レファレンス協同データベース新着事例

『栃尾市史史料篇』内琰眉惟范に関する記述について(新潟県立図書館)

当館では『栃尾市史史料編』という資料は所蔵しておらず、類似したタイトルの『栃尾市史史料集』民俗編第1~3-3(栃尾市史編集委員会/編 栃尾市史編集委員会 1972~1975)を調査しましたが、「琰眉惟范」に関する記述は確認できませんでした。 ただし、以下の(1)~(3)の資料に「琰眉和尚」についての記述がありましたので、参考までに申し添えます。 (1)『栃尾と人物』(栃尾市教育委員会/編 栃尾市教育委員会 1992)  p180~181に琰眉和尚の経歴が記されており、「能書家として名が高かったのであります」と記述があります。 (2)『とちおと人物』(栃尾市市役所総務課文書広報係/編 栃尾市役所 1974)  p99~100に琰眉和尚の経歴が記されています。内容は(1)の資料と同じです。 (3)『栃尾市史』 別巻 第1(栃尾市史編集委員会/編 栃尾市役所 1978) p686~687に「琰眉和尚(生没不詳) 文政―明治初葉」という項目があり、琰眉和尚について、上記(1)(2)の資料より簡単な経歴が記されています。

農民運動家玉井潤次の経歴や人柄がわかる資料について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)~(3)の資料に玉井潤次の経歴や人柄に関する記述がありました。  また当館ホームページ内の「新潟県立図書館 郷土人物/雑誌記事索引データベース」で「玉井潤次」をキーワードに検索すると、市町村史や人物事典などに収録された玉井潤次関連項目が下記(2)(3)の資料を含む21件、郷土雑誌内の玉井潤次関連記事が1件出てきます。 (1)『日本農民運動史』新装版(農民運動史研究会/編 御茶の水書房 1989)  p1162~1164「玉井潤次氏」 (2)『新潟百紳士』(梅田江湖/著 新潟公友社 1925)  p112~114「玉井潤次君(弁護士界の人格者)」の項に、主に人柄に関する記述がありました。 (3)『新潟県農民運動史』増補改定版(市村玖一/著 創作舎 1982)  p586~587「玉井潤次 たまいじゅんじ」の項に、主に経歴に関する記述がありました。

長岡市河川公園にある岡村権左衛門の石碑に関する以下2点について  1.『越路町史』内の記述箇所 2.その他、岡村権左衛門に関する資料(新潟県立図書館)

1 『越路町史』内の記述箇所  『越路町史』を調査したところ、下記(1)(2)の資料に、「岡村権左衛門の石碑」に関する記述及び写真が見つかりました。 (1)『越路町史』通史編 上巻(越路町/編 越路町 2001)  p573~660「岡村権左衛門騒動と幕末の村々」内p608~609「義民岡村権左衛門の碑」の項に、碑の建立に関する記述と碑文の文言が出ています。  またp575~607に、権左衛門騒動について、起こりから岡村権左衛門の処刑までが記されています。 (2)『越路町史』資料編 2(越路町/編 越路町 2001)  口絵内に「5 義民岡村権左衛門の碑(大字浦)」として、石碑のカラー写真が掲載されています。 2 その他、岡村権左衛門に関する資料  下記(3)~(8)の資料に岡村権左衛門に関する記述が見つかりました。そのうち、下記(3)~(6)の資料には、石碑についても書かれています。  また、当館ホームページ内の「新潟県立図書館 郷土人物/雑誌記事索引データベース」で「岡村権左衛門」をキーワードに検索すると、市町村史や人物事典などに収録された関連項目が(4)~(6)の資料を含む11件、関連雑誌記事が(3)の資料を含む2件出てきます。 (3)「義民岡村権左衛門之碑について」(『長岡郷土史』 41号 長岡郷土史研究会編集委員会/編 長岡郷土史研究会 2004)  p193~196に、石碑建立の背景や、岡村権左衛門の経歴などが、詳しく書かれています。 (4)『越路のあゆみ』(越路町教育委員会/編 越路町教育委員会 1973)  p137~138「岡村権左衛門」に、郷土の偉人として岡村権左衛門の紹介があります。その中に石碑の建立についての記述が、(1)の要約の形で出ています。 (5)『三島郡誌』(中野城水/編 名著出版 1973)  p1089~1093に義民志士として、岡村権左衛門の生涯について書かれています。p1092に石碑の建立についての記述もあります。 (6)『図解にいがた歴史散歩 三島』(新潟日報事業社出版部/編 新潟日報事業社出版部 1983)  p20~21「寛政の義民 岡村権左衛門」に、岡村権左衛門の生涯について書かれています。その中に子孫が碑を建立したとの一文があります。また、石碑の遠景からの写真がモノクロで記載されています。 (7)『町史の窓』(越路町史編さん室/編 越路町史編さん室 2002)  「24 打ち首となった権左衛門」[頁付なし]に、岡村権左衛門の生涯に関する記述があります。 (8)『寛政義民岡村権左衛門』(大平与文次/編 温古談話会 1896)  岡村権左衛門の伝記です。  この資料は当館ホームページの「新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡デジタルライブラリー」で「岡村権左衛門」をキーワードにして検索すると、デジタル画像にてご覧いただけます。

1.「安藤樹徳」、「藤宮三九郎」について 2.明治13年2月に結成された「北蒲原郡協同会」について(新潟県立図書館)

1.安藤樹徳、藤宮三九郎について  下記(1)~(9)の当館所蔵資料を調査したところ、(1)の資料に「安藤樹徳」に関する記述が見つかりました。ただし、経歴等の記述はありませんでした。  また(2)の資料に「藤宮三九良」という人物、「藤宮」姓の人物に関する記述が見つかりましたが、「藤宮三九郎」との関係は不明です。  さらに『新潟新聞』の第1回国会開設懇望協議会が開催された明治13年4月5~10日及び国会開設建言書が提出された7月8日前後の記事を通覧したところ、明治13年4月8日~13日及び7月8日付の新聞にそれらに関連した記事が見つかりました。ただし、記事内に「安藤樹徳」「藤宮三九郎」の名前は見つかりませんでした。  なお、『新潟県の百年』(大津美津子/著 山川出版 1990)のp83に書かれている「高田事件」は、『上越市史』通史編5 近代(上越市史編さん委員会/編 上越市 2004)のp58~71「三 高田事件の発生」にその顛末が詳しく記載されており、p61に「高田事件で拘引された自由民権家(明治16年)」の表もありますが、「安藤樹徳」「藤宮三九郎」の名前は見つかりませんでした。 (1)『新発田市史』下巻(新発田市史編纂委員会/編 新発田市 1981)  p224~225に「安藤樹徳」が明治13年に行われた第一回国会開設懇望協議会に参加し、同年に行われた国会開設請願の署名に名を連ねた旨の記述がありました。 (2)『白根市史』巻7 通史(白根市教育委員会/編 白根市教育委員会 1989)  p469(「第2節 文芸」内「書画」の項)に「蔵主=藤宮翠圃、通称三九良といい絵を得意とした。農業で小頭格であった。」と記述がありました。なお、『越佐人物誌』中巻(牧田利平/著 野島出版 1972)のp800(「藤宮翠圃」の項)に「弘化(一八四四-四七年)ころの人である。」と記述がありました。  またp631(「明治時代村役人名簿」内)に蔵主村外十八ヶ村の戸長として「藤宮直策」(残存史料記載年月日:明治17年9月9日)という人物の記載がありました。 (3)『新発田偉人叢話』(菖城義会/編 菖城義会 1895) (4)『菖蒲之栞(新発田案内)』(藤川善成/著 菖蒲の栞出版事務所 1903) (5)『新潟県北蒲原郡新発田町是』(新発田町/編 新発田町 1917) (6)『自由民権裁判の研究』上・中・下(手塚豊/著 慶応通信 1982~1983) (7)『新潟の青年自由民権運動』(横山真一/著 梓出版社 2005) (8)「地租改正事業と地主層の動向 新潟県自由民権運動との関連について」(本間恂一/著『新潟史学』3号 1970 p21~41) (9)「新潟県自由民権運動の展開と政党の成立」(滝沢繁/著 『地方史研究』33巻4号 1983 p90~106) 2.明治13年2月に結成された「北蒲原郡協同会」について  前掲(1)の資料及び下記(10)の資料に「北蒲原郡協同会」に関する記述が見つかりました。そのほか(11)~(15)の資料も調査しましたが、「北蒲原郡協同会」に関する記述は見つかりませんでした。 (1)『新発田市史』下巻(新発田市史編纂委員会/編 新発田市 1981) ※前掲  p225~228「北蒲原郡協同会と国会開設運動」内に「北蒲原郡協同会」に関する記述があり、p227に北蒲原郡協同会の発起人が連ねてありますが、「安藤樹徳」の名前は見つかりませんでした。 (10)「自由民権期の小結社に関する若干の資料―北蒲原郡協同会について―」(本間恂一/著 『新潟県史研究』2号 1977 p50~54)  北蒲原郡紫雲寺町神田家文書の中から「北蒲原郡協同会」に関する資料を数点紹介していますが、いずれの資料にも「安藤樹徳」の名前は確認できませんでした。 (11)『新潟県北蒲原郡是』(北蒲原郡 北蒲原郡 1916) (12)『北蒲原郡史』第3巻(蓮池文庫/編 蓮池文庫 1937)※第1、2巻は所蔵していません。 (13)『北蒲原郡会誌』(北蒲原郡/編 北蒲原郡 1923) (14)『山際七司関係史料』(新潟大学学友会日本史研究部/編 新潟大学学友会日本史研究部 1957) (15)『黒埼町史』別巻 自由民権編(黒埼町町史編さん自由民権部会/編 黒埼町 2000)  「山際七司文書」内資料が掲載されていますが、『新潟県史』通史編p579に記述のあった連名簿等の「北蒲原郡協同会」関連資料は見つかりませんでした。

旧小須戸町の盆栽園芸の歴史について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、以下の(1)~(3)の資料に旧小須戸町の盆栽園芸の歴史に関する記述が見つかりました。 (1)『小須戸町史』(小須戸町史編纂室/編 小須戸町 1983)  p588~599「第二節 果樹栽培と花卉園芸」内  p588~589「園芸の伝承」  p590~593「盆栽業・紫金牛事件」 (2)『新潟県園芸要鑑』(新潟県農会/編 新潟県農会 1911)  「第八編 盆栽」内p1~5「第一章 中蒲原郡小須戸町の盆栽」に当時の小須戸町の盆栽園芸全般に関する記述があり、そのうちp1に沿革に関する記述がありました。 (3)『小須戸風土記』(柏大治/著 小須戸風土記刊行会 1961)  p70~71「植木、盆栽」  p71~73「紫金牛の流行」

実業家小出淳太の生家である早通村の清水家について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)~(9)の資料に早通村(現亀田町)の清水家に関する記述及び写真がありました。なお、(4)~(6)の『都道府県別資産家地主総覧』内資料については、明治期のものを調査しました。  また、調査の過程で(7)~(12)の資料に小出淳太に関する記述が見つかりましたので、併せてお知らせします。 (1)『亀田町史』(小村弌/編 亀田町公民館 1959)  p48~49「手代山」(手代山村→茅野山村→茅野城村→茅城島村を経て、明治34年に早通村の一部になります)の項で清水甚兵衛家について述べられており、「持倉鉱山開発等の事業にも手を出したことがあった。」とも記述がありました。またp49~50「日水」(後に手代山村と合併して茅野山村となります)の項では清水勝右エ門家について記述がありました。  またp441に「清水家の土地所有分布」の表があり、清水甚蔵と清水栄太郎の村ごとの所有する土地(用途別)の面積が掲載されていました。  そのほか巻末索引を見ると清水姓の人物が散見されます。 (2)『亀田の歴史』通史編 上巻(亀田町史編さん委員会/編 亀田町 1988)  p120に手代山村の旧家として清水甚兵衛家が挙げられており、先祖等に関する記述がありました。またp123に日水村の草分けの1つとして清水勝右衛門家が挙げられています。 (3)『亀田の歴史』通史編 下巻(亀田町史編さん委員会/編 亀田町 1988)  p25~27「二 戸長」の項に茅野山村の清水武左衛門、清水甚蔵に関する記述がありました。 (4)『都道府県別資産家地主総覧』新潟編1(渋谷隆一/編 日本図書センタ- 1997)  p265~330「新潟県下名誉鑑」(明治二二年)内p286に茅野山村の清水甚蔵の名前が挙げられていました。 (5)『都道府県別資産家地主総覧』新潟編2(渋谷隆一/編 日本図書センタ- 1997)  p3~18「新潟県地価持姓名録」(明治二三年)内p8に茅野山村の清水甚蔵の名前が挙げられていました。  またp19~226「新潟県地価持一覧」(明治三三年)内p103に茅城島村の清水甚蔵、清水甚七、清水文太、清水栄太郎の名前が挙げられていました。 (6)『都道府県別資産家地主総覧』新潟編3(渋谷隆一/編 日本図書センタ- 1997)  p265~318「日本全国商工人名録・第二版」(明治三一年)内p316に中蒲原郡の清水甚蔵の名前が挙げられていました。 (7)『中蒲原郡誌』第6巻 五泉・亀田町編(新潟県中蒲原郡/編 臨川書店 1986)  p341~342「第二節 村役場」の項で、茅野山村の清水武左衛門、清水甚蔵と、茅城島村の清水甚七の名前が挙げられていました。  なお、p80に小出淳太が明治33年の組合立五泉尋常高等小学校増築の際に委員を務めた旨の記述が、またp137に吉澤村、太田村、赤海村、川瀬村、吉原村、五十嵐新田を含む区域の戸長として、小出勝之丞と一緒に小出淳太の名前が挙げられています。 (8)『新潟県人物誌』(三神正僚/著 越後会 1921)  p211~212「実業家 小出淳太」の項に「君は清水甚蔵氏の令弟にして文久三年五月五日の出生」と記述がありました。 (9)『新潟県官民肖像録』(遠藤永吉/編 有終社 1908)  p99に清水甚蔵(兄)と小出淳太(弟)が一緒に写った写真が掲載されていました。 (10)『五泉市史』通史編(五泉市史編さん委員会/編 五泉市 2002)  p509~514「養蚕の概況」内p510に五泉地方の蚕種製造人として小出淳太の名前が挙げられており、p511~512に小出淳太が蚕稚製造施設として皆宜蚕館を設立した旨の記述と小出淳太の写真が掲載されていました。 (11)『五泉町誌』(佐藤俊英/編 五泉町社会教育委員会 1949)  p16~21「三、町制施行以来の町会議員」の町会議員の一覧表内「明治三五年就職」「明治四三年一月二十日就職」「大正三年一月二十日就職」の項に小出淳太の名前が挙げられています。 (12)「小出淳太氏死亡」(『新潟新聞』1925年8月23日付 朝刊 p7)  同ページに小出淳太の死亡広告も2件(親族と北越酒造株式会社)掲載されていました。なお、親族の死亡広告に「惣代 清水甚兵衛」と記述がありました。

廣神医院長の「廣神伊藤」について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、以下の(1)~(7)の資料に「廣神伊藤」に関する記述がありました。  なお、当館所蔵資料ではありませんが、国立国会図書館で所蔵している以下の(8)の資料に廣神伊藤に関する記述がありました。こちらの資料は、国立国会図書館の「図書館向けデジタル化資料送信サービス」を提供している図書館でご覧いただけます。 (1)『新潟県医師会五十年史』(新潟県医師会/編 新潟県医師会 2000)  廣神伊藤は、四代目新潟県医師会長(1956~1974)を務めており、任期中の箇所(p83~297)に名前が散見されます。口絵内に顔写真が、p671に没年(昭和62年)が掲載されていましたが、プロフィールのようなものは見つかりませんでした。 (2)「故 廣神伊藤先生 追悼の辞」(高橋博/著 『新潟県医師会報』454号 1988 p50~51) (3)「巨星墜つ・廣神伊藤さんとその周囲」(高橋博/著 『新潟県医師会報』454号 1988 p54~55)  廣神伊藤の追悼記事です。 (4)『昭和新潟人物誌』(渡辺進次/編、池田源養/編 旬刊新潟社 1935)  p110~111「廣神伊藤」に略歴等の記述がありました。 (5)『新潟県年鑑』1989年版(新潟日報社/編 新潟日報社 1988)  p674(「おくやみ」の項内)に「広神伊藤(越後証券取締役)」の項目があり、簡易な略歴が記述されていました。 (6)『新潟県の医学の歴史をたずねて』(蒲原宏、本間邦則/著 西村書店 1988)  p56~57「明治天皇聖徳記念碑」の項内p57に新潟地震で崩壊した明治天皇聖徳記念碑の再建委員会の中に「新潟県医師会長・広神伊藤」の名前がありました。 (7)『新潟市史』通史編5 現代(新潟市史編さん現代史部会/編 新潟市 1997)  p181に(昭和30年の県議会議員選挙で)「自由党の広神伊藤は最下位当選であった。」と記述がありました。 (8)「人物寸評 永遠の新人廣神伊藤氏」(『健康保険医報』 5巻17号(通号149号) 健康保険医報社 1936 p19[コマ番号:10])  廣神伊藤の人物評について記述がありました。

小石第二郎、福島豊策に関する以下2点について 1 『新潟大学医学部七十五年史』『新潟大学医学部五十年史』『新潟大学医学部100年史』内の記述 2 その他、2人に関する資料(新潟県立図書館)

1 『新潟大学医学部七十五年史』『新潟大学医学部五十年史』『新潟大学医学部100年史』内の記述について  上記資料3点を確認したところ、下記(1)~(3)のとおり「小石第二郎」「福島豊策」に関する記述がありました。なお、文言の詳細は各資料で異なります。 (1)『新潟大学医学部七十五年史』上巻(新潟大学医学部創立七十五周年記念事業期成会/編 新潟大学医学部七十五周年記念事業期成会 1994)  p123~125に「小石第二郎」、p150~151に「福島豊策」の経歴(新潟での動向を含む)、功績等が詳細に記されています。「小石第二郎」は、顔写真も掲載されています。 (2)『新潟大学医学部五十年史』(新潟大学医学部五十周年記念会/編 新潟大学医学部五十周年記念会 1962)  p72~73に、「小石第二郎の赴任、フアン・デル・へーデンの来任に伴い、この両者のチームワークによつて私立新潟病院の医学教育はやや系統だってきた。(中略)小石第二郎はその天才的な語学力を駆使してこれの翻訳を行ない、生徒に教授することが行われていつた。」との記述があります。  また、p82~86に、小石第二郎の新潟病院での活動が記されており、小石第二郎が写った写真も載っています。  さらにp85~86には小石第二郎の経歴と顔写真が掲載されています。  p91に「十二月には当直医福島豊策に高田出張を命じて副医長に任じ、」との記述があります。  p104~107(「県立新潟病院、医学所の人事と職制」の項)に小石第二郎、福島豊策が辞任した旨が記されています。  p110に掲載されている写真「新潟病院医学所職員生徒」の中の1人に、「福島豊作」という人物が写っています。ただし、福島豊策かは不明です。  p114に「へーデンの講義を小石第二郎が翻訳の任にあたり」との記述があります。 (3)『新潟大学医学部100年史』(新潟大学医学部創立100周年記念事業準備会/編 新潟大学医学部創立100周年記念事業準備会 2010)  p40~41(「年表に見る新潟大学医学部成立の過程と75周年までの歩み」内)の年表、治に、小石第二郎の名前が散見されます。また、p41内には福島豊策の名前が散見されます。 2 その他、2人に関する資料  当館所蔵資料を調査したところ、下記(4)~(8)の資料にも「小石第二郎」に関する記述がありました。  また、当館所蔵資料ではありませんが、国立国会図書館で所蔵している下記(9)の資料に「小石第二郎」に関する記述がありました。こちらの資料は、国立国会図書館の「図書館向けデジタル化資料送信サービス」でご覧いただけます。  なお、「福島豊策」に関しては、上記(1)~(3)の資料以外に、記述は見つかりませんでした。 (4)『新潟県大百科事典』上巻(新潟日報事業社/編 新潟日報事業社 1977)  p467~468に小石第二郎の経歴と顔写真、翻訳した『講延日記巻一・生理篇』の一部分の写真が掲載されています。 (5)『新潟県の医学の歴史をたずねて』(蒲原宏/著 西村書店 1988)  p18に「ヘーデンの講義は通訳小石第二郎の翻訳した「新潟病院講筵日記生理篇(明治9年刊)」がありその一端を推測できる」との記述があります。また、同ページに「明治10年3月にオランダ人医師へーデンは満期退任し、通訳小石第二郎も職を辞し神戸に転じている」という記述もあります。 (6)『新潟県医学史覚書』(蒲原宏/著 新潟雪書房 1993)  p128に「ヘーデンが友人の小石第二郎(一八四八~一九〇四)宛ての手紙とH.van Spanjeさんの話では、日本人妻と子供がいたようである」との記述が、p143には「この中蔵(蘭室)の子が新潟医学校の名教師である小石第二郎である」との記述があります。 (7)『新潟県における医学教育前史(資料)』(蒲原宏/著 蒲原宏 2002)  p20(年表)に「明治7年(1874)10 小石第二郎当直医兼教場掛として来任する」との記述が、p21(年表)に「明治9年(1876)3 小石第二郎を教場副長に、(中略)任命する」「明治9年(1876)7 オランダ人医学教師ファン・デル・へーデン及び小石第二郎長岡在黒條村で恙虫患者治療にあたる。」、「明治10年(1877)3 小石第二郎辞任。との記述があります。 (8)『新潟市医師会創立百周年記念誌』(新潟市医師会/編 新潟市医師会 2008)  p427(年表)に、明治9年に小石第二郎が新潟病院の護長に任命された旨の記述があります。 (9)『新潟病院講筵日記』巻一・生理篇(ファンデル・ヘーデン/著 新潟病院 1876)  奥付に、「小石第二郎」の名前が訳者として記載されています。

与板藩の井伊家の歴史及び井伊家にゆかりのある史跡等について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)~(5)の資料に与板藩の井伊家の歴史及び井伊家にゆかりのある史跡等に関する記述がありました。 (1)『与板藩史』上巻(池上大一/著 与板藩史刊行会 1982)  p2~10「巻頭絵図(系図・年譜・絵図)」  p174~195「従二位勲三等井伊直安」  p198~218「与板井伊家立藩の由来」  p234~273「与板城」  p432~440「井伊神社、井伊家重宝」  p441~448「井伊家と与板」 (2)『与板町史』通史編上巻 自然・原始古代・中世・近世(与板町/編 与板町 1999)  p352~361「一 井伊氏の入封」  p361~370「二 歴代の藩主」 (3)『与板町史』文化財編(与板町/編 与板町 1995)  p26~27「与板城大手門」  p27~28「与板城切手門」  p62~63「井伊直安」(書)  p63~64「井伊直方」(書)  p78「井伊直安書状」  p117「井伊神社兼光・国広の刀」 (4)『与板史こぼれ話新潟県与板財閥史話』(前波善学/編 与板町教育委員会 1976)  p13~18「与板藩主になるまでの井伊家」 (5)「井伊家去就」(『温古の栞』8篇 p27~28)  こちらの資料は、当館ホームページの「新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡デジタルライブラリー」でデジタル画像をご覧いただけます。キーワード:「恩古の栞」

田巻与兵衛について(新潟県立図書館)

 当館所蔵の(1)~(10)の資料を調査しましたが、「田巻与兵衛」に関する記述は見つかりませんでした。  なお、(1)~(5)の資料に、新潟県の田巻家についての、(6)の資料に、新潟県における田巻姓の由来についての記述がありましたので、参考までに申し添えます。 (1)『新潟県史』通史編5 近世3(新潟県/編 新潟県 1988)  p349に「蒲原郡田上村(田上町)の田巻家は大地主として知られているが、(中略)資料上の初見は文化六(一八〇九)年で、本家六代目の三郎兵衛のとき次男良平が流質で入手した株で鎌倉新田(小須戸町)で酒造業を開始している。」との記述があります。 また、p503には「会津藩の船宿を務めた新潟町の商人田巻家」との記述があります。 (2)『新潟県史』通史編 6 近代1(新潟県/編 新潟県 1988)  p105(「四 草莾隊」の項)田上村の田巻家の当主三郎兵衛の子供で寺泊五十嵐家の養子となった武兵衛と、分家した隆左衛門の二人、他に使用人と合わせて五人が居之隊に参加した。」との記述があります。 (3)『越佐人物誌名家系譜』(牧田利平/編 野島出版 1986)  p133~137に、慶長~大正までの、田上町の田巻家の系図が掲載されていますが、「田巻与兵衛」の名前は見つかりませんでした。 (4)「新潟町豪商玉木家覚書(一)」(小村弌/著 『郷土新潟』17号 1975 p1~p16)  p1に、新潟の豪商玉木家は3代目から「田巻」に改められた旨の記述があり、p1~2に、元祖(寛政)~11代(安政)の新潟町の豪商玉木家の略系図が掲載されていますが、こちらにも「田巻与兵衛」の名前は見つかりませんでした。 (5)「原田巻家と椿寿荘」(武田一夫/著 『郷土たがみ』1号 1988 p62~p78)  p63に、「田上町でも近世の豪農邸宅の田巻家(原田巻家)」との記述があり、原田巻家の略譜が掲載されていますが、「田巻与兵衛」の名前は見つかりませんでした。 (6)『新潟県民の名字・名前』(和田堅/著 ア-トグラフィック新潟 1898) p101(玉置氏の項)に「日高郡の発祥で平氏系後に藤原氏系で、南北朝時代に北朝側に属して発展し、玉木・田巻姓ともなる」との記述があります。 (7)『新発田藩史料』[第2巻 藩臣篇](新発田市史編纂委員会/編 1988) (8)『長岡藩の家臣団』(長岡市立中央図書館文書資料室/編 長岡市立中央図書館文書資料室 2002) (9)『史料集・高田の家臣団』上越市史叢書 No.5(上越市史専門委員会近世史部会/編 上越市 2000) (10)『三百藩家臣人名事典』第四巻(家臣人名事典編纂委員会/編 新人物往来社 1988) (11)『長野県史』通史編 別巻年表索引 索引(長野県/編 長野県史刊行会 1992) (12)『信濃史料索引』(信濃史料刊行会/編 信濃史料刊行会 1972) (13)『新編物語藩史』第4巻新人物往来社/編 新人物往来社 1976)

明治時代に村上市肴町に設立された県立茶業研究講習所について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)~(3)の資料に、県立茶業研究講習所について記述がありました。ただし、いずれも鍛冶町にあったとしています。なお、(1)(2)の内容は『村上市史』資料編8 近現代5 産業経済編(村上市/編 村上市 1993)のp134~136にも所収されています。また(4)の資料にその前身となった県立村上茶業伝習所について記述がありました。 (1)「県茶業研究講習所」(『新潟新聞』明治44年7月16日 朝刊 p1) 明治44年7月13日に行われた県茶業研究講習所(鍛冶町)の開所式に関する記事です。講習生20名の氏名が出ていますが、講習内容に関する記述はありませんでした。 (2)「幸三郎想い出ばなし」(松本幸三郎/著 『郷土村上』24号 1976 p12~17)  p12~13「茶業講習所の頃」の項で、筆者が大正の頃に通っていた鍛冶町の茶業講習所での作業について記述がありました。 (3)『村上郷土史』(村上本町教育会/編 歴史図書社 1974)  p214(「村上茶の沿革及び現状」の項内)「茶業講習所の建物は鍛冶町にありしを昭和五年村上駅の北方踏切の側に移転せり」と記述がありました。 (4)「翻刻と解説 服部春次編著『村上漆器・鮭産・製茶沿革誌』」(板垣俊一/著 『新潟の生活文化』9号 2002 p39~51)  p47「製茶法の改良」の項に「翌明治四十一年、新潟県知事、県立村上茶業伝習所を村上町矢部仁三郎方に設け、西ヶ原農事試験場技手宮原政雄を聘して教師とし、講習生二十名を募集し、六月一日より一ヶ月間、製茶法を伝習せしむ。」と記述がありました。

出雲崎代官所の歴代代官名について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)~(3)の資料に出雲崎代官所の歴代代官名について記述がありました。  なお、代官所の管轄地域が長岡藩の預かり地となっていた時期もあり、代官名が不明もしくは代官が不在の期間(主に江戸中期)も散見されました。 (1)『出雲崎町史』通史編 上巻(出雲崎町史編さん委員会/編 出雲崎町 1993)  p236~237「表7 初期の出雲崎代官一覧[元和二年(一六一六)~享保九年(一七二四)]」、p276「表15 中期以降の出雲崎代官所の代官・領主一覧」に出雲崎代官所の歴代代官名が記載されていました。  またp235~275「初期出雲崎代官の支配」、p275~394「中期以降の出雲崎代官の支配」内に各代官の略歴や任期中の出来事等に関する記述が掲載されていました。 (2)『新潟県史』資料編第7 近世第2中越編(新潟県/編 新潟県 1981)  「解説」内のp6~7「表2-1 出雲崎代官(前期)」「表2-2 出雲崎代官(後期)」に出雲崎代官所の歴代代官名が記載されていました。 (3)『北越史料出雲崎』復刻版(西沢新次/編 「北越史料出雲崎」等復刻刊行会 1977)  p36~43「出雲崎御陣屋御支配御名前順」に出雲崎代官所の歴代代官及び該当地域を支配していた人物の名前が記載されていました。  なお、原本の『北越史料出雲崎』(西沢新次/編 佐藤書店 1906)は、「国立国会図書館デジタルコレクション」を、「北越史料 出雲崎」をキーワードに検索すると、デジタル画像でご覧いただけます。

以下3点の事項について 1.明治初期の東本願寺派信仰に関連する北海道移民について 2.『新札幌市史』第2巻p97~99「本願寺移民」について 3.本願寺、東本願寺について(新潟県立図書館)

1.明治初期の東本願寺派信仰に関連する北海道移民について  当館所蔵資料を調査したところ、以下の(1)の資料に明治4年の本願寺移民について記述がありました。また(2)の資料に明治3年の東本願寺派による北海道開拓について、(3)の資料に明治3年の北海道移民について記述がありました。このほか東本願寺の別院がある三条市、旧高田市、旧新井市関連資料及び『新潟県史』等を調査しましたが、ご依頼事項に関する記述は見つかりませんでした。 (1)『新札幌市史』第2巻 通史2(札幌市教育委員会 札幌市 1991)  p97~99「本願寺移民」 (2)『三条市史』上巻(三条市史編集委員会/編 三条市 1983)  p928「東本願寺の新門跡下向」に、明治3年に東本願寺の新門跡現如一行が北海道開拓に向かった際に三条に寄ったことに関する記述がありました。ただし、その際に三条の門徒が一行に同行した旨の記述は見つかりませんでした。 (3)『松之山町史』(松之山町史編さん委員会/編 松之山町 1991)  p845~850「四 北海道移民」に明治3年の北海道への移民について記述がありました。ただし、東本願寺に関連する記述は見つかりませんでした。 2.『新札幌市史』第2巻p97~99「本願寺移民」について  『新札幌市史』第2巻を確認したところ、p98に移民のうち高橋九右衛門と小林栄吉について離散後の所在に関する記述があり、その出典資料としてそれぞれ「地価創定請書」と「大村耕太郎資料」(札幌市文化課蔵)が挙げられていますが、どちらの資料も当館では所蔵していません。  また「東本願寺が提出した名簿」については、文脈から『人別改ニ付左之通差上候控』(出典資料として『東本願寺北海道開教史』が挙げられています)と推測できます。ただし、どちらの資料も当館では所蔵していません。なお、北海道立図書館で『東本願寺北海道開教史』を複数冊所蔵しています(それぞれ出版年や編集者が異なります)が、いずれの資料が出典として挙げられた『東本願寺北海道開教史』に該当するかは不明です。 3.本願寺、東本願寺について  『新札幌市史』第2巻と『三条市史』上巻を確認しましたが、両資料における「本願寺」「東本願寺」が同一のものかは、わかりませんでした。  また両者の住所や所在地域等に関する記述もありませんでした。  本願寺移民の新潟における住所範囲(地域)については、『新札幌市史』第2巻のp98に「新潟県古志郡出身の大工職高橋九衛門」と記述がありました。  なお、古志郡に該当する旧山古志村の関連資料を調査しましたが、本願寺移民、明治初期における本願寺(東本願寺)信仰、また高橋九衛門に関する記述は見つかりませんでした。

江戸後期~幕末の長崎について新潟県の人物が書いた日記資料等について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)~(4)の資料に、江戸後期~幕末の長崎について書かれた新潟県の人物が書いた日記資料に関する記述がありました。ただし、(3)(4)の資料はごく簡易な記述でした。  なお、県史については『新潟県史』別編1 年表・索引(新潟県/編 新潟県 1989)を調査しましたが、各市町村史等の悉皆調査は行っていません。 (1)『塵壺』(河井継之助/記 竹村保/訳 雑草出版 2010)  幕末の長岡藩家老河井継之助の旅日記です。p288~295「6 長崎の風物に接する」、p296~392「7 唐人と交歓する」に長崎での滞在の様子が書かれていました。 (2)『贈從五位入澤恭平先生日記』(入沢達吉/著 入澤家顕彰事業実行委員会 1994)  医師入澤恭平が安政期に長崎へ旅した際の「長崎遊学道中日記」が掲載されていました。同日記の後半では長崎での滞在に関する簡易な記述も見つかりました。  なお、「長崎遊学中の入沢恭平について~関寛斎「長崎在学日記」~」(長谷川一夫/著『見附郷土史』創刊号 1986 見附の歴史研究会 p3~6)に、長崎での入澤恭平の様子について記述がありました(関寛斎は新潟県の人物ではありません)。 (3)『山口坎山『道中日記』の算題』(藤井貞雄/編著 藤井貞雄 2000)  和算家山口坎山が全国を旅した際の「道中日記」が紹介されていました。ただし、長崎については、p101に(文政5年)「五月二日長崎へ出る。長崎には諏訪明神に木谷忠英の額がある。木谷の誤りであろう。」という『道中日記』内の記述と、p79に諏訪明神の算額の内容が記述されているのみでした。 (4)「新発田から長崎へ―百年前の道中日記より―」(青木允夫/著 『蒲原』1号 1965 継志会 p29~37)  新発田の薬種商、島屋銀太手代の2人が慶応3年に長崎まで出かけた際の道中日記が紹介されています。p34~35「長崎にて」では2人が長崎で購入したものなどについて記述がありました。ただし、道中日記の文面は掲載されていません。また長崎の様子に関する記述も見つかりませんでした。  『近世庶民史料』上・下(新発田市史資料)(新発田市史編纂委員会/編 新発田市史刊行事務局 1968・1969)も調査しましたが、該当の道中日記は掲載されていませんでした。

新潟市中央区西堀の明治時代の地価について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)(2)の資料に明治期の西堀通、西堀前通を含む新潟市内各地域の地価が記載されていました。 (1)『新潟租法沿革』(新潟市宅地賃貸価格調査委員/編 新潟市宅地賃貸価格調査委員 1911)  p13~31「地租改正前後 新潟市貢租對照表」に新潟市内各地域(番町単位)の「明治六年地租改正一坪の地価金」が記載されていました。  p39~50「新潟宅地位等級調(明治六年七月地租改正法に依る)」に新潟市内各地域(番町単位)の1反、1坪ごとの金額(地価と推測されます)が記載されていました。  p61~72「新潟市各町宅地等級及地価表(明治四十三年三月二十四日法律第三号宅地価修正法に依る)」に新潟市内各地域(同じ番町の中で東、西などに分かれている地域もあります)の等級(同じ地域で複数の等級が指定されている箇所もありました)とそれに対応する地価が記載されていました。 (2)『新潟市史』上巻(新潟市/編 国書刊行会 1988)  p762~780に「地租改正前後 新潟市貢租對照表」が掲載されていました。通覧したところ、内容は(1)のp13~31と同じでした。

「新潟市開港70年記念 日本海大博覧会」に関する資料(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料下記(1)~(11)を調査したところ、(1)~(6)の資料に日本海大博覧会に関する記述がありました。  また、当館ホームページ内「越後佐渡デジタルライブラリー」[http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/DigitalLibrary]より、それぞれ「日本海大博覧会」「新潟市鳥瞰図」をキーワードに検索しますと、下記(7)(8)の日本海大博覧会に関連する絵図資料をデジタル画像で閲覧することができます。 (1)「吉田初三郎 画 「新潟市鳥瞰図」の謎解き第一歩」(若崎敦朗/著 『帆檣成林』第五号 新潟市歴史博物館 p6)  日本海大博覧会について、開催決定から中止決定までの流れについて簡易な記述がありました。  なお、同記事はWeb上[http://www.nchm.jp/contents20_publication/news_vol005_6-7.pdf]からもご覧いただけます。 (2)『新潟市合併町村の歴史基礎史料集』第7 昭和編第2(新潟市合併町村史編集室/編 新潟市合併町村史編集室 1984)  p397~398に昭和11年の日本海大博覧会の計画に関する新聞記事の紙面が掲載されていました。 (3)『新潟市合併町村の歴史基礎史料集』第8 昭和編第3(新潟市合併町村史編集室/編 新潟市合併町村史編集室 1985)  p143~144に昭和12年の日本海大博覧会の延期、p211に昭和13年の日本海大博覧会の中止に関する新聞記事の紙面が掲載されていました。 (4)『新潟開港百年史』(新潟市/編 新潟市 1969)  p438(「付録第1 新潟開港百年史年表」の項内)に(1938年)「9月 新潟開港70周年記念式挙行、前年来計画中の日本海博覧会は事変のため中止となった」と記述がありました。 (5)『博覧会見物』(橋爪紳也/著 学芸出版社 1990)  p86に日本海大博覧会の記念絵はがきが掲載されていました。ただし日本海大博覧会の内容に関する記述は見つかりませんでした。 (6)『新潟市史』通史編4 近代(下)(新潟市史編さん近代史部会/編 新潟市 1997)  p287~288「公会堂」の項に、新潟市が日本海大博覧会に併せて公会堂の建設を考えた旨の記述がありましたが、日本海大博覧会の内容に関する記述は見つかりませんでした。 (7)「日本海大博覧会全景」(新潟市 1938)  日本海大博覧会の予定図です。 (8)「新潟市鳥瞰図」(吉田初三郎/作 日本海大博覧会事務局 発行年不明)  日本海大博覧会事務局が発行した鳥瞰図ですが、日本海大博覧会の会場については記載されていませんでした。 (9)『新潟港のあゆみ』(新潟市/編 新潟市 2003) (10)『新潟県史』別編1 年表・索引(新潟県/編 新潟県 1989) (11)『新潟県大百科事典』上・下・別巻(新潟日報事業社/編 新潟日報事業社 1977)

安田堀藩の初代「堀直時」に関する資料について(新潟県立図書館)

当館所蔵資料を調査したところ、下記(1)~(5)の資料に堀直時の事跡等に関する記述が見つかりました。 (1)「堀直時考」(小村弌/著 『村松郷土誌』2号 村松町史編さん委員会 1976 p1~30) (2)『村松町史』上巻(村松町史編纂委員会/編 村松町 1983)  p278~304「第三節 安田藩」に堀直時に関する記述が散見されました。なお、項名及び文面が(1)の記事と似通っています。 (3)『堀家の歴史』(堀直敬/著 堀家の歴史研究会 1967)  p116「一 堀直時」(p116~125「第六章 堀丹後守直時と村松堀家」の項内)に堀直時の略歴について記述がありました。  また、p320に「寛政重修諸家譜」内「堀直時」に関する項目が、p378に「越後村松 堀家譜」内「堀直時」に関する項目が掲載されていました。 (4)「七郎五郎様お怒りの事にふれて」(佐藤久/著 『郷土村松』第13号 1974 p13~16)  堀直時が家臣に絶縁状をつきつけた件について触れられています。 (5)「堀直奇の母堂妙泉院のこと」(吉澤俊夫/著 『長岡郷土史』第30号 1993 p8~15)  記事内p14~15「四、堀七郎五郎直時のこと」に堀直時について若干の記述が見つかりました。

新潟県内の近世以降の海事記録について(新潟県立図書館)

 海事が盛んだった新潟、出雲崎、直江津、佐渡の港があった自治体史等及び『新潟県史』の資料編を中心に調査したところ、下記(1)~(5)の資料に主に江戸時代の海事記録が掲載されていました。  また「国立国会図書館サーチ」[http://iss.ndl.go.jp/](一部の資料について、目次から探すことができます)で「海難 新潟県」などをキーワードに検索してヒットした市町村史を調査したところ、下記(6)の資料に海難事故の記録について記述がありました。  なお、当館所蔵の郷土研究雑誌から調査・研究に役立つと思われる論文や記事を選んで採録した「雑誌記事索引データベース」(http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Kyodo/)で「海難」「難船」等をキーワードに検索したところ、下記(7)~(9)の関連する雑誌記事がヒットしました。 (1)『新潟県史』資料編第10 近世第5 流通編(新潟県/編 新潟県 1984)  p166~216「第5章 海難」に、江戸時代の新潟県における海難事故に関する史料が掲載されていました。 (2)『出雲崎町史』海運資料集1(出雲崎町教育委員会/編 出雲崎町 1995)  p543~675「第四章 海難事故」に、江戸~明治時代にかけての出雲崎湊関係の海難事故に関する史料とその解説が掲載されていました。 (3)『出雲崎町史』海運資料集3(出雲崎町教育委員会/編 出雲崎町 1997)  p120~140「第五節 難船記録」に明治期の難船に関する史料が掲載されていました。  また、p8「5 海難事故」では、各史料の解説が掲載されていました。 (4)『出雲崎町史』資料編2 近世2(出雲崎町史編さん委員会 出雲崎町 1990)  p574~610「5 海難事故」に江戸時代に起きた出雲崎湊関係の海難事故に関する史料が掲載されていました。また、p335~345「5 海難事故」では、各史料の解説が掲載されていました。 (5)『寺泊町史』資料編2 近世(寺泊町/編 寺泊町 1990)  p738~「第三項 難船事故」に江戸時代の寺泊町関連の難船に関する史料が掲載されていました。  (6)『名立町史』(名立町史編さん専門委員会/編 名立町 1997)  p312「海難事故の記録」に江戸時代の名立沖等での海難事故に関する記述がありました。 (7)「佐渡近世海難小史」(1)~(4)(福島太郎右衛門/著 『かみくひむし』28、29、32、34号 かみくひむしの会 1978~1979)[連載記事]  江戸時代の佐渡における海難の記録について記述がありました。 (8)「近世新潟に流着した難破船と海難救助慣行」(菅瀬亮司/著 『郷土新潟』50号 新潟郷土史研究会 2010 p30~47)  江戸時代の新潟湊近辺における難破船の記録について記述がありました。 (9)「「難船一巻留」 弘化3(1846)年より」(山崎竜教/著 『寺泊町史研究』8号 寺泊町 1992 p6、16、42、54、75)  江戸時代の寺泊湊における難船の記録について記述がありました。

1950年頃に中之島村が制定した青少年の不良化防止を目的とする条例について(新潟県立図書館)

 下記(1)~(6)の当館所蔵資料を調査したところ、(1)の資料に該当のものと推測される条例名が記載されており、その参考文献として(7)の資料(当館では所蔵していません)が示されていました。  そこで国立国会図書館の「図書館向けデジタル化資料送信サービス」より、(7)の資料の内容を確認したところ、該当のものと推測される条例について条文(趣旨を含む)等が記載されていました。同資料は、国立国会図書館の「図書館向けデジタル化資料送信サービス」を提供している図書館(茨城県立図書館等)でご覧いただけます。 (1)『少年懲戒教育史』(重松一義/著 第一法規出版 1976)  p992に青少年育成に関する条例の1つとして「中之島村青少年保育条例・新潟県中之島村(昭和二九年六月一日中之島村条例第七号)」が条例名のみ記載されており、また下記(7)の資料に条文が収録されている旨の記述がありました。 (2)『中之島村史』下巻(中之島村史編纂委員会/編 中之島村 1986) (3)『中之島村史』民俗・資料編(中之島村史編纂委員会/編 中之島町 1988) (4)『中之島村郷土史』後(中之島村公民館/編 中之島村公民館 1961) (5)『中之島村勢要覧』(中之島村/編 中之島村 1960) (6)『中之島100年のあゆみ』(中之島町企画課/編 中之島町 2001) (7)『犯罪予防の理論と技術:行動科学の刑事学への導入』(柏熊岬二/著 一粒社 1965)  p286~288(コマ番号:152~153)に「中之島村青少年保育条例(新潟県中之島村)(昭和29年六月一日中之島村条例第七号)」の条文(「趣旨」を含む)が掲載されていました。

蝦夷地への御用米回送に関する資料について(新潟県立図書館)

 当館所蔵資料下記(1)~(9)を調査したところ、下記(1)~(7)の資料に蝦夷地への御用米回送について記述がありました。 全国における蝦夷地への御用米回送について (1)『近世日本の民衆文化と政治』(渡辺信夫/著 河出書房新社 1992)   p207~227「文化期の盛岡藩政と民衆」(守屋嘉美/著)内p211~217「2 対幕府関係」に、盛岡藩における蝦夷地御用米に関する記述があります。 (2)『岩波講座日本通史』第11巻(朝尾直弘/著 岩波書店 1993)  p139~171「近世の交通体系」内「3 賃積船と買積船」 (3)『日本史大事典』2巻(平凡社 1993)  p76「廻米」 (4)『日本海地域史研究』第14輯(日本海地域史研究会/編 文献出版 1998)   p95~132「近世出羽藩領の松前渡米」 新潟県における蝦夷地への御用米回送について (5)『越後佐渡の史的構造』(小村弌先生退官記念事業会/編 小村弌先生退官記念事業会 1984)   p515~556「越後における蝦夷地交易の一考察」(後藤一雄/著)内p521~540「2 越後と蝦夷地の商品流通」に、近世における越後から蝦夷地への米の移出に関する記述があります。 (6)『近世日本海海運と港町の研究』(小村弌/著 国書刊行会 1992)   p17~29「第1節 幕末期越後と西国との交易」  p30~48「第2節 幕末日本海の商品流通について」  (7)「幕末期新潟港の移出入統制と交易状況」(中村義隆/著 『郷土新潟』24号 新潟郷土史研究会 1983 p5~27)  (8)『国史大辞典』第7巻 しな‐しん (国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1986)  p621「城米」 (9)『国史大辞典』第3巻 か (国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1983)  p105~106「廻米」

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