レファレンス協同データベース新着事例

八木沢亨/著『所野の昔話』という資料を探している。(栃木県立図書館)

当館未所蔵資料です。所蔵機関の情報を確認することができませんでしたが、資料が確かに発行されていたことの裏付けとなる情報は確認することはできました。 ・『栃木県民俗事典』(尾島利雄/著,下野民俗研究会/編 下野新聞社 1990) 「栃木県民俗学関係資料目録 Ⅰ文献資料 (2)報告書類」の項に「改訂所野の昔話・附伝承行事(栃木県日光市所野)八木沢亨 昭和49」の記載があります。(p.450) ・「教育とちぎ」1975年11月号、302号(栃木県教育委員会) ※『教育とちぎ 298~303号』として合冊製本して登録しています。 p.30-31「個人研究の歩み 昔話の収集 八木沢亨」の記事あり。 「1 小冊子を作る」の項に「「所野の昔話」と題して、ガリ版刷り二十ページの小冊子として発行したのが三十八年でした。これは五十部作り、地区内外の関係者に配布しました。…「改訂所野の昔話」を発行したのが四十九年十二月でした。…」とあります。

二荒山神社の初代神主を知りたい。(栃木県立図書館)

・『二荒山神社』(日光二荒山神社社務所/編 日光二荒山神社社務所 1917) p.257-270「奉仕者」の項に 「貞観二年に勅許ありて、大中臣從四位下淸眞を以て神主とせり。」 「大中臣氏 大中臣淸麿の四男諸淸、其嫡子淸眞貞観二年九月當社の神主に任ぜらる。」とあり、略系図も記載されています。 下記の資料からは、神主の着任年代以外の記述は確認できませんでした。 ・『宇都宮二荒山神社誌 通史編』(雨宮義人/著 宇都宮二荒山神社/編、発行 1990) p.42-44「第二節 加階の記録と延喜式内社 一 神階の記録」に「また、この間、貞観二年九月十九日には二荒山神社に初めて神主を置くとの記事があるが…」とあり。 以下の資料は上記と内容が重複するため、資料名とページ数、項目名のみをお伝えします。 ・『宇都宮二荒山神社誌 資料編』(雨宮義人/編 宇都宮二荒山神社 1988) p.147「(三) 二荒山神社神職沿革」に記述あり。 ・『栃木県史 史料編 古代』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1974) p.264「貞観二年(八六〇)」に記述あり。 ・『二荒山神社年表紀事略』(宇都宮二荒山神社/編 宇都宮二荒山神社 1892) 「同 二 九月十九日詔始置神主」とあり。 ・『日光二荒山神社』(日光二荒山神社/編 日光二荒山神社 1982) p.55「日光二荒山神社略年表」に記述あり。

栃木県内のオオカミについて。いつまで生息していたか。オオカミに関する伝承等はあるか。(栃木県立図書館)

次の資料から記述を確認しました。 1.栃木県内のオオカミの生存について ・『栃木県の動物と植物』(栃木県の動物と植物編纂委員会/編 栃木県教育委員会 1972)  p.207-208「動物編 Ⅴ各論」に「イヌ科 37オオカミ」の項目があります。 『日光山志』など江戸時代に発行された郷土資料にみるオオカミの記述や、明治時代前後の日光地方でのオオカミ出現の風説について触れた上で「以上のように、昔は群生していたオオカミも大体明治時代を境として、栃木県下でも滅亡へと向かっていったようである」との記述があります。また、最近の目撃情報として1971年奥日光付近でオオカミを目撃したという地元の猟師の話を紹介しています。 ・『レッドデータブックとちぎ 栃木県の保護上注目すべき地形・地質・野生動植物 2018』 (栃木県環境森林部自然環境課,栃木県立博物館/編 栃木県環境森林部自然環境課 2018)  p.456「オオカミ」の項目に、「栃木県ではすでに絶滅したと考えられる」との記述があります。 2.伝承について ・『日本昔話通観 第8巻』(稲田浩二,小沢俊夫/責任編集 同朋舎出版 1986)  「98 人と狼―送り狼型」の項に「参考話2 栃木県上都賀郡粟野町加戸・男」の話があります。 ・『粕尾の民俗 栃木県上都賀郡粟野町旧粕尾村』(東洋大学民俗研究会/編,発行 1974)  p.252「狼の話」の項があり、送り狼の話が記述されています。  ※先述で紹介した昔話の出典にあたる資料です。 ・『栃木のむかし話』(下野民俗研究会/編 日本標準 1977)  p.202-206「オオカミの恩返し」の項に、葛生町に伝わる送り狼の話が記述されています。 3.その他、お調べした資料(お求めの記述は確認できませんでした) ・『関東の歳時習俗』(池田秀夫/著 明玄書房 1975) ・『日本の民俗 第9巻 栃木』(尾島利雄/著 第一法規出版 1972) ・『関東の民間信仰』(日向野徳久/〔ほか〕著 明玄書房 1973) ・『栃木県民俗事典』(尾島利雄/著,下野民俗研究会/編 下野新聞社 1990) ・『絶滅した日本のオオカミ その歴史と生態学』(B.L.ウォーカー/著,浜健二/訳 北海道大学出版会 2009) ※索引があります。栃木県に関係する項目をお調べしましたが、お求めの記述は確認できませんでした。 ・『ニホンオオカミの最後 狼酒・狼狩り・狼祭りの発見』(遠藤公男/著 山と溪谷社 2018) ・『ニホンオオカミは消えたか?』(宗像充/著 旬報社 2017) ・『オオカミはなぜ消えたか 日本人と獣の話』(千葉徳爾/著 新人物往来社 1995) ・『追われる「けもの」たち 森林と保護・獣害の問題』(四手井綱英/著,川村俊蔵/著 築地書館 1976)

大谷軌道はなぜ市街地まで整備されなかったのか。(栃木県立図書館)

次の資料から関連の記述を確認しました。 ・『栃木県鉄道史話』(大町雅美/著 落合書店 1981) 「第6章 大谷石が結ぶ市内軌道―宇都宮市周辺の軌道」に「宇都宮軌道の出発点をめぐって」の項があります。(p.289-293) 軌道の出発点に関する参考資料として、『県議会日誌』が挙げられていますが、該当の年代は当館未所蔵です。また、「西原から材木町へ」の項があり、営業当初の起点であった西原町から一歩市内に入った材木町に軌道線が延長された経緯について記述があります。(p.295-296) ・『郷愁の野州鉄道 栃木県鉄道秘話』(大町雅美/著 随想舎 2004) p.180-189「宇都宮軌道運輸」の項があります。路線が市街地をどのように通るかについて、明治二八年の通常県会で議論が行われたことが記述されています。 以下の資料からは、記述を確認できませんでした。 ・『栃木県史 通史編7』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1982) 「第三章 明治期の鉱工業 第六節 鉱業」より「人車軌道と大谷石」の項(p.475-477) 「第四章 明治期の金融制度と交通・通信 第六節 鉄道の発達と交通の変貌」より「人車鉄道」の項(p624-627) ・『宇都宮市史 第7巻 近・現代編1』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1980) 「第六章 交通・通信の整備 第六節 宇都宮近郊諸社線」より「人車軌道」の項(p.624-630) ・『栃木県議会史 第1巻』(栃木県議会図書委員会/編 栃木県議会 1983) 「第十九章 明治二十八年 第一節 第十八回通常県会 六 議案審議の経過及び成議」より「3 土木費」(p.1366-1369)、「十六、国道仮定県道及一等里道々敷使用の儀諮問案」の項(p.1388) 「第二十章 明治二十九年 第一節 第三十四回臨時県会」より「二、国道仮定県道及一等里道々敷使用の儀諮問」の項(p.1410-1411) ・『宇都宮市議会史 年表編』(宇都宮市議会/編、出版 1995) ・『宇都宮市議会史 資料編1』(宇都宮市議会/編、出版 1995) ・『宇都宮市議会史 記述編1』(宇都宮市議会/編、出版 1996)

栃木と福島の県境にある「境の明神」について知りたい。火災があったと聞いた。(栃木県立図書館)

『栃木県神社誌』(栃木県神社庁/編 栃木県神社庁 2006)によると、「境の明神」と呼ばれる神社には、那須町大字寄居にある「玉津島神社」と、那須町大字簑沢にある「住吉玉津島神社」の2か所があります。 このうち「玉津島神社」について明治39年に民家の火事で類焼したとの記述がありました。神社の概要や火災について記述のある資料は次のとおりです。 1 「玉津島神社」の概要、伝承等について 明治期以前の資料を中心に確認しました。 ・『栃木縣史 第3巻(神社編)』(田代善吉/著 臨川書店 1972)※下野史談会刊の複製資料 p.491-492「玉津嶋神社」 ・『増補那須郷土誌 再編復刻版』(渡辺金助/著 ヨークベニマル 1994)p.127-128「境の明神」 ・『那須郡誌』(栃木県那須郡教育委員会/編 名著出版 1974)p.224-225「二六、界の明神」 ・『下野国誌 校訂増補』(河野守弘/著,佐藤行哉/校訂 下野新聞社 1989)p.186「境明神」 2 「玉津島神社」の火災について   近年の郷土史研究で詳細が確認できました。 ・『那須町誌 前編』(那須町誌編さん委員会/編 那須町 1976) p.436-437「第一五節 玉津島神社(寄居字唐門 旧村社)」 ※現在の社殿建立時の記念碑文の抜粋が掲載されています。 ・伊藤晴康/著「玉津島考」 『那須文化研究 第19号』(那須文化研究会 2005)p.103-114所収 p.103-105「一 境の明神」の項に「明治三九年(一九〇六)一二月二一日の火災によって、社殿とその周辺の民家は焼失」とあり。 以下にも同様の記述がありました。 ・『那須町の文化財』(渡辺 龍端/著 那須町教育委員会 1974)  p.22「明神玉津島神社」 ・『那須町史資料集第4号 奥州道中 芦野宿~境明神』(那須歴史探訪館/編 那須町教育委員会 2006) p39-40「玉津島神社を祀る 明神」 3 その他 以下の資料はお調べしましたが、記述を確認できませんでした。 火災の日付が特定できたため、索引類も使用しなから新聞記事も調査しました。 ・『明治ニュース事典 総索引(明治ニュース事典編纂委員会/編 毎日コミュニケーションズ出版部 1986) ・『新聞集成 明治編年史 第13巻』(明治編年史編纂会/編 財政経済学会 1935) ・『「下野」世相100年史』(「下野」世相100年刊行委員会/編 下野新聞社 1984) ・『那須野の歴史』(川島武夫/著、発行 1988) ・『那須の文化誌 自然・歴史・民俗を読む』(那須文化研究会/編 随想舎 2006)

宇都宮市内にある商業地域「インターパーク地区」の開発経緯が知りたい。(栃木県立図書館)

所蔵資料からは情報を確認できませんでしたが、宇都宮市のホームページで都市計画情報を確認することができました。またデータベースを活用し、関連記事等も確認できました。 1 宇都宮市の都市計画 宇都宮市のホームページから関連パンフレットの閲覧が可能です。 トップページ > 暮らし > 住まい・まちづくり > 建築・開発 > 都市計画 > 地区計画パンフレット に、「宇都宮インターパーク地区計画」(宇都宮市公式Webサイト)があり、本文が閲覧できます。 https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/machi/kenchiku/toshikeikaku/1005762.html[2019年11月6日閲覧] 宇都宮インターパーク地区計画の計画書・計画図などの項があります。 2 新聞記事 契約する「下野新聞データベース plus 日経テレコン」(2001年以降の下野新聞を検索可能。)で「インターパーク」「開発」等のキーワードで検索したところ、以下の記事がありました。 ・2001年2月23 日 7面「「インターパーク宇都宮南」/東谷・中島工業団地愛称決まる」 本文中に「一九九七年十二月から都市基盤整備公団が造成(略)」とあります。 ・2001年5月15日 1面「北関東最大級の商業施設/「福田屋」2年後に出店/宇都宮上三川IC付近に計画/用地9.6ヘクタールを確保/店舗面積4万平方メートル」 本文中に「(通称・インターパーク宇都宮南)(略)テクノポリス新都市計画の一環に位置付けられ(略)一九九七年から都市基盤整備公団が土地区画整理事業方式で造成に着手。」とあります。 この情報を元に下野新聞縮刷版1997年12月の目次を調べたところ該当記事は確認できませんでした。 3 論文 J-STAGE「インターパーク」「開発」等のキーワードで検索したところ、以下を確認しました。 ・城間 奨, 藤井 さやか, 有田 智一, 大村 謙二郎「工業団地の用途転換による大規模商業集積に関する研究」(『都市計画論文集』No,43-3 2008年10月p.925-929 ) 「3.事例における商業集積の経緯と課題 3-1インターパーク宇都宮南」の項があります。 4 その他(以下の資料からは記述が確認できませんでした。) ・『テクノポリス+宇都宮』(梅山良彦/〔ほか〕編 栃木県建築士会 1982) ・『宇都宮テクノポリス開発構想』(宇都宮テクノポリス建設推進協議会/編、発行 1983) ・『宇都宮テクノポリス基本構想 参考資料』(宇都宮テクノポリス建設推進協議会/編、発行 1982) ・『テクノポリス構想とまちづくり 小規模事業対策特別推進事業調査研究報告書』(栃木県商工会連合会/編、発行 1984)

江戸時代から昭和初期までの間、宇都宮市では「れんこん」をどの程度生産していたか。(栃木県立図書館)

以下の資料に関連の記述を確認しました。 ・『栃木県史 史料編 近現代4』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1974) 巻末の「統計篇」p.42に「れんこん」の項目があります。 明治36年から県内の生産高を確認できます。 ・『栃木県統計書 明治44年 第3編』(栃木県/編、出版 1914) p.18 宇都宮市に「れんこん」の項目があり、生産高を確認できます。 以降、発行が続いている当資料により昭和初期までの統計を追うことができます。 なお、『栃木県統計書』は明治30年~43年が欠号しています。明治25年以前には「れんこん」の項目は確認できませんでした。 以下の資料はお調べしましたが、関連の記述は確認できませんでした。 ・『享保・元文諸国産物帳集成 第2巻』(盛永俊太郎/共編,安田健/共編 科学書院 1985) 現在の宇都宮ではありませんが、近郊にれんこんを特産とする村があることを確認しました。 p.93「下野国諸村産物帳」に「れんこん 芦沼村」の記載があります。  『日本歴史地名大系 9』(平凡社 1988)のp.355「芦沼村」の項に、「 現 上河内村芦沼、塩谷郡氏家町大中」とあります。 ・『全国の伝承江戸時代人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ 9』(加藤秀俊/〔ほか〕編纂 農山漁村文化協会 1989) p.360「江戸時代栃木の物産一覧表」(れんこんは確認できず。) ・『下野国誌 校訂増補』(河野守弘/著,佐藤行哉/校訂 下野新聞社 1989) p.580-585「第十二巻 国産名物」(れんこんは確認できず。) 回答プロセス:明治期からは統計資料を参考により具体的な資料を探した。江戸期については、当時の特産品について書かれた資料を調査した。

平成天皇と田母沢御用邸のゆかりについて調べたい。疎開中のエピソード等を知りたい。(栃木県立図書館)

出典が明記された資料を中心にご紹介します。 1 公的記録 ・『昭和天皇実録 第9』(宮内庁/著 東京書籍 2016) p.384-385(見出し)「昭和19年7月9日 皇太子日光へ疎開」 「皇太子は疎開のため、東宮仮御所より日光田母沢御用邸に行啓、滞留する。その後、翌年七月二十一日、皇太子は同御用邸を発し、さらに疎開のため日光湯元に行啓、同年十一月七日の帰京に至るまで南間ホテルに滞留する。」 記録の依拠資料が多数併記されています。 2 天皇御自身や側近の回想等 ・『若竹のごとく 戦争と皇太子さま』(高杉善治/著 読売新聞社 1968) p.13-55「日光時代」 著者は学習院軍事教育御用掛を務め、皇太子の日光疎開へも随行されたそうです。詳細な回想録ですが、田母沢御用邸時代の記述は少なく、奥日光湯元に移動してからの生活に比重がおかれています。 ・『昭和史の天皇 5』(読売新聞社/編,発行 1970) p.52-134「日光の皇太子さま―陛下の周辺・その三」 当時の側近達からの聞き書きが記されています。文中に発言者名が示されています。 ・『天皇への道 明仁陛下の昭和史』(吉田伸弥/著 読売新聞社 1991) p.92-117「第六章 疎開」の項に、日光疎開に関する記述があり、田母沢御用邸滞在時の姿を写した写真も数枚掲載されています。(p.100-117) 巻末に参考文献一覧あり。 本文から、特徴的な記述をご紹介します。 p.101-104「体操で体づくり」 御用邸滞在時の体操による体づくりについて、東宮傳育官2名の聞き書きが記されています。 引用元は、前出の『昭和史の天皇 5』とあります。 p.105-107「両親からの手紙」  御用邸滞在時にやりとりした、昭和20年3月付の昭和天皇、皇后の手紙の文面を掲載されています。 p.107-108「二十年四月二十九日の日誌」  皇太子が記した日誌の文面が掲載されています。  出典は『側近日誌』(木下道雄/著 文芸春秋 1990)で、当館でも所蔵しています。 ・『人間昭和天皇 下』(高橋紘/著 講談社 2011) p.20-22「日光田母沢御用邸」 皇太子時代の1982(昭和57)年の記者会見の内容が引用されています。(疎開中の日光全体の印象) ・『平成の天皇と皇室』(高橋紘/著 文藝春秋 2003) p.47-49「日光の長男と東京の両親」 天皇の1996(平成8)年の記者会見の内容が引用されています。(51年ぶりに御用邸を訪れた印象) ・『陛下、お尋ね申し上げます』(高橋紘/著,鈴木邦彦/著 現代史出版会 1982) 昭和20~57年の天皇、皇后、皇太子、美智子妃、浩宮の記者会見記録集です。 「Ⅱ 皇太子、美智子妃、浩宮と一問一答」に、皇太子発言として、日光の疎開先でB29を見た旨の記述があります。(p.208) 3 その他確認した資料 記述内容は、前出の資料で述べられている事項が中心です。 ・『天皇家の戦い』(加瀬英明/著 新潮社 1975) p.75-80「少尉になれなかった皇太子」の項に、日光疎開に関する記述があります。(p.76-80) 「週刊新潮」の連載をまとめたものです。巻末「あとがき」に取材者や参考文献の情報があります。 ・『ジミーと呼ばれた日 若き日の明仁天皇』(工藤美代子/著 恒文社 2002) p.44-49「第一章 戦禍の朝に生まれて 奥日光の冬」 この章は前出『若竹のごとく』を主要な参考文献として挙げています。巻末にも参考文献一覧あり。 ・『近現代の皇室と皇族』(小田部雄次/著 敬文舎 2013) p.211-213「皇太子の家庭教師」の項に、田母沢御用邸での日課について記述があります。 参考文献一覧あり。

宇都宮市内にある「桜通り」の歴史を調べたい。昔の写真も見たい。(栃木県立図書館)

以下の資料を確認しました。 ・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編 栃木県大百科事典刊行会 1980) p.304 「さくらどおり 桜通り」項で概要を知ることができます。 「宇都宮市街地西部,国鉄宇都宮駅から大通りを約2km西進したところに位置する道路(国道119号線及び主要地方道宇都宮栃木線の一部)の通称。…(中略)…この道路は「軍道」と呼ばれ、終戦時ごろまでは宇都宮の花見の中心地となり,盛花時には,サーカス・芝居等の見世物小屋が立ち並び数万の人で埋められた。第二次世界大戦後,「軍道」という名称を避けて桜通りと改称された。」 ■明治期の状況 ・『宇都宮市六十周年誌』(宇都宮市役所総務部庶務課/編 宇都宮市役所 1960) p.1255 「第十一章 名勝・旧蹟」項「第一節 名勝」の中にモノクロ写真「桜通の桜花」があります。 p.1256 「第十一章 名勝・旧蹟」の中に「第一節 名勝」「(四)桜通り(軍道)の桜」の項があります。 ・『宇都宮市史 第8巻 近・現代編2』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1981) p.761-762 「第四節 市制(明治期)」項の「第七章 世相の推移 附文化」の中に軍道(桜通り)についての記述とモノクロ写真があります。写真は『宇都宮市六十周年誌』と同じものです。 ・『とちぎ歴史ロマンぶらり旅 道と水路を訪ねて』(とちぎの小さな文化シリーズ企画編集会議/編 下野新聞社 2004) p.164-165 「第二編 各説」の「37 第一四師団の移駐と軍道(桜通り)」の項に記述と図「桜植栽直後の軍道(明治末年の真景図より)」があります ■大正、昭和期の状況 ・『桜通由緒記念アルバム』(桜並木由緒の碑建立期成同盟会/編 桜並木由緒の碑建立期成同盟会 1964)【館内】 大正7.8年ごろの桜並木から桜の伐採、「桜並木ここにありき」記念碑の除幕式までの様子をモノクロ写真で見ることができます ・『陽西今昔物語』(宇都宮市西公民館ふるさと研究講座/編 宇都宮市西公民館 1990) p.14-17 「軍道の桜並木」の項に記述と、以下のモノクロ写真を見ることができます。 「花見客がくり出した軍道の桜並木(昭和14年)」 「仮装行列で賑わう軍道」「「桜並木ここにありき」の碑」 「陸上自衛隊雀宮駐屯地内の桜植樹記念碑」 「桜を植えた直後の軍道-白亜の建物は偕行社、その前の道は大谷街道-」 p.18 「軍隊商い」の項に、記憶に基づいて書き起こされた「大正10年頃の桜通り十文字付近の家並」の図があります。 ・『とちぎの歴史街道 みちの世界へ』(栃木県立博物館/編 栃木県立博物館 2005) p.128 「Ⅲ 近代の街道」項の「2 近代の道」「(2)宇都宮市街の道の変遷」の中に記述とモノクロ写真「軍道(桜通り)(絵葉書)大正~昭和初期」があります ・『栃木県史 通史編6』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1982) p.871 「第十一章 戦時体制下の民衆生活」項の中にモノクロ写真「11-21 軍道の花見と信号機(昭和15年)(栃木県立宇都宮工業高等学校提供)」があります。 ・『栃木県 新風土記』(岩波書店/編、発行 1987)※復刻ワイド版 p.25 モノクロ写真「市街の西端を南北に走る桜通りの桜並木」があります。 ・『うつのみや歴史探訪 史跡案内九十九景』(塙静夫/著 随想舎 2008)【館内】 ※『うつのみやの歴史再発見』(平成6年刊)の改訂・増補版 p.96-97 「余録4 第14師団の移駐と軍道(桜通り)」の項に記述とカラー写真「「桜並木ここにありき」の碑」があります。

栃木県上三川町にある天満宮の「八房の梅」の由緒を知りたい。(栃木県立図書館)

以下の資料に関連の記述を確認しました。 ・『栃木県神社誌』(栃木県神社庁/編 栃木県神社庁 2006) p.615-616 「第一九章 上三川町」に「天満宮 天神様」の項があります。 「…(前略)…寛弘四(1007)年、…(中略)…筑紫の太宰府天満宮より御祭神が愛で給う八英の梅の実をいただいてこの地に蒔いた。」 ・『上三川町史 通史編 上』(上三川町史編さん委員会/編 上三川町 1981) p.366 「第2章 上三川地域の寺社」「第4節 上三川町域の神社」の中に「天満宮」の項があります。「本社は一国一社威徳天神といい、寛弘四年(1007)…(中略)…北野より分霊を請うて一国一社の碑を立てたという。本社は史跡多功廃寺跡にあり八ツ房の梅の古木があった。」 ・『栃木縣史 第3巻(神社編)』(田代善吉/著 臨川書店 1972)※下野史談会刊の複製 p.255-256 「第十六章 村社」「第二節 村社沿革大要」の中に「天満宮」の項があります。 「明治村大字多功にあり、…(中略)…寛弘四年…(中略)…一國一社の碑を立て、八總の梅敷十株を植え今も梅木は境内に繁れりと、…(後略)…」 ・『天満天神信仰の教育史的研究』(遠藤泰助/著 講談社 1966) p.93 「第二章 天満宮の普及」「第三節 天満宮勧請の動機」「一 文学、書道、学問としての勧請」の中に「旧村社 天満宮」の項があります。 「…(前略)…寛弘四年…(中略)…一國一社の碑石を立又八房の梅數株を植て其梅樹社地に繁茂して今に存せり。」 以下の資料もお調べしましたが、記述は確認できませんでした。 ・『下野神社沿革誌 5 河内郡・宇都宮市部』(風山廣雄/編 風山廣雄 1903) ・『上三川町誌』(塩谷三夫/編、発行1950) ・『上三川町誌』(上三川町史編さん委員会/編 上三川町 1975) ・『上三川町の古代史』(上三川町文化財研究会/編、発行 1976) ・『上三川町史 史料編 近世』(上三川町史編さん委員会/編 上三川町 1979) ・『梅の文化誌』(梅花女子大学日本文学科/編 和泉書院 2001)

古代の防人について。下野(栃木県)出身者の防人歌や歴史的背景等について知りたい。(栃木県立図書館)

歴史、文学、文化等の観点から複数の資料が確認できました。 (各市町村史については、調査の過程で情報を得た地域のみを確認しています。) ・『下野の和歌 下野和歌史の試み』(渡辺幹雄/著 下野新聞社 1983) p.47-62「下野の防人歌」 本文中で、下野の防人歌の出身(当時の郡)と作者がまとめられています。(p.61) これをたよりに県内市町村史を調査したところ、以下の項目が確認できました。 ・『小山市史 通史編1』(小山市史編さん委員会/編 小山市 1984) p.343-347「原始・古代 第三章 奈良時代の小山」より「三 都賀・寒川郡の防人の歌」 ・『近代足利市史 第1巻(通史編 原始~近代2)』(足利市史編さん委員会/編 足利市 1977) p.107-108「第一編 原始・古代 第三章 律令制の実施」より「防人の歌」 ・『南河内町史 通史編 古代・中世』(南河内町史編さん委員会/編 南河内町 1998) p.224-227「第1章 木簡と文字瓦 第二節 河内郡の人びと」より「鎮兵・防人の人びと」 ※河内郡出身の防人歌の歌人について記述あり。 ・『塩谷町史 第4巻 通史編』(塩谷町史編さん委員会/編 塩谷町 1997) p.300-301「第二節 塩谷郡のあけぼの 第五章 奈良・平安時代」より「防人・丈部足人」 このほか、記述の確認できた資料は以下の通りです。 ・『栃木県史 通史編2』(栃木県史編さん委員会/編  栃木県 1980) p.316-323「第二章 奈良時代の下野国 第七節 農民の生活」より「五 防人の問題」 ・『栃木県総史 第1巻』(小林友雄/著 栃木新聞社 1962) p.198-204「上代の軍制と下野防人の歌」 ・『古代下野への誘い 見たい知りたい・古代の素顔』(塙静夫/著 下野新聞社 2002) p.102-109「七 西海の防衛に赴いた下野の防人たち」 ・『那須地域からみる東山道の諸相 企画展記念シンポジウム報告書 平成18年度』 (栃木県教育委員会/編,栃木県立なす風土記の丘資料館/編 栃木県教育委員会 2007) p.46-50「企画展「あづまのやまのみち - 那須の防人、広成が通った道-」(金子 智美/著) ・『郷土史会報 第11号』(南河内町教育委員会/編,南河内郷土史研究会/編 南河内町教育委員会 1995) p.50-53「町史に載った防人の歌」(海老原富美/著) ※防人の歌の「なまりことば」に関する考察。 ・『とちぎの歴史と文化を語る会年報 第6号』(とちぎの歴史と文化を語る会 2008)【館内】 p.1-4「万葉集の東歌・防人歌と下野の方言について」(森下喜一/著) ・『栃木文化への誘い』(國學院大學栃木短期大学/編 下野新聞社 2013) p.12-18「下野防人歌」(中村幸弘/著) ・『下野勤皇列伝 前編』(栃木県教育会/編 皇国青年教育協会 1940) p.53-57「勤皇の志を詠みたる下野防人の歌」 以下は、史実の概要の紹介に留まる記事、歌の鑑賞を中心とした記事ですが、ご参考までお知らせします。 ・『栃木県の歴史』(大町雅美/〔ほか〕著  山川出版社 1974) p.41-42「原始・古代」より「4下野の駅路 防人の歌」 ・『栃木県大百科事典』(栃木県大百科事典刊行会/編、出版 1980) p.302「さきもり(防人)」(塙静夫/著) ・『栃木の文学史』(栃木の文学史編集委員会/編 栃木県文化協会 1986) p.5-7「防人の歌」 ・『栃木の文学』(栃木県高等学校教育研究会国語部会/編、出版 1987) p.2-6「万葉集」の項に「防人歌」の解釈と解説あり。

中世小山氏の家臣団に関する資料を探している。家臣名を知りたい。(栃木県立図書館)

以下の資料に記載を確認しました。 ・『小山市史 通史編1』(小山市史編さん委員会/編 小山市 1984) p.668-971「第13表 文書に登場する小山氏の家臣団」があり、95人分の家臣名等が確認できます。注釈には「小山成長以降秀綱の時代を対象とする。」とあります。 ・『小田原衆所領役帳』(近藤出版社/編 近藤出版社 1969) ・『集註小田原衆所領役帳』(東京市役所/編 東京市役所 1936) どちらも「小田原衆所領役帳」を翻刻した資料です。 (※「小田原衆所領役帳」は北条氏康の時代に成立した分限帳です。) ・『戦国大名家臣団事典 東国編』(山本大/編,小和田哲男/編 新人物往来社 1981) 戦国大名の家臣団について、古文書・記録類をもとに叙述した事典です。p.273-317「後北条氏」の項目があります。 ・『三百藩家臣人名事典 第2巻』(家臣人名事典編纂委員会/編 新人物往来社 1988) 慶長5年(関ヶ原の戦い)から明治4年(廃藩置県)までに存在したすべての藩を対象とし、それぞれの藩に仕えた家臣の情報を収録しています。凡例によると、収録されているのは「史料的に確かな事績を残した人物」であるとのことです。 ・『後北条氏家臣団人名辞典』(下山治久/編 東京堂出版 2006) 後北条氏に関する古文書・記録類をもとに、当主・一族衆・家臣等や関係した人物の情報を収録しています。 ■そのほかお調べした資料(関連の名簿等は確認できませんでした。) ・『藩史大事典 第2巻(関東編)』(木村礎/〔ほか〕編 雄山閣出版 1989) ・『栃木県史 通史編3』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1984) ・『栃木県史研究 6~10』(栃木県史編さん専門委員会/編 栃木県教育委員会 1973) ・『小山郷土文化研究 第1~5集』(小山市郷土文化研究会/編 小山市教育委員会 1961) ・『小山郷土文化研究 第6~10集』(小山市郷土文化研究会/編 小山市教育委員会 1964) ・『小山氏の歴史 藤原秀郷流を中心として』(小山弘二/著 西田書店 1992) ・『下野小山・結城一族』(七宮〔ケイ〕三/著 新人物往来社 2005) ・『下野小山氏』(松本一夫/編著 戎光祥出版 2012) ・『小山氏の成立と発展 軍事貴族から中世武士の本流へ』(野口実/編 戎光祥出版 2016) ・『小山氏最後の領主小山秀綱』(知久豊/著 随想舎 2017) ・『関東中心戦国史論集』(東国戦国史研究会/編 名著出版 1980) ・『戦国大名後北条氏の研究』(杉山博/著 名著出版 1982) ・『小田原北条記 めざす関東制覇・早雲から氏康まで 上』(江西逸志子/著,岸正尚/訳 教育社 1980) ・『戦国大名論集 後北条氏の研究 第8巻』(佐脇栄智/編 吉川弘文館 1983) ・『後北条氏研究』(小和田哲男/著 吉川弘文館 1983) ・『小田原合戦関係文書目録 「小田原市史」史料編 原始 古代 中世Ⅰ 別冊付録』(小田原市/編 小田原市 1995) ・『戰國遺文 後北条氏編 補遺編』(下山治久/編 東京堂出版 2000)

佐野市内にかつてあったという堀米遊郭について調べたい。(栃木県立図書館)

以下の資料に関連の記述を確認しました。 ・『田沼町史 第4巻(資料編 3 近世)』(田沼町/編、出版 1983) p.500-501「一九〇 文政十三年(一八三〇)十一月 天明・犬伏両市の諸商売運上金取立につき売買禁止議定書」に「天明あら町へ食(飯)盛女差置候様に相成り」と記されています。 補注に「飯盛女」=「事実上遊廓化していた」、「天明あら町」=「堀米町荒町」とあります。 ・『佐野市史 資料編 3(近代)』(佐野市史編さん委員会/編 佐野市 1976) p.518-587「一九〇 佐野・犬伏・堀米町諸営業便覧(明治四十年十一月)」あり。 p.582-584に「堀米町」の地図があり、「荒丁」の通りが確認できます。 通り沿いに「亀楼」「塚吉楼」等、末尾に「楼」のつく店が6件確認できました。 ・『佐野市史 民俗編』(佐野市史編さん委員会/編 佐野市 1975) p.43-47「オ 堀米町」の項あり。 p.46の農業以外の商工業を一覧した表に「貸座敷 九」とある。 明治末期発行の「堀米町郷土史」(当館所蔵なし)からの引用情報であるとのこと。 ・『栃木県史 通史編6』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1982) 「第六章 日露戦争前後の政治・社会」の項にp.457-463「四 廃娼運動と政治」の項目あり。 p.460「栃木県統計書によれば明治二十五年(一八九二)の遊廓の場所と娼妓数はつぎのようである…(中略)…堀米(一〇五名)…(後略)」とある。 ・『栃木県史 史料編 近現代2』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1977) p.802-816「一九 遊廓増設問題」 p.803-804「遊廓設置規程」に地域が指定されており、安蘇郡堀米町も確認できます。 ・『角川日本地名大辞典 9』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1984) p.816-817「堀米<佐野市>」の項あり。 p.817「(前略)…井伊直弼は、当地にあった飯売旅籠を全廃させたが、明治期には復活し、田山花袋の「田舎教師」の中に堀米遊郭として登場している」とある。 ・『栃木県統計書 明治25年』(栃木県/編 1894) p.283-285「第一九〇 娼妓」の項あり。「安蘇郡堀米町大字堀米」とあり、21~25年の人数と開業、廃業時の人数あり。県史6 p.460より。 ・『近代庶民生活誌 14』(南博/責任編集 三一書房 1993) p.25「堀米町遊廓」

栃木県窯業技術支援センターの前身の機関について知りたい。 過去の刊行物等を保存していれば見たい。(栃木県立図書館)

栃木県窯業技術支援センターのホームページより、各年代の機関名を特定しました。 以下はホームページの沿革より一部抜粋しています。この名称を基にして、調査を行いました。 ・「窯業技術支援センター」(http://www.iri.pref.tochigi.lg.jp/index.php?id=251)2015.10.16確認  明治36年4月  益子陶磁器伝習所(益子陶器同業組合)  昭和13年4月  益子陶器試験場と改称(町立)  昭和14年4月  栃木県窯業指導所と改称  平成15年4月  組織改編により、栃木県産業技術センター 窯業技術支援センターに改称 「益子陶磁器伝習所」及び「益子陶器試験場」が発行した出版物は当館に所蔵がありませんでした。 また「栃木県窯業指導所」が発行した「業務報告」で当館が所蔵しているものは、以下のみでした。 ・昭和30、31、61、62 ・平成5、12、14 「業務報告」以外の「栃木県窯業指導所」の出版物は以下の2件を所蔵しています。 ・『栃木県窯業指導所概要』(栃木県窯業指導所/編、発行 1958) ※全10ページの小冊子です。 ・『益子焼の県産主要原料について 第1輯 昭和29年度』(栃木県窯業指導所/編、発行 1955) 栃木県窯業指導所の発行ではありませんが、以下の資料からも関連記述を確認しました。 ・『益子町史 第5巻 窯業編』(益子町史編さん委員会/編 益子町 1989) 「第一篇 窯場とその製品 第二章 近世・近現代 第一節 陶業家とその製品」に「(二一)益子陶器伝習所」の項があります。(p.264-275)主に伝習所で制作された作品について記されていますが、「初期の陶器伝習所に関しての記録は現在ほとんど残っておらず、現県立窯業指導所に当時の作品と思われる製品がわずかに陳列されているだけであった。」と記述があります。(p.265) 「第二篇 陶業の変遷 第三章 産業基盤確立の明治後期 第一節 明治末期の陶業界」に「(三)益子陶器伝習所」の項があります。伝習所の教師の変遷、県費補助額等が記載されています。(p.383-387) 「第二篇 陶業の変遷 第四章 激動の大正から第2次世界大戦まで 第二節 益子陶業界の新風」に「(二)陶器伝習所の建立移管」の項があります。(p.417-425) 「第三篇 窯業関係史料 (三)大正時代」に「一九三 大正五年一二月 益子陶芸伝習所一一月分 月報」(p.834)「一九五 大正六年 益子町立陶器伝習所一覧」(p.835-837)があります。 また、「国立国会図書館デジタルコレクション」からも以下を確認できました。 「国立国会図書館デジタルコレクション」 http://dl.ndl.go.jp/ ・『いっとじゅっけん. 37(4)』(関東経済産業局, 経済産業調査会 編 経済産業調査会 1992) アドレス http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2857838 27、28コマ目に「伝統的工芸品益子焼の今日この頃 / 栃木県窯業指導所」という記事があります。 以下の資料も調査しましたが、お求めの情報を確認できませんでした。 ・『益子陶磁器工業の地理学的研究』(荒井春男/著 エイト印刷 1957) ・『益子町陶器産額表 大正8・9年度』(益子陶器器業組合/編 益子陶器器業組合 1921)

鹿沼出身の俳人「小林又造」について知りたい。明治期に活躍した俳人でペンネームは沢鳬(たくきょう)と言うらしい。(栃木県立図書館)

文学史を中心にお調べしましたが、小林又造のほか、小林丈造の名で掲載される資料もありました。明治27年刊行の『下毛友かき』では、又造で記載されていました。 ・『下野の俳諧 風雅の人ここにあり』(竹末広美/著 随想舎 2008) p.185 「第二章 俳諧人名録の人びと」項の「6「下毛友がき」」の中に、俳号・よみ・居所・通称・俳句があります。「沢鳬 たくきょう 上都賀郡大芦。小林又造。蕣(あさがお)やけふは昨日の秋ならず」 ・『栃木県俳句史』(中田亮/編,手塚七木/編 栃木県俳句作家協会事務局 1982) p.303 「栃木県俳句史・明治以降」の項の「一、明治の俳人たち」より、「明治の俳人名簿」の中に「沢鳬 小林丈造 (東大芦)」とあります p.448 「五、鹿沼・今市・日光・足尾の俳句」の項の「鹿沼の俳句」に、幕臣であった霜柱庵磊山が私塾を開き多数の門弟を育成したとあり、磊山門下の中に「小林沢鳬―小林又造」とあります p.451 沢鳬の俳句があります。「捨てられぬ姿や雪のはたか山 沢鳬(小林又造)」 ・『鹿沼史林 第6号~第10号』(鹿沼史談会/編 鹿沼史談会 1958) 鹿沼史林 第9号 p.69 「鹿沼俳壇の歴史(その二)明治篇」の項に鹿沼の俳人の一人として「小林沢鳬(小林丈造)」の名前があります ・『下毛友かき 全』(土屋麓/編 田中庄太郎 1894) ※「下毛友かき」(田中庄太郎 明治27年刊)の複製,原本の出版事項:宇都宮町(栃木 県):田中庄太郎,明治27年 本文はくずし字のため図書館では解読しません。巻末「たの部」の項に「沢鳬 仝 東大芦 小林又造」とあります 次の資料は、お調べしましたが記述を確認できませんでした。 ・『栃木の文学史』(栃木の文学史編集委員会/編 栃木県文化協会 1986) p.192-195 「第4 近代文学の序章」項の「第五節 明治の歌人・俳人・柳人」「明治初期の俳人」の中に、本名土屋麓、霜柱庵三世磊山について「磊山は「下毛友かき」又は「下毛の花」などという俳諧誌を出して栃木を中心としてほぼ栃木県南の俳句界を統べる。」とありますが沢鳬(小林又造)の名前は確認できませんでした。 ・『鹿沼市の文学碑』(小林信夫/著 鹿沼市立図書館 1987) ・『日本人物情報大系 第49巻(学芸編 9)』(芳賀登/〔ほか〕編 皓星社 2000) ・『栃木県郷土の文学 全』(鈴木奎吾/〔ほか〕編 栃木県高等学校教育研究会国語部会 1966) ・『下野文籍志 栃木県の人と書物』(高宮太郎/編 しもつけ社 1969) ・『鹿沼の碑文』(小太刀源吉/編 小太刀源吉 1932) ・『俳句人名辞典』(常石英明/編著 金園社 1997) ・『東大蘆村郷土誌』(東大蘆村郷土誌編纂委員会/編 ) ・『かぬまの歴史 鹿沼市史普及版』(鹿沼市史編さん委員会/編 鹿沼市 2007) ・『かぬま郷土史散歩』(柳田芳男/著 晃南印刷 1991) ・『全国文学碑総覧 新訂増補』(宮澤康造/共編,本城靖/共編 日外アソシエーツ 2006)

独立行政法人国立病院機構 栃木医療センターの前身、衛戍病院の写真が見たい。分院のことも併せて調べたい。(栃木県立図書館)

<衛戍病院について> ・施設の概要(栃木医療センター公式ホームページ)  https://tochigi.hosp.go.jp/information/outline_shisetsu.html  「明治41年4月20日(1908年)宇都宮陸軍衛戍病院として創設され、その後、分院の設置を経て、宇都宮第一陸軍病院と宇都宮第二陸軍病院となり、昭和20年12月1日の厚生省へ移管と同時に、宇都宮第一陸軍病院が国立栃木病院へ、宇都宮第二陸軍病院が国立宇都宮病院として、それぞれ発足した。 ・『うつのみやの空襲』(宇都宮市教育委員会/編 宇都宮市教育委員会 2001) p.87 「衛戍病院は、日中戦争の激化による戦傷病兵の急増に対応するため、戸祭分院(師団司令部に南接)、新川分院(現戸祭小周辺)を設置した。」 ・『宇都宮市史 第8巻 近・現代編2』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1981) p.339 「第四章 医療と衛生」「第二節 市民医療」の項に「昭和二十年十二月一日、宇都宮第一陸軍病院・同戸祭臨時分院及び宇都宮第二陸軍病院が、それぞれ国立栃木病院ならびに国立宇都宮病院として発足し、二一年十二月二十日、両国立病院が合併して国立病院となった。二五年四月一日、日本医療団宇都宮中央病院(もと師団司令部跡)を併合し、新川分院を廃した。」とあります。 この情報を元に写真が確認できた資料は以下のとおりです。戸祭分院、新川分院は確認できませんでした。 ・『昔日の宇都宮 石井敏夫コレクションより』(塙静夫/解説,石川健/解説,随想舎/編 随想舎 1997) p.114 「宇都宮衛戍病院」正面からのモノクロ写真1枚 p.114 「設立直後の国立栃木病院」(『陽西今昔物語』より)上空からのモノクロ写真1枚。 ※上空写真は『陽西今昔物語』(宇都宮市西公民館ふるさと研究講座/編 宇都宮市西公民館 1990)にも同じものが掲載されていました。 ・『下野の明治・大正・昭和 絵葉書が映す,石井敏夫絵葉書コレクションより』(卯木伸男/解説,随想舎/編 随想舎 2009) p.93 「宇都宮衛戍病院正門」正面からのモノクロ写真1枚 ・『戸祭地域の歴史再発見』(戸祭歴史セミナー/編、発行 2018) 「昭和22年(1947)の戸祭地域航空写真」で「衛戍病院」「戸祭分院」「新川分院」の位置が確認できます。 p.26 「宇都宮衛戍病院の正門 『国本村村史』国本村青年団より」斜め正面からの着色されたモノクロ写真1枚 ※出典の『国本村誌』(国本村青年団/編、発行 1928)も所蔵しています。 ・『うつのみやの空襲(宇都宮市教育委員会/編、発行 2001) p.87「宇都宮師管区施設配置図(昭和20年6月~終戦の配置と呼称)の中に「宇都宮第一陸軍病院」と「宇都宮第二陸軍病院」の位置が記載されています。モノクロの航空写真1枚 ・『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 宇都宮』(徳田浩淳/編 国書刊行会 1979) p.95 「165 国立栃木病院」モノクロ写真の解説に「写真は発足数年後(昭和二六年頃)の国立栃木病院正面玄関車寄附近と事務室、木造二階建で旧司団司令部の建物を使っている。」とあります。 以下は写真の掲載が確認できませんでした。 ・『とちぎ 国立栃木病院創立25周年記念誌 1970』(国立栃木病院創立25周年記念誌編集委員会/編、発行1970) ・『写真でつづる宇都宮百年』(記念出版編集委員会/編 宇都宮市制100周年記念事業実行委員会 1996) ・『宇都宮今昔写真帖 保存版』(郷土出版社 2010) ・『宇都宮市の昭和 写真アルバム』(いき出版 2016) ・『栃木の近代建築』(松井任/編著,岡田義治/編著 栃木県建築研究会 1981) ・『宇都宮市史 第8巻 近・現代編2』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1981) ・『うつのみやの歴史 改訂』(宇都宮市/編、発行 1992) ・『栃木県史 通史編6』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1982) ・『二荒山は炎の中に 宇都宮空襲と戦時下のくらし 1930‐1951』(宇都宮平和祈念館建設準備会/編 随想舎 1992) p.134-135 「宇都宮市戦跡地図」[西部地区]の中で「国立栃木病院」の位置と周辺の様子が確認できます ・『第十四師団史 日本陸軍の精鋭』(高橋文雄/著 下野新聞社 1990) ・『とちぎ20世紀 下巻』(下野新聞「とちぎ20世紀」取材班/編 下野新聞社 2001) ・『栃木県警察史 上巻』(栃木県警察史編さん委員会/編 栃木県警察本部 1977)

広島・長崎原爆の日に行われた平和記念式典での「平和宣言」について、国連・首相・市長、それぞれの宣言の全文を読みたい。(栃木県立図書館)

主要新聞各紙に首相・各市長の宣言全文が掲載されていることを確認しました。 国連総長のメッセージは、広島原爆の日に寄せられたものをデジタル版に英文で掲載している新聞がありました。国連ホームページでは、日本語訳したメッセージ全文を確認することができました。 1 2018年の新聞各紙の掲載状況 ■読売新聞 2018年08月06日(夕刊)「広島原爆忌 安倍首相あいさつ全文」 2018年08月06日(夕刊)「広島平和宣言全文」 2018年08月09日(夕刊)「長崎原爆の日 安倍首相あいさつ」 2018年08月09日(夕刊)「長崎平和宣言」 ■朝日新聞 2018年08月06日(夕刊)、2018年08月07日(朝刊)「広島市長平和宣言(全文)」 2018年08月06日(夕刊)、2018年08月07日(朝刊)「広島平和記念式典・首相あいさつ(全文)」 2018年08月09日(夕刊)、2018年08月10日(朝刊)「長崎市長平和宣言(全文)」 2018年08月10日(朝刊)「長崎平和祈念式典・首相あいさつ(全文)」 ■毎日新聞 2018年8月7日(朝刊)「広島原爆の日 平和宣言(全文)」 同項に、デジタル版にて「 平和宣言と平和への誓い、国連事務総長メッセージ英文」が閲覧できる旨案内が記載されています。 2018年8月7日(朝刊)「首相あいさつ(全文)」 2018年8月10日(朝刊)「長崎平和宣言 全文」の項があり、市長・被爆者代表・首相、それぞれの宣言が記載されています。 2 国連ホームページ 国連事務総長メッセージの全文(日本語)が掲載されています。 トップ>ニュース・プレスメッセージ/演説事務総長関連平和式典に寄せるアントニオ・グテーレス国連事務総長メッセージ 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(広島、2018 年8月6日) https://www.unic.or.jp/news_press/messages_speeches/sg/29568/[2019年11月7日確認]

電柱についている住居表示(住所の書いてあるプレート)について調べたい。特にアラビア数字が使われるようになった時期を知りたい。(栃木県立図書館)

1962(昭和37)年5月10日に「住居表示に関する法律」(昭和37年法律第119号)が成立し、従来の「町名地番制度」から現在の「街区方式」あるいは「道路方式」に表示を改めることとなった。(朝日新聞 1962年6月15日10面より) 電柱につける表示(街区表示板)については、1963(昭和38)年7月8日の住居表示審議会の答申に「縦書きアラビア数字とする。」ことが盛り込まれている。(朝日新聞 1963年7月8日1面) また、自治省が1963(昭和38)年7月30日に「街区方式による住居表示の実施基準」(昭和38年自治省告示第117号)を発表しており、この中で「第2 表示板の基準」「2  街区表示板」「(3) 文字及び数字の書体」の項に「ロ 街区符号又は住居番号の表示に使用する数字は、アラビア数字とし、その書体は、ユニバース・メデテユウムを用いることが適当であること。」ある。 以上のことから、少なくとも「住居表示に関する法律」(昭和37年法律第119号)の成立以降は、アラビア数字を使用している。 回答プロセス:館内の所蔵検索では適切な資料が発見できなかったため、以下のデータベースで新聞記事を検索した。 『聞蔵Ⅱビジュアル』(朝日新聞) 『ヨミダス歴史館』(読売新聞) 検索キーワード:「住居表示」 朝日新聞、読売新聞共に、1962(昭和37)年5月10日の「住居表示に関する法律」(昭和37年法律第119号)成立と審議会の答申に関する記事があり、朝日新聞の記事により、電柱につける表示の名称が「街区表示板」であることがわかった。  法律の条文内に情報があるかどうかを確かめるため『官報情報検索サービス』を検索(検索キーワード:「住居表示に関する法律」、「街区表示板」)。「街区方式による住居表示の実施基準」(昭和38年自治省告示第117号)がヒットし、その中に回答の記述があった。

餃子の発祥を詳しく知りたい。日本ではいつから食べられているのか。(栃木県立図書館)

以下の資料から関連の記述を確認しました。 ・『たべもの起源事典 世界編』(岡田哲/著 筑摩書房 2014) p.146-147 「ギョーザ(中 餃子)」の項があり、 「創作の経緯は定かではない。1959年に新疆ウイグル自治区トルファン県アスターナ村で唐代の墓から出土する。清・明の頃に、発祥したとする説もある。三国時代の魏の『広雅』に「餛飩餃」とあり、餃子の初見とされる。(中略)日本には江戸中期に伝えられる。中国料理書の『卓子調烹方』(1778)が初見とする説がある。(中略)第二次世界大戦後に、大陸(旧満州)からの引揚者が持ち帰ると、全国的に急速に普及する。」とあります。 ・『中国食文化事典』(木村春子/〔ほか〕編著 角川書店 1988) p.84「餃子は歴史が古い。明代の張自烈の『正字通』に「餛飩とは餃餌のことである」とあるが、その「餛飩」ということばは、唐代の段公路の『北戸録』や釈玄応の『一切経音義』にすでに出ている。」とあります。 p.85には唐代墓からの出土品の写真があります。 「写真2.新疆ウイグル自治区トルファン県アスターナ村で出土した餃子と餛飩」 ・『一衣帯水 中国料理伝来史』(田中静一/著 柴田書店 1987) 「餃子とラーメン」の項があり、餃子の起原について、関連のある中国の古い文献が紹介されています。 p.225「餃餌という食品が初めて見られるのは、明末か清初であるが、当時の料理書では全く見られないので、作り方はわからない。料理書で初めて見られるのは、『隋園食単』の肉餃である。」とあります。 日本で発行された中国料理書についても解説されています。 p.224  「天明四年(1784)の『卓子式』にはヘイシンという名で、現在の餃子と同じような形が絵入りで出ている。」 p.149「15.江戸時代の中国料理書 8.『清俗紀聞』」の項に、「(前略)この中に餃子の絵があり、説明では餃子となっているが形は全く異なり、振仮名は、カウツインとなっている。当時江南地区に、このような餃子があったとすれば、この図が日本、中国を通じて最も古い餃子の図である(中略)。この本は1799年出版で、有名な中国料理書『隋園食単』1792年より七年後のものである。」とあります。

弥生時代の気温、気候が知りたい。(栃木県立図書館)

以下の資料に記述が確認できました 1 図書 ・『気候変動の事典』(山川修治/〔ほか〕編 朝倉書店 2017) 「第Ⅶ章 歴史時代における気候環境変動」「完新世における世界の気候環境変動」項の「図1 日本における後氷期の環境変化と砂丘遺跡の変化」(p.301)の中に弥生時代は寒冷期とあります。また、「(3)時代区分と温暖期・寒冷期の気候環境」項の「(c)寒冷期」(p.305-306)、「(5)人間活動との関連」項の「(b)海面変動・海流変動を通じて」(p.309)の中で弥生時代の寒冷期について記述があります ・『古代日本の気候と人びと』(吉野正敏/著 学生社 2011) 「2 古代以前の日本の姿」(p.18-32)と「3 古代日本の気候と人びと」(p.33-65)の項にて、縄文から古墳時代にかけての農耕と気候の変化について記述と参考文献があります ・『気候文明史 世界を変えた8万年の攻防』(田家康/著 日本経済新聞出版社 2010) p.132-137 「第2部 古代編:気候変動が文明を生んだ」「第2章 繰り返される寒冷化、突然の干ばつ」の中に「4 日本列島の場合:気候変動と縄文・弥生時代」の項があります ・『気候変化と人間 1万年の歴史』(鈴木秀夫/著 大明堂 2000) 紀元前と紀元後の各章において、アジア地域の気候変化について記述があります ・『講座文明と環境 第6巻』(梅原猛/〔ほか〕総編集 朝倉書店 1995) p.99-100 「Ⅱ 古墳寒冷期の気候と歴史」「5. 後漢帝国の崩壊と倭国大乱」項の「2~3世紀の気候」の中に「この時期の日本列島の気候について、温暖化があったという見解と寒冷であったとする相反する研究がある。」とあり、研究内容と、最後に「日本列島の紀元前後あるいはそれ以前は温暖な気候であったが、紀元2世紀のある段階から3世紀には中国大陸、日本列島が寒冷な気候であり、4世紀にはほぼ回復していたらしい。」とまとめられています 2 web情報 ・弥生ミュージアム(http://www.yoshinogari.jp/ym) トップページ>第三章 弥生時代の自然と人>1.弥生時代の自然環境  に、「縄文時代中期後半以降、気候が寒冷化し海岸線が徐々に後退し始めます。」とあります [2019年11月21日確認]

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