書館)

当館所蔵資料をお調べしたところ、以下の資料に松村氏の記述を確認しました。 ・『世界的植物学者松村任三の生涯』(長久保片雲/著 暁印書館 1997) 松村任三の生い立ちや日記、牧野富太郎との関係等について、詳細にまとめられています。 また、p.214「略系」、p.215-231「略年譜」、p.232-233「主な参考文献」の各項があります。 ・『日本植物研究の歴史 小石川植物園300年の歩み』(大場秀章/編 東京大学総合研究博物館 1996) 「東京大学植物標本室に関係した人々」「二 松村任三」の項に、「生い立ちと生涯」「その業績」「新撰植物図編の刊行」の記述があります(p.89-96) ・『植物文化人物事典 江戸から近現代・植物に魅せられた人々』(大場秀章/編 日外アソシエーツ 2007) p.479-481「松村任三」の項があります。 人物についての紹介のほか、「著作」「評伝・参考文献」のリストも掲載されています。 ・『栃木県歴史人物事典』(栃木県歴史人物事典編纂委員会/編集 下野新聞社 1995) p.563「松村任三」の項があります。 ・『茨城県大百科事典』(茨城新聞社/編 茨城新聞社 1981) p.966「松村任三」の項があります。 ・『明治人物逸話辞典 下巻』(森銑三/著 東京堂 1965) p.352「松村任三」の項があります。 ・『日本名家肖像事典 第11巻』(ゆまに書房 1990) p.258「松村任三」の項があります。 ・『明治人名辞典 2』(日本現今人名辞典発行所/著 日本図書センター 1988) p.まノ23-24「松村任三」の項があります。 ・『日光市史 下巻 近現代・民俗』(日光市史編さん委員会/編 日光市 1979) p.341-351「第4編 第6章 第6節 日光植物園」の項に、松村氏に関する記述が見られます。 ・『日光山植物目録 全』(松村任三/著 石川茂夫 1894) 松村氏本人の著作です。表紙に「理科大学教授理学博士松村任三著」とあります。 また、奥付の著者欄には「茨城県士族 松村任三 東京市本郷区駒込曙町十三番地」とあります。

明治維新後、那須野が原の開拓に従事した他県出身者の情報を知りたい。(栃木県立図書館)

次の資料から記述を確認しました。 ・『那須開墾社「農業日誌」』(西那須野古文書研究会/編、発行 1989)  巻末のp(16)-(34)に「移住人名簿」が収録されています。 これは、凡例によると「明治14年初頭から27年12月までの 移住人の記録をまとめたもの」で、「開墾社の記録に名を留め、かつ入植の事実の確認出来るものに限った」とのことです。 ・『西那須野町史』(西那須野町史編纂委員会/編 西那須野町 1963)  ※西那須野町は、現・那須塩原市です。  「第三編 第一章 那須開墾社」の「第十二節 那須開墾社移住人」の中に、明治19年の府県別入植者数の記載があります。 ・『那須開墾社 その株主と移住者』(松本和夫/著 「駿台史学 第11号」1961刊の抜き刷り)  p165に、明治19年時点の移住者を出身府県別に分類集計した表があります。 ・『黒磯市誌』(黒磯市誌編さん委員会/編 黒磯市 1975)  ※黒磯市は、現・那須塩原市です。  「第四編 第二章 明治の開拓」の「第二節」中に「11、戸田農場」の項があります。(p476-480)  この中に「大正十四年の出身県別」の入植者の数があります。  このほか、関連資料に以下があります。 ・『印南丈作・矢板武 那須野が原開拓先駆者の生涯』(西那須野開拓百年記念事業推進委員会/編、発行 1981)  p191-226「那須開墾社に関係した人々」 ・『士族授産と共墾社』(磯忍/著、発行 1980)  p114-136「第8章 社員及び創業期の入植者の系譜」に、24の入植者の家系について解説があります。

明智光秀=天海説について、検証や考察を読みたい。(栃木県立図書館)

次の資料から記述を確認しました。 日光東照宮の「桔梗紋」や日光の明智平と明智光秀=天海説の関係について、以下の資料で記事を確認しました。 なお、いずれの資料にも、根拠が希薄である等の補足がありました。 1.説の根拠として「桔梗紋」「明智平」を挙げている資料 以下の資料に関連の記述を確認しました。 ・『たっぷり日光歴史ウォーキング 世界遺産!徳川三代の聖地を歩く』(池上真由美/著・写真,清水克悦/著・写真,津波克明/著・写真 水曜社 2006) p.77「歴史秘話 天海=明智光秀説を探る」の項があります。「天海=光秀説の証拠?」として4つが紹介されていますが、その中に以下の2つが含まれています。 「①(明智平を)名づけたのは天海で、自分の元の名を地名に残すために命名したという。」 「②東照宮の陽明門の随身像の着物に桔梗紋がある。」 ・『徳川家と日光東照宮 〈保存版〉徳川家康公薨去400年記念』(日光東照宮/監修 宝島社 2015) p.96「コラム 天海大僧正は明智光秀だった!?日光の地名に見る「明智」の名残」の項があります。複数の根拠が紹介されていますが、その中に以下の2つの記述があります。 「この像(陽明門の随身像)の袴には、明智氏の家紋である桔梗紋がかたどられている」 「この地(明智平)をそう名付けたのは天海だったといわれている」 また、p.55の「東照宮ミニコラム」の項に、陽明門の随身像2体がカラー写真で掲載されています。袴には桔梗紋が確認できます。 ・『明智光秀』(徳永真一郎/著 青樹社 1983) p.284-286「山崎合戦 四」の項に「光秀天海説」についての記述があります。説の根拠が7つ紹介されていますが、その中に以下の記述があります。 「輪王寺が建ったとき、日光山に登り、その辺一帯を「明智平」と名付けた」 ・『日光東照宮隠された真実 三人の天才が演出した絢爛たる謎』(宮元健次/著 祥伝社 2002) p.157-158「3.徳川三代に仕えた天海-江戸の陰陽師- 光秀と同一人物?」の項があります。紹介されている根拠の中に、以下の記述があります。 「日光で最も見はらしの良い場所に「明智平」と命名したのも天海・光秀同一説の裏付けであるというのだ。」 ・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編 栃木県大百科事典刊行会 1980) p.805「明智平」の項に「明智平という名称は天海僧正が命名したといわれている。天海僧正というのは実は明智光秀のことで(中略)自分の昔の名をどこかに残して置きたくて、日光で一番眺めのよい場所を明智平と命名したのだと伝えられている」との記述があります。 なお、東照宮の桔梗紋についての記述は確認できませんでした。   2.それぞれの記述が確認できた資料  以下の資料には「桔梗紋」、「明智光秀=天海説」について、それぞれの記述は確認できましたが、関係についての記述は確認できませんでした。 ・『図説社寺建築の彫刻 東照宮に彫られた動植物』(高藤晴俊/著 東京美術 1999) p.170-171「(4)草花の部」に「桔梗〈ききょう〉」の項があり、〔図像例〕として東照宮の彫刻が挙げられています。 ・『國史異論 奇説新学説考』(藤井尚治/著 日本書荘 1937) p.295-306「天海僧正實は明智光秀か」の項があります。 ・『異説日本人物事典 謎と不思議の日本史』(三省堂 1983) p.31-34「Ⅰ 不死伝説の人物」に「天海僧正に変身 明智光秀」の項があります。 ・『神君家康の誕生 東照宮と権現様 (歴史文化ライブラリー 256)』(曽根原理/著 吉川弘文館 2008)  p.40-41「天海の前半生」の項に以下の記述があります。 「天海の伝記の中でももっとも早く、慶安三年(一六五〇)に成立した「東源記」を一覧するなら、明智光秀とは別人のものとして、天海の前半生の実在したことは否定できない。」 3.その他、お調べした資料 以下の資料には、関連の記述は確認できませんでした。ご参考までに資料の情報をお知らせします。 ・『角川日本地名大辞典 9』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1984) ・『日本歴史地名大系 9』(平凡社 1988) ・『日光市史 中巻(近世)』(日光市史編さん委員会/編 日光市 1979) ・『日光東照宮建造物装飾文様調査報告Ⅰ』(多摩美術大学文様研究所/編 多摩美術大学 1974) ・『大日光 42号』(日光東照宮/編 日光東照宮 1974)【館内】 伊藤ていじ/著「東照宮における建物とイメージ」、田沢坦/著「東照宮建築の装飾文様」、 河原正彦/著「東照宮の文様について」、吉原北宰/著「日光の装飾文様」 所収 ・『日光東照宮の謎』(高藤晴俊/著 講談社 1996) ・『徳川家康と日光東照社』(田邉博彬/著 随想舎 2016) ・『日光東照宮 語りつぐ』(稲葉久雄/著 JAFMATE社 2011) ・『日光東照宮 日光東照宮400年式年大祭記念』(須田慎太郎/撮影・文 集英社インターナショナル 2015) ・『日光東照宮の文様』(坂田泉〔ほか〕/解説 寺島郁雄/撮影 ふたば書房 1980) ・『とちぎの地名を探る』(塙静夫/著 随想舎 1996) ・『とちぎの地名 語源から由来を探る』(塙静夫/著 落合書店 1989) ・『栃木「地理・地名・地図」の謎 意外と知らない栃木県の歴史を読み解く!』(篠崎茂雄/監修 実業之日本社 2014) ・『栃木県の地名の故事来歴 2』(稲川彰一/編 竹林書室 1982)

嘉永3年に粟谷村で起きた仇討事件について知りたい。(栃木県立図書館)

以下の資料から記述を確認しました。 (1)当館所蔵資料 ・『千葉亀雄著作集 第4巻』(千葉亀雄/著 ゆまに書房 1992) p485-492「徳川時代の仇討 金井仙太郎下野粟谷村の仇討」 ・『日本仇討一○○選』(稲垣史生/著 秋田書店 1976) p196-198「金井仙太郎、下野粟谷村の仇討」 (2)国立国会図書館デジタルコレクション 今回ご紹介する資料は、すべてインターネット上で公開されている資料です。 ・『大日本復讐叢書』(田沢正三郎 編 鶴声社 1889) コマ番号189-191 国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881491) (3)その他(お調べしましたが記述を確認できませんでした) ・『栃木県歴史人物事典』(栃木県歴史人物事典編纂委員会/編集 下野新聞社 1995) ・『栃木県史 通史編5』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1984) ・『近代足利市史 第1巻(通史編 原始~近代2)』(足利市史編さん委員会/編 足利市 1977) ・『足利の歴史』改訂新版 (前澤輝政/著 随想舎 2009)

菊池教中の日記を探している。できれば活字で読みたい。(栃木県立図書館)

次の資料を所蔵しています。 ・『幽囚日記』(菊池教中/著 静観堂 1942)

真田幸村は栃木県にもゆかりがあると聞いたが、詳細の分かる資料はあるか。(栃木県立図書館)

以下の資料に関連の記述を確認しました。 いずれも、関ヶ原の合戦の前に、真田父子が佐野犬伏の地で二手に別れた際の伝説が記載されています。 ・『真田幸村歴史伝説文学事典』(志村有弘/編 勉誠出版 2015) p.11-12「犬伏の別れ」 ・『真田三代風雲録 下』(中村彰彦/著 実業之日本社 2015) p.102-127「犬伏の別れ」 ・『佐野の民話 佐野ふるさとの民話集』(「佐野の民話」編集委員会/編 佐野ロータリークラブ 2014) p.54-57「真田父子犬伏の別れ (犬伏地区)」の項があります。 なお、『民話・昔話集作品名総覧 2003-2014』(日外アソシエーツ株式会社/編、出版 2015)もお調べしましたが、掲載は前出の『佐野の民話』のみでした。 以下はお調べしましたが、関連の記述は確認できませんでした。 ・『佐野の伝説民話集』(佐野市郷土博物館/編 佐野市教育委員会 1992) ・『佐野の伝説と歴史 1』(須藤清市/著、出版 1965) ・『少年小説大系 別巻 2』(尾崎秀樹/編 三一書房 1995) p.559-607「大河内翠山 真田幸村」の項があり、父子別れの記述はありますが、栃木県・佐野・犬伏等の記述は確認できませんでした。

下野領の鷹狩に関する資料を探している。(栃木県立図書館)

以下の資料を確認しました。 ・『中世鷹書の文化伝承』(二本松泰子/著 三弥井書店 2011) p255-287に、「第四章 宇都宮流の鷹書 『宇都宮社頭納鷹文抜書秘伝』をめぐって」があります。 ・『御鷹捉飼場 上野・下野両国の野廻り役の活動から見る』(海老原脩治/編著、発行 2010) 「はじめに」に、「利根川左岸の上野・下野両国の野廻り役の活動を、栃木・群馬・埼玉各県等内の自治体史から見て、 当時の農民に与えた影響がどうであったかを探るのがこの著作の目的である。」とあります。 なお、「野廻り役」とは、「捉飼場内で、鷹場法度に違反した者の摘発・探索を主な任務とし、廻村して取締まる者」とあります。(「はじめに」より) ・渡辺武雄/著「日光領周辺の御鷹御用」(『大日光 57号』(日光東照宮/編、発行 1984)p78-83所収) ・『栃木県史 史料編 近世1』(栃木県史編さん委員会/編  栃木県 1974) p508-509に「享保三年九月 幕府鷹場法度証文」が掲載されています。 また、この史料の解説がp34に掲載されています。 ・『栃木県史 史料編 中世3』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1978) p133の「宇都宮国綱書状寫」に鷹屋に関する記述があります。 ・『南河内町史 通史編 近世』(南河内町史編さん委員会/編 南河内町 1997) p24-38に「下野領と鷹場」の項があります。 この他、栃木県内の情報ではありませんが、調査の過程で以下の資料を確認しました。 ・「鷹狩の道 埼玉県、岩槻・越谷・蕨・戸田・鴻巣」(『大日光 57号』(再掲)p84-89所収) ・大塚紀子/著「日本の鷹狩にみる伝統と変容」(『大日光 78号』(日光東照宮/編、発行 2008)p106-113所収)

「浄瑠璃坂の仇討」について調べたい。歴史的な考証のほか、事件をテーマにした文学作品も知りたい。(栃木県立図書館)

<浄瑠璃坂の仇討について> ・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編、発行 1980) p.373「浄瑠璃坂の仇討」の項に次の記述があります。 (事件の概要について) 「1668年(寛文8)3月2日、宇都宮藩主奥平美作守忠昌の二七日忌法要が宇都宮城下興禅寺で営まれた。このとき、奥平藩大身衆奥平内蔵允は、同族奥平隼人に辱められ刃傷に及んだが、逆に隼人に斬り返され負傷が原因で同年4月22日憤死した。内蔵允の子源八(11歳)は、奥平伝蔵等一族42人とともに脱藩し、芳賀郡深沢村(現・茂木町)の隠れ家に身を秘め奥平隼人を討つべく日夜探索し、(中略)遂に1672年(寛文12)2月3日、江戸牛込浄瑠璃坂の土橋の麓で見事、仇を討ち取り本懐を遂げた。」 (文学作品について) 「講談、芝居等にも仕組れ、江戸時代における三大仇討と称された。宇田川文海、直木三十五などによる新聞連載、柴田錬三郎・異変助太刀記、村上元三・修羅太鼓、中山介山・岡本綺堂の「浄瑠璃坂の仇討」などがある。」 この情報を元に調査を行い、次の資料を確認しました。 1 事件の概要を記した資料、研究書等 ・『宇都宮物語第2巻 宇都宮藩の仇討』(徳田浩淳/著 文化新報社 1961) ・『中津藩史』(黒屋直房/著 国書刊行会 1987) ・『浄瑠璃坂の敵討 忠臣蔵の手本 宇都宮藩騒動記』(原田種純/著 新人物往来社 1989) 2 文学作品(当館所蔵) ・『大衆文学代表作全集第24巻 岡本綺堂 中里介山集』(岡本綺堂/著,中里介山/著 河出書房 1955)  「浄瑠璃坂の仇討」所収 ・『柴田錬三郎選集 第16巻』(柴田錬三郎/著 集英社 1990)  「異変助太刀記」所収 ・『時代小説の楽しみ10 仇討騒動異聞』(新潮社/編、発行 1991)  「異変助太刀記」所収 ・『直木三十五全集 第1巻』(直木三十五/〔著〕 示人社 1991)  「浄瑠璃阪物語」所収 ・『修羅太鼓』(村上元三/著 桃源社 1965) ・『修羅太鼓 完結編』(村上元三/著 桃源社 1966) ・『決闘・浄瑠璃坂』(大森隆司/著 下野新聞社 1991) ・『浄瑠璃坂の討入り 忠臣蔵への道』(竹田真砂子/著 集英社 1999) ・『四十一人の仇討ち』(山本音也/著 小学館 2006)

栃木県足利市に領地があった旗本について知りたい。(栃木県立図書館)

以下の資料に関連の情報を確認しました。 ・『近代足利市史 第1巻(通史編 原始~近代2)』(足利市史編さん委員会/編 足利市 1977) p.411-416「第7表 足利市域の旗本支配者一覧 幕末期」があります。 「領主」(氏名)、「支配地(石高)」、「石高計」の項目があり、掲載されている領主は総数79名です。 なお、この表は『旧高旧領取調帳』より作成されているとの記載があります。 ・『旧高旧領取調帳 関東編』(近藤出版社/編 近藤出版社 1969) 前述の資料を活字にしたものです。 複数の伝本があり、この資料は、歴史地理学者芦田伊人が大正12年以前に書写した芦田本を底本にしています。 ①旧村名、②旧領名、③明治元年取調旧高、④旧県名の順に記されており、 p.528-530「下野国梁田郡」 p.530-533「下野国足利郡」 の項があります。

栃木県栃木市の古い地図を探している。明治、大正期のもので、学校、病院等、施設の所在が確認できるものが良い。(栃木県立図書館)

当館所蔵の地図や地図図版の掲載されている資料で、年代に合致するものは次のとおりです。 <明治> ・『明治大正日本都市地図集成』(地図資料編纂会/編 柏書房 1986) 「杤木市街地六千分一尺図」明治39年掲載。施設の所在情報あり。 ・『栃木の町並み景観』平成17年観光資源保護調査(日本ナショナルトラスト/編、発行 2006) p.24に前出の『明治大正日本都市地図集成』と同一の地図の掲載あり。 「第1章 栃木町の歴史」には、「1-4 明治前期」(p.20-28)、「1-5 明治後期~大正」(p.23-28)の項があり、街並みや主要な建物の変遷についてまとめられています。 ・『下都賀郡地図』藤岡・栃木・壬生・古河 結城・小山・栃木・藤岡・古河・栗橋・幸手附近一帯(陸地測量部/編、発行) 五万分の一地形図。地図の余白部分が切り取られており、正確な発行年を確認することができませんが、「明治40年測」と手書きの添え書きがあります。 ・『明治前期測量2万分1フランス式彩色地図 第一軍管地方ニ万分一迅速測図原図覆刻版 栃南1』(日本地図センター 2001)明治13~19年発行。 地図記号なし。地名の記載あり。建物の記載はあるが、それぞれの名称はなし。 ・『第一軍管地方迅速測図』(参謀本部陸軍部測量局/〔編〕 〔大日本測量〕) 『第一軍管地方迅速測図』というタイトルで複数の二万分の一地形図を保管しているもののうちの1枚。「栃木町」は「明治十九年測量、同二十一年製放」と記載あり。 ・『栃木縣管下下野全図 上野三郡區画明細繪圖』(新井勝重/著、発行 1876) 明治9年。地図記号なし。 <大正> ・『下都賀郡小志』(下都賀郡役所/編、発行 1918) p.2「最近之下都賀郡」として、「栃木県下都賀郡全図」が掲載されています。 1ページ分を使用した口絵写真ですが、画像が不鮮明なため、掲載情報や発行年等を確認することができません。 ・『栃木案内』(阿部善蔵/著、発行 1914) 口絵の一枚に「栃木町市街図」(三万八千四百万分之一)が掲載されています。 大正3年発行で、建物の記載もあります。 以下の資料からは、地図や関連情報を確認できませんでした。 ・『栃木商工案内』(栃木商工会議所/編 栃木商工会議所 1935) ・『現代之栃木』(松下吉衛/編著 栃木商業会議所 1911)※自館複製資料 ・『栃木』(田名網園次郎/編 栃木商業会議所 1919)※自館複製資料 ・『栃木郷土史』(海老沼錦也/編 日刊栃木毎日新聞社 1934) ・『栃木名所旧蹟物語 全』(大浦倉蔵/編、発行 1940) ・『栃木郷土史』(栃木郷土史編纂委員会/編 歴史図書社 1977) ・『目で見る栃木市史』(栃木市史編さん委員会/編 栃木市 1978) ・『薗部乃里』(大塚紀子/著、発行 1980) ・『目で見る栃木・小山・下都賀の100年』(小森谷昭平/〔ほか〕編集 郷土出版社 2000) ・『栃木の町並み 旧日光例幣使街道沿線(泉町・嘉右衛門町・大町)の歴史的建造物調査報告書2』(栃木市教育委員会/編、発行 2002)

栃木県医学校の歴史について網羅的に調べたい。(設立から廃校の流れ、名称の変化等)(栃木県立図書館)

このことについて、地域資料から史実を調べる場合、医療史、教育史の両方の観点で資料を探す必要があります。また網羅的に調査する場合、各地の医師会史等のほか、医学校のあった栃木市(当時の栃木町)の地域資料にも関連の情報が掲載されます。 なお今回の調査の過程で、一部の資料の記述に齟齬を確認しました。近年発行の資料類も、出典をいずれの資料とするかで記述内容が変わってくることから、複数の資料を検証する必要があると思われます。今回、項目の掲載を確認した資料を広くお知らせします。 1 県史、医師会史等(※一部、質問者の事前調査資料との重複があり。) ・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編 下野新聞社 1980) p.510-511「栃木県医学校」(以下引用) 「1876年(明治9年)に県立栃木病院の中に附属医学校を設置して医師の養成を始めた。1878年4月にこの附属医学所を栃木医学校とし、栃木病院を附属病院にして、県立の医学校が成立した。翌年には栃木県医学校と改称した。」 ・『栃木県史 通史編6 近現代1』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1982)  「第三章 近代教育制度の発足 五 栃木県医学校と足利織物講習所」に「栃木医学校」の項があります。(p.314-316)  『栃木県大百科事典』の記載内容について、一次資料の情報が得られます。なお、廃校に時期について、「明治十五年、民権派議員の意向により廃校となった」とあります。 <今回記述に齟齬を確認した資料> ・『栃木縣史 第6巻(教育編)』(田代善吉/著 臨川書店 1972) ※下野史談会昭和8~17年刊の複製資料です。 p.89-94「医学校」の項があり、「医学校廃止上申書」が収録されています。 栃木県医学校に関する記述がありますが、他の資料と設立年が異なります。 後述の『栃木市史 通史編』(栃木市史編さん委員会/編 栃木市 1988)p.1081に、田代善吉の『栃木県史』における「栃木県医学校」の記述は、足利藩に明治元年設定された藩校、求道館中にあった医学教授のことを混同したものと思われるという指摘があります。 2 栃木市の地域資料 ・『栃木市史 通史編』(栃木市史編さん委員会/編 栃木市 1988) p.1081-1084「栃木県医学校」 ・『栃木市の歴史』(日向野徳久/著 栃木市 1966) p.227-228「第四部 近代・現代 第一章 新政の発足 第三節 学校教育の発足」に「栃木県医学校」の項があり。 ・『栃木郷土史』(栃木郷土史編纂委員会/編 歴史図書社 1977) p.283「第四篇 最近世 第三章 県庁設置より移転まで 第三節 学校教育の新発足」に「(三)栃木県医学校」の項があり。 ・『目で見る栃木市史』(栃木市史編さん委員会/編 栃木市 1978) p.371-372「栃木県医学校」 ・『目で見る栃木・小山・下都賀の100年』(小森谷昭平/〔ほか〕編集 郷土出版社 2000) p.33-34「三、近代教育の始まり-学都栃木に師範学校と医学校」の項があります。 3 医師会史等 ・『宇都宮市医師会史 Ⅰ』(宇都宮市医師会史編纂委員会/編 宇都宮市医師会 1986) p.35-37「第二章 病院の創設と発展 第一節 明治期 県立病院」の項に栃木病院の名が散見されます。 ・『宇都宮市医師会史 Ⅱ』(宇都宮市医師会史編纂委員会/編 宇都宮市医師会 1986) p.384-385年表内に、「明治九年九月 栃木町の県立病院内に「附属医学所」設置。(明十五年廃止)」、「明治十一年四月 栃木病院付属医学所を栃木医学校と改称(修業年三年、定員五十人)」の記述があります。 ・『宇都宮市医師会史 Ⅱ』(宇都宮市医師会史編纂委員会/編 宇都宮市医師会 1986) p.384-385年表内に、「明治九年九月 栃木町の県立病院内に「附属医学所」設置。(明十五年廃止)」、「明治十一年四月 栃木病院付属医学所を栃木医学校と改称(修業年三年、定員五十人)」の記述があります。           ・『足利市医師会史 通史編』(足利市医師会会史編纂委員会/編 足利市医師会 1991) p.153-154「第七節 栃木医学校の誕生と足利地方」の項あり。 ・『塩谷郡市医師会史 新生医師会半世紀の歩み』(塩谷郡市医師会史編纂委員会/編 塩谷郡市医師会 2003) p.13「2.幕末から明治、敗戦までの医療事情」の項に、栃木医学校に関する記述がわずかにあります。 ・『図録日本医事文化史料集成 第五巻』(日本医史学会/編 三一書房 1979) p.234「栃木県の医史」の項があり、栃木県の医育施設に関する記述がわずかにあります。 以下の資料は、お調べしましたが記述を確認できませんでした。 ・『足利市医師会史 史料編』(足利市医師会会史編纂委員会/編 足利市医師会 1992) ・『幕末・明治・大正期の医療 塩谷の地から「醫」をさぐる』(塩谷郡市医師会史編纂委員会/編 塩谷郡市医師会 2016) ・『栃木県医師会創立50周年記念誌 温故知新』(栃木県医師会/編 栃木県医師会 2000) ・『県立栃木病院長松岡勇記の生涯 地方医療の先駆者』(内山謙治/編、発行 2009) 事前調査事項:<事前調査済資料> ■栃木県医学校関係 日本医学教育史  下都賀郡市医師会史  上都賀郡市医師会史  栃木県医師会史  とちぎメディカルヒストリー  栃木県史通史編6近現代一  栃木県史史料編近現代一  栃木市史史料編・近現代Ⅱ  栃木県教育史第四巻 栃木県議会史第一巻  ■栃木病院関係 栃木県史材料10政治部病院1 栃木県史材料11政治部病院2 栃木県史材料13政治部種痘 ■県立文書館で該当年代の甲乙丙丁戊号達、無号布達、第達、県令達を調査済み

明治末期に宇都宮市の繁華街にあった店舗を調べたい。できれば現在地も知りたい。(栃木県立図書館)

以下の調査方法があります。 1 営業便覧から調べる(明治末期) ・『宇都宮市商業地図』(田口浪三/編 国書刊行会 1982) ※『栃木県營業便覧』(城北逸史/編著 全国営業便覧発行所 1907)の宇都宮分を翻刻。 通りに沿って並ぶ店舗を図解した資料です。おおよその位置関係を確認することができます。 より正確な現在地をお求めの場合には、調査対象の地番が判明していれば、『栃木県地番図』(地図研究所/編、発行 1932)等で場所を把握し、現在の状況を『ゼンリン住宅地図』等と見比べて検証する調査方法があります。   2 明治時代の商業施設に特化した資料から調べる ・『宇都宮商工広告集』(荒川清次郎/編 国書刊行会 1982)  ・『宇都宮商工人名録』(荒川清次郎/編 国書刊行会 1982) ・『宇都宮繁昌図譜』(うつのみや・若草史料コレクション/編 藤田好三 1996) 3 県史や写真集から調べる ・『栃木県史 史料編 近現代7』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1978) 「一、商業概況」の項に宇都宮市街図、商業地図あり。 ・『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 宇都宮』(徳田浩淳/編 国書刊行会 1979) 巻末に地図があり、本文(写真集)の調査の助けとなる。 ・『広馬場(ばんば)は宮の夢舞台』(藤田好三/著 しもつけの心出版 2012) 広く関連資料の収録あり。

「女性ドライバーの日」制定のきっかけとなった栃木県在住の女性ドライバーについて知りたい。(栃木県立図書館)

評伝等の刊行が確認できなかったため、新聞記事を中心にお調べしました。 1 当館所蔵資料からの調査 ・『日本自動車史 2』(佐々木烈/著 三樹書房 2005) p.215-219「第7章 自動車学校のはじめと最初の女性運転手」「6 女性運転手のはじめ」 大正6年(1917)1月30日の読売新聞記事を引用しながら、該当の人物は、「渡辺はま」氏として紹介されています。東京朝日新聞と東京日日新聞の引用もあり、氏の免許取得後のあゆみも確認できます。 p.276 「日本自動車年表(1914~1927)」 1917年1月に「東京自動車学校に2人の女性が入学する」として渡辺はま氏の記事がありました。 ・『日本自動車史写真・史料集 明治28年(1895年)-昭和3年(1928年)』 (佐々木烈/編纂 三樹書房 2012) p.494 「最初の女性運転手渡辺はま、水野千花尾と関根いく」 p.495 「10年無事故で表彰された渡辺はまと橋本増治郎の免許証」 新聞記事、雑誌記事が多数紹介されています。写真あり。 引用元:「読売新聞」大正6年1月30日記事、「婦人公論」大正6年7月号記事、「東京朝日新聞」昭和8年5月10日、「東京日日新聞」昭和8年5月11日記事 2 新聞記事 インターネット情報から、次の記事を確認しました。 ・http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2011021100008.html (2018年12月15日確認) 「ことばマガジン」昔新聞・大正時代の記事「日本初の女性ドライバー?」薬師知美 1917年9月29日付東京朝日朝刊5面が掲載されています。 この記事の日付を手掛かりに、マイクロフィルムで「下野新聞」を調査したところ、記事が確認できました。 ・「下野新聞」1917年9月29日 3面 3 その他 次の資料からは、関連の記述を確認できませんでした。 ・『栃木県人物・人材情報リスト 2017』(日外アソシエーツ/編 日外アソシエーツ 2016) ・『郷土歴史人物事典栃木』(尾島利雄/編著,柏村祐司/編著 第一法規出版 1977) ・『栃木県警察史 上巻』(栃木県警察史編さん委員会/編 栃木県警察本部 1977) ・『日本自動車史年表』(GP企画センター/編 グランプリ出版 2006) ・『今日は何の日 話のネタ365日 4訂版』(PHP研究所/編、発行2006)

栃木県にある高原山の航空写真写真が見たい。(栃木県立図書館)

高原山の所在地を確認し、所蔵する航空写真の掲載状況を確認しました。 ■高原山の所在地 『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編 下野新聞社 1980) p.442 「高原山」の項目にて、以下を確認しました。 「県北部、那須火山帯に属する一大火山群で、その領域は塩谷町、藤原町、塩原町、矢板市の四市町にまたがり、全山日光国立公園内にある。鬼怒川と箒川との間にある二つの死火山の総称。」「北の塩原火山は前黒山・明神岳・大入道・小入道で加工壁を形成 ~ この火山の北方山麓には寄生火山の富士山(1184m)がある。 ~ 南の釈迦ヶ岳火山は鶏頂山・御岳山・釈迦ヶ岳・西平岳でもって馬蹄形の火口壁を形成している。」 ■掲載が確認できた資料 ・『とちぎ大鑑 市町村別航空写真図集』(斎藤孝平/編 法政出版 1981) 「第7集 矢板・塩谷郡」の項から p.267 図115 高原山が確認できました。縮尺訳40.000分の1 p.277 図120 高原山を形成する鶏頂山と前黒山が確認できました。 ・『高原山の自然』(栃木県立博物館/編 栃木県立博物館 2008) p.2 「第1章 高原山のあらまし」にて、「空からみた冬の高原山」カラー写真 p.3 地図ソフトにて作成された高原山上空からのカラー画像が確認できました。 以下からは、掲載を確認できませんでした。 ・『航空写真集 空から見た栃木』(下野新聞社出版部/編 下野新聞社 1982) ・『宇都宮航空写真図』(地形社 出版年不明) ・『ビジュアルワイド新日本風土記 9 栃木県』(ぎょうせい 1988)

明治時代の小山市の商業地図を探している。(栃木県立図書館)

以下の資料を確認しました。 ・『栃木県營業便覧』(城北逸史/編著 全国営業便覧発行所 1907) 「小山町」として掲載されています。 『小山市史 史料編(近現代1)』(小山市史編さん委員会/編 小山市 1984)にも収録されています。(p.440-452) なお、『栃木県營業便覧』の記載範囲については、埼玉大学機関リポジトリで公開されている以下の論文を確認しました。大正15年の地形図を用いて、記載範囲の検証がなされています。 ・谷謙二/著「明治後期発行『群馬県営業便覧』および『栃木県営業便覧』の市町村別記載範囲について」 (「埼玉大学教育学部地理学研究報告」30号 2010) http://id.nii.ac.jp/1586/00016179/ (最終確認日:平成30年11月7日) また「国立国会図書館デジタルコレクション」(当館未所蔵資料)では以下の資料も閲覧できます。 ・『大日本職業別明細図』(東京交通社 昭和12年)〔資料識別子:8311839/431〕 小山駅周辺の店舗の名称が確認できます。

「日光羊羹」はいつから生産されていたのか。江戸時代の記録、評判等を確認したい。(栃木県立図書館)

以下の資料から関連の記述を確認しました。 ・『日本の伝統産業 物産編』(通産企画調査会/編、発行 1978) p.161「日光羊羹」の項があり、「日光羊羹が売り出されたのは延宝年間というから歴史は古い。当時、徳川家康の霊廟のある日光東照宮は参詣客で大賑わいだったというから、この羊羹の人気も想像以上であったろう。」との記述があります。 ・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編、発行 1980) p.871-872「日光土産」の項があり、「食べものの土産には、創業百年余の羊かん店もあり、「日光羊かん」と呼ばれ古くから有名である。」との記述があります。 ・『日光史』(星野理一郎/著 「日光史」特別領布会 1977) p.168「十七、産業」の項に「(3)日光煉羊羹 これも徳川時代に有名になつたものである。」との記述があります。 ・『和菓子の辞典』(奥山益朗/編 東京堂出版 1983) p.266-267「日光羊羹」の項があり「綿半は延宝年間(一六七三-)、初代綿半屋半兵衛により創業。「日光羊羹」はその頃から評判で、わざわざ江戸から買いに行くくらいであった。文政年間(一八一八-)、岩瀬東山の随筆『蜘蛛の糸巻』には「諸国にもある中に、日光なるは江戸にまされり」と「日光羊羹」を賞めている。」との記述があります。 ・『和菓子』(守安正/著 毎日新聞社 1973) p.104-106「二 江戸風羊かんの完成―鈴木越後」の項があり、「京菓子系の煉羊かんの理念を取り入れて江戸に登場したのが「喜太郎羊かん」であった。寛政のころ(一七九五)喜太郎という者が日本橋新道で菓子店を開き、…「今日は諸国でもある中に、日光なるは江戸に勝れり」と岩瀬京山に言われたぐらいで、日光羊かんより下級にされたのであるから、「綿半」の羊かんの下だった。」との記述があります。 ・『47都道府県・和菓子/郷土菓子百科』(亀井千歩子/著 丸善出版 2016) p.94「①日光の煉り羊羹」の項があり、「羊羹を日光で最初に製造販売したのは「綿半」で、創業は1787(天明7)年である。」との記述があります。 また、p.94「②江戸で讃えられた「綿半羊羹」」の項では、「江戸の戯作者・山東京山(京伝の弟)の『蜘蛛の糸巻』(1846〈弘化3〉年)に、羊羹のことが記され「今は諸国にもある中に、日光なるは江戸にまされり」と、「綿半の羊羹」が記されている。「綿半」の創業は天明で、江戸の「喜太郎羊羹」より数年早いことになる。」との記述があります。 ・『木村仙秀集 6』(木村捨三/著 青裳堂書店 1984) p.1-85「江戸時代商標集」に「下野日光 綿屋の羊羹」(p.68)があります。 先述の資料を元に、※国立国会図書館デジタル資料より以下の資料を確認しました。 ・『集古. 乙亥(2)』(集古会 1935)【国立国会図書館/図書館送信参加館内公開】 「續々商牌集 其十」(木村捨三/著)に「下野日光羊羹」の項があり「綿屋下野大掾」と記載があります。(コマ番号8) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1890779/8?viewMode= (2018.9.21最終アクセス) その他(お調べしましたが、新たな記述は確認できませんでした。) ・『日光市史 中巻 近世』(日光市史編さん委員会/編 日光市 1979) ・『日光市史 下巻 近現代・民俗』(日光市史編さん委員会/編 日光市 1979) ・『日光山志』(植田孟縉/著 臨川書店 1996) ・『下野国誌』(河野守弘/著,佐藤行哉/校訂 校訂増補 下野新聞社 1989) ・『大日本博覧図 栃木県之部 復刻版』(あかぎ出版 1985)※精行舎明治23年刊の複製 ・『日本の食生活全集 9 聞き書き栃木の食事』(「日本の食生活全集栃木」編集委員会/編 農山漁村文化協会 1988) ・『ふるさとの味おふくろの味』(栃木県地域婦人連絡協議会/〔ほか〕編 栃木県農業懇談会 1977) ・『日本随筆大成 第2期 第7巻』(日本随筆大成編輯部/編 吉川弘文館 1994) ・『江戸時代の名産品と商標』(江戸遺跡研究会/編 吉川弘文館 2011) ・『事典和菓子の世界 増補改訂版』(中山圭子/著 岩波書店 2018) ・『図説和菓子の歴史』(青木直己/著 筑摩書房 2017) ・『地域食材大百科 第14巻』(農山漁村文化協会/編 農山漁村文化協会 2014) ・『江戸っ子菓子屋のおつまみ噺』(細田安兵衛/著 慶応義塾大学出版会 2009) ・『お菓子は世につれ世は菓子につれ お菓子の日本史』(吉田菊次郎/著 朝文社 2009) ・『砂糖の文化誌 日本人と砂糖』(伊藤汎/監修 八坂書房 2008) ・『幕末単身赴任下級武士の食日記』(青木直己/著 日本放送出版協会 2005) ・『嬉遊笑覧 4』(喜多村〔イン〕庭/著,長谷川強/ほか校訂 岩波書店 2005) ・『全国・和菓子めぐり 日本の心を今に伝える銘菓69選』(徳間書店 1996) ・『和菓子の系譜』(中村孝也/著 国書刊行会 1990) ・『享保・元文諸国産物帳集成 第2巻』(盛永俊太郎/共編,安田健/共編 科学書院 1985)

「日光祭礼奉行」の役割等について知りたい。歴代の名代についても調べたい。(栃木県立図書館)

以下の資料から関連の記述を確認しました。 ・『千人武者行列』(高藤晴俊/編著,日光東照宮/監修 下野新聞社 2015) 「資料・解説編 一.江戸時代の祭礼 江戸時代の行列立」より「御祭礼奉行」(p.126-127) 「祭礼の執行責任者として、幕府から譜代の大名がその都度派遣された。奉行は二名で、当日は衣冠の装束を着け、渡御祭には本社の神輿の前を徒歩で供奉した。また、祭礼の警護の任務も帯びており、渡御行列の通る沿道に家臣を配備した。」とあります。 ・『東照宮史』(別格官幣社東照宮社務所/編・出版 1927) 「第六章 祭儀 大祭」の項目に、以下の記述があります。 p.171「日光奉行は衣冠で御殿の北門前に控へます。また祭禮奉行両人は束帯で三佛堂へ入り、神輿の出御に及んで、堂前に出てこれに供奉いたすのであります。」 また、神輿渡御の際の行粧について、祭礼奉行については以下のように書かれています。 p.174「御祭禮奉行 二人、二行、赤色衣冠、宿坊の院代相随ふ、素絹輪袈裟」 ・『社家御番所日記 第15巻』(別格官幣社東照宮社務所/編・出版 1975) 巻頭の解題に以下の記述があります。 p.6「御名代・御祭礼奉行両任ともに、その任命、参向、復命等に甚だ煩瑣な手順を踏んでおり、御祭礼奉行を勤める大名は衣冠徒立ちで渡御の神輿に供奉するのを例とし、神祖に如在の恭敬をつくした。」 巻末の史料に「御名代・御祭礼奉行」の項目があります。(p.650-688) 柴田豊久氏の調査に基づき、元和3年~明治元年までの歴代の名代と祭礼奉行を、年表形式でまとめています。 以下の資料には、日光祭礼奉行の記述は確認できませんでした。 ・『日光東照宮の成立』(山澤学/著 思文閣出版 2009) ・『栃木県史 通史編5』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1984) ・『日光市史 中巻(近世)』(日光市史編さん委員会/編 日光市 1979) ・『日本紀行文集成 第4巻 新装版』(日本図書センター 2001) ・『日光社参と日光例幣使』(大島延次郎/著 下野史学会 1956) ・『日光山の歴史と文化』(中村安孝/編 名著出版 1980) ・『柴田豊久著作集 近世日光下野刀剣考』(柴田豊久/著 柴田豊久著作刊行会 1983) ・『江戸時代役職事典 改訂新版』(川口謙二/〔ほか〕著 東京美術 1992) ・『江戸役人役職大事典』(新人物往来社/編、発行 1995) ・『江戸幕府大事典』(大石学/編 吉川弘文館 2009)

東照宮で見た花の彫刻について。バラの彫刻であるそうだが、他の花に見えた。 『日光東照宮 日光東照宮400年式年大祭記念』(須田慎太郎/撮影・文 集英社インターナショナル 2015)を見ると、写真のキャプションは「長春(バラ)」とある。長春とはどんな花か。(栃木県立図書館)

以下の資料に記述を確認しました。 バラ科の植物で庚申薔薇という別名があることが分かりました。 ・『日本国語大辞典 第9巻(ちゆうひ-とん) 第2版』(日本国語大辞典第二版編集委員会/編,小学館国語辞典編集部/編 小学館 2001) p.57 「ちょうしゅん 長春」の項に「②直物「こうしんばら(庚申薔薇)」の漢名」とあります。 また、「ちょうしゅんか 長春花」の項には「①植物「こうしんばら(庚申薔薇)」の異名。」と並んで「きんせんか(金盞花)」の異名とも記載されています。 ・『植物レファレンス事典 2(2003-2008 補遺)』(日外アソシエーツ編集部/編、発行 2009) p.263 「コウシンバラ 庚申薔薇」の項に「双子葉植物網バラ目バラ科の常緑低木。別名チョウシュン。」 ・『寺崎日本植物図譜』(寺崎留吉/図,奥山春季/編 平凡社 1977) p.330 「コウシンバラ」の項に「中国の原産で、わが国に古く渡来した。チョウシュン(長春)ともいう。」花や葉の形がモノクロで確認できるため、彫刻の形と比較することができます。 ・『原色樹木大圖鑑 新訂』(邑田仁/監修 北隆館 2004) p.329 「コウシンバラ」の項では、原産地、分布、自然環境、用途、形態、名前の由来、学名とカラーの図で確認できるが「長春」の記載はありません。 「花は春から秋遅くまで、約50日を周期として返り咲するというのが庚申(60年に1度くる)バラといわれる所以である。」 次の資料は、お調べしましたが記述を確認できませんでした。 ・『植物和名の語源 新装版』(深津正/著 八坂書房 1999) ・『日本中国植物名比較対照辞典』(増淵法之/編 東方書店 1988)

明治時代に県庁所在地が栃木から宇都宮に移された経緯を知りたい。(栃木県立図書館)

以下の資料から記述を確認しました。項目と掲載頁をお知らせします。 ・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編 栃木県大百科事典刊行会 1980) p.246「県庁移転」の項があります。 ・『栃木県史 通史編6』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1982) 「第二章 自由民権運動 第三節 民権運動の衰退 一 民権運動の変容と県庁移転」に、「県庁移転問題」「県令三島通庸と県庁移転」の各項があります。(p.176-180) ・『宇都宮市史 第7巻 近・現代編1』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1980) p51-97「第二章 県庁の宇都宮移転」の項があります。なお、移転の経緯については「第一節 運動の発足」から「第四節 県庁の移転」までの各項に記述が確認できました。(p.51-91) ・『土木県令・三島通庸』(丸山光太郎/著 栃木県出版文化協会 1979) p240-263「栃木県庁の移転」の項があります。なお、移転の経緯については、「栃木県庁移転運動の動き」「再び県庁移転説が」「県庁宇都宮に移転」の各項に記述が確認できました。(p.241-248) ・『ふるさと栃木県の歩み』(栃木県教育委員会/編 栃木県文化振興事業団 1986) 「第七章 栃木県の成り立ち 第二節 自由民権運動と政治への参加 三 民権運動の激化」に「三島通庸と県庁移転」の項があります。(p.350-351) ・『栃木県の百年』(大町雅美/著 山川出版社 1986) 「二 殖産興業と自由民権運動 3 激化をたどる政争」に「県庁の移転」の項があります。(p.61-64) ・『栃木県の歴史』(阿部昭/著,橋本澄朗/著,千田孝明/著,大嶽浩良/著 山川出版社 2011) 「9章 栃木県の成立と近代化」に、「コラム-移転と二度の火災」があります。(p.283-286) ・『あなたの知らない栃木県の歴史』(山本博文/監修 洋泉社 2013) p.162-163「Q62 栃木県庁が明治十七年に移転された理由とは?」の項があります。

栃木県の結婚式について知りたい。特に昭和の頃の様子を知りたい。(栃木県立図書館)

民俗学的な見地から書かれた資料は以下のものがあります。 ・『しもつけの女 女の民俗誌』(尾島利雄/著 下野新聞社 1981) p.35-42 「下野の女の一生」の章に「結婚式」の項があります。 ・『関東の祝事 誕生・婚姻・年祝い』(都丸十九一 /〔ほか〕著 明玄書房 1978) p.112-122「栃木県の祝事 婚姻」〔日向野徳久〕の項があります。 ・『栃木県民俗事典』(尾島利雄/著,下野民俗研究会/編 下野新聞社 1990)  ※巻末に収録されている「栃木県民俗学関係資料目録」では、発行年順に資料が紹介されています。   目録の中に以下の論文の情報を確認しました。   小山田君子「通婚圏内の推移と婚礼儀礼」(『社会調査実習報告書 杉と獅子舞の村(後編)』(宇都宮大学教育学部社会学研究室/編 昭和60年)所収)※当館未所蔵資料です。 以下は実用的な内容の資料です。 ・『新栃木の冠婚葬祭』(下野新聞社/編、発行 1998)p.18-63 ・『栃木の冠婚葬祭』(下野新聞社/編、発行 1991)p.24-67 以下の資料は、関連記述を確認できませんでした。 ・『しもつけ民俗歳時記』(下野新聞社/編 下野新聞社 1970) ・『関東の歳時習俗』(池田秀夫/著 明玄書房 1975)

ページ