フィードアグリゲーター

大正時代にできた「大阪市立運動場」について知りたい。大阪市港区のHPに「市立運動場は、200メートルの直線コース、1周400メートルのトラック、27,000人収容のスタンド、日本初の50メートルプールなどがありました。」とあった。写真や図面などがあれば見たい。(大阪市立中央図書館)

市立運動場の配置やスタンドについての記述や写真が掲載されている資料を以下に紹介します。 (1) 『大阪百年史[1]』 (大阪府/編 大阪府 1968.6) p.1155「第六回極東選手権競技大会」に、運動場やスタンド、プールの説明があります。 p.1156に運動場を行進する選手の写真があります。 (2) 『大阪陸上競技協会・七十年史』 (大阪陸上競技協会/[編] 大阪陸上競技協会 1992) p.8「(1)新設された大阪市立運動場」に、大阪市立運動場の空中写真が掲載されています。 (3) 『記念写真帖 -第六回極東選手権競技大会-』 (時事新報社/共編 十字館 1923) 市立運動場を会場にして開催された大会の写真帖です。運動場の様子がわかる写真が多数掲載されています。 こちらの資料は国立国会図書館デジタルコレクションでもご覧いただけます。 国立国会図書館デジタルコレクション『極東選手権競技大会記念写真帖. 第6回』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966885(2020.9.23確認) (4) 国立国会図書館デジタルコレクション『運動競技場要覧』(文部省 編 日本体育聯盟 昭和2)  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117697(2020.8.22確認) p.61-63(コマ番号38-39)「二.大阪市立運動場設計」に説明文と図面があります。 (5) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪市保健施設概要. 昭和7年7月』(大阪市保健部 編 大阪市保健部 昭和7年7月)  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1144040 (2020.8.22確認) p.60-62(コマ番号38-39)「第二、市立運動塲」に記述があります。 (6) JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050706600、大正12年 公文備考 巻19 学事(防衛省防衛研究所):「第6回極東選手権大会(1)」 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C08050706600?IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C08050706600& (2020.9.29確認) p.0898-0899(コマ番号46-47)「大阪市立運動場開場祝賀聯合運動會々場要図(市立運動場)」にて、トラックやフィールド、水泳場、第一から第五のスタンド、出入口など、施設の様子が詳細にわかります。 (7) JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050706200、大正12年 公文備考 巻19 学事(防衛省防衛研究所):「見学(2)」 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C08050706200?IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C08050706200& (2020.9.29確認) p.0723-0730(コマ番号17-24)「大阪市立運動場計画概要」に、各施設の箇条書きの説明と設備費用の概算が記されています。 (8) 国立国会図書館デジタルコレクション『アスレチックス. 2(4)』(大日本体育協会 1923.4) (図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1498391 (2020.8.17確認) p.7~10(コマ番号21-23)に、「新装近き極東大競技塲」の記事があります。 (9) 国立国会図書館デジタルコレクション『アスレチックス. 2(5)』(大日本体育協会 1923.5) (図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1498392 (2020.8.17確認) 口絵 ページ付けなし(コマ番号7,9)に、「新装の競技塲(其一)」「同左(其二)」の写真があります。 (10) 『アサヒグラフ』1923年3月14日通常号49号(商用データベース「聞蔵ビジュアルⅡ」より) p.8-9に「近く竣工する第六回極東オリムピツク大會塲 大阪市立運動塲」、「大トラツクと大スタンド」、「普通スタンド」、「會場内水泳塲」、「大スタンドの内部廊下」、「鉄筋コンクリートの大スタンド」の写真があります。 (11) 『朝日新聞』 1923年5月3日 東京夕刊 2ページ 「大競技場の華々しい開塲式」 「(前略)大阪市立運動場の開塲式を二日午前九時より挙げた、(略)市内各小學校の男女學生一萬二千名(略)第一より第五スタンドに整列(後略)」とあります。 回答プロセス:1.レファレンス協同データベースで“大阪市立運動場”で検索、出てきた事例から資料(1)~(3)が見つかる 2.国立国会図書館デジタルコレクションにて、キーワード“設計”ד運動場”、発行年を竣工年を含む1920-1929年で検索。資料(4)が見つかる。 3.国立国会図書館デジタルコレクションを、“施設”ד運動場”ד大阪”で検索。資料(5)が見つかる。 4.国立国会図書館デジタルコレクションを、1932(大正11)年より刊行の体育専門雑誌『アスレチックス』を検索。1923年の検索結果から資料(8)(9)が見つかる。 5.商用データベース「聞蔵ビジュアルⅡ」「ヨミダス歴史館」「毎索」にて、“東選手権競技大会”ד大阪市立運動場”で検索。資料(11)を見つける。 6.商用データベース「聞蔵ビジュアルⅡ」にて、当該年のアサヒグラフを検索。資料(10)が見つかる。 7.国立公文書館アジア歴史資料センター( https://www.jacar.go.jp/ )で“第6回極東選手権大会”、“第六回極東競技大会”で検索。資料(6)(7)が見つかる。 事前調査事項:大阪市立図書館デジタルアーカイブ「大阪市立運動場(港区八幡屋町)」 http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=d2503001 参考資料:当館書誌ID <0080222494>  大阪百年史 [1] 大阪府/編 大阪府 1968.6  資料(1), 参考資料:当館書誌ID <0000426446>  大阪陸上競技協会・七十年史 大阪陸上競技協会/[編] 大阪陸上競技協会 1992  資料(2), 参考資料:当館書誌ID <0080254520>  記念写真帖 -第六回極東選手権競技大会- 時事新報社/共編 十字館 1923  資料(3), 参考資料:『アサヒグラフ』1923年3月14日通常号49号(商用データベース「聞蔵ビジュアルⅡ」 より) 資料(10), 参考資料:『朝日新聞』 1923年5月3日 東京夕刊 2ページ 「大競技場の華々しい開塲式」 資料(11), 参考資料:極東選手権競技大会記念写真帖. 第6回 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966885 (2020.9.22確認) 資料(3)デジタル版, 参考資料:運動競技場要覧 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117697 (2020.9.22確認) 資料(4), 参考資料:大阪市保健施設概要. 昭和7年7月 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1144040 (2020.9.22確認) 資料(5), 参考資料:アスレチックス. 2(4) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1498391 (2020.9.22確認) (図書館送信参加館内公開) 資料(8), 参考資料:アスレチックス. 2(5) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1498392 (2020.9.22確認) (図書館送信参加館内公開) 資料(9), 参考資料:見学(2) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C08050706200?IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C08050706200& (2020.9.29確認) 資料(7), 参考資料:第6回極東選手権大会(1) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C08050706600?IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C08050706600& (2020.9.29確認) 資料(6),

「鳥栖空襲」に関する資料はありますか。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。  (1)『鳥栖空襲』 轟木一二三/著 轟木一二三 1975  P63-64 「鳥栖空襲被害概況」 罹災人口:推定3200人、民家の全焼全壊、全焼:推定36戸  P65 「九州戦災都市死没者数」の表あり。「鳥栖」 罹災人口:3千人、空襲回数:1回、死没者数:93人、被爆年月日:昭和20(1945)年8月11日  P140-142 「鳥栖空襲死没者名」(氏名、当時の数え年齢の記載あり) 合計93名。  (2)『鳥栖』 篠原 真/編 国書刊行会 1979  P94 「鳥栖空襲の爆弾破片と機銃弾」 昭和20(1945)年8月11日の鳥栖空襲の際の爆弾の破片。被害を受けた当時の笠井食糧倉庫で取得されたもので、現在鳥栖倉庫(株)所蔵。  P98 「鳥栖空襲でできた被弾地」 この写真の池は、現藤木町の商工団地一帯に落ちた50-60発といわれた500ポンド(228kg)爆弾によってできた池で、昭和32(1957)年3月撮影のもの。  (3)『語り伝える空襲 ビジュアルブック 第5巻』 安斎 育郎/文 監修 新日本出版社 2008  P24 長崎に原爆が投下された後も、8月10-11日にかけて鳥栖町が爆撃され、115人が亡くなりました。  P25 写真1枚あり。爆撃であいた大きな穴は、戦後もバクダン池と呼ばれ30ケ所くらい残っていた。  (4)『佐賀市史 第4巻』 佐賀市史編さん委員会/編 佐賀市 1979  P934 昭和20(1945)年8月11日 鳥栖市空襲  (5)『佐賀県警察史 下巻』 佐賀県警察史編さん委員会/編 佐賀県警察本部 1977  P403 8月11日~(中略)久留米市爆撃に引き続いて鳥栖が空襲されたということを後になって聞いた。その記録はないので「鳥栖市史」から引用すると、「鳥栖町はいうまでもなく交通の要衝であり、軍事輸送の大きな役割をうけもっていた。それに戦争末期では片倉製糸や日新製粉は軍需工場として直接に軍需品の製造をなしていた。そのためしきりに敵機のねらうところとなった。  (6)『鳥栖市誌 第4巻 近代・現代編』 鳥栖市教育委員会/編 鳥栖市 2009  P297-298 「鳥栖空襲」、図4-8 「鳥栖空襲における米機進入経路と被災地域」(鳥栖郷土研究会『栖』25号より転載)  (7)『栖 №22~№27』 鳥栖郷土研究会/編 鳥栖郷土研究会 1993  『栖 №25 1994.10月号』 P18-26 「鳥栖空襲で110余の死者」、P20 図「米機進入経路と被災地域」、P22-23 図「藤木・東町付近爆弾落下位置」、P24 図「曽根崎町付近爆弾落下位置」、P26 「県下の空襲と終戦まで」 8月11日 午前、鳥栖空襲(死者115名余)、P27-28 「鳥栖空襲で亡くなった人」、P29-30 「鳥栖空襲の日のこと」 参考資料:鳥栖空襲 鳥栖 語り伝える空襲 第5巻 佐賀市史 第4巻 佐賀県警察史 下巻 鳥栖市誌 第4巻 栖 №22~№27,

古賀精里という人物が  ①大阪にいた時期 と ②塾を開いたか否か の2点を教えて下さい。(佐賀県立図書館)

御質問の件について、次のとおり回答します。    1.「古賀精里が大阪にいた時期」については、次の資料に記載がありました。 (1)『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・?庵』 梅澤 秀夫/著 出門堂 2008年  P179 古賀精里・?庵関係略年譜 安永4年(1775) 冬、大坂に到着、半年後京都に向かう 安永7年(1778) 精里、京都から大坂に移り、尾藤二洲・頼春水らと講学し、朱子学派に帰属する。 安永8年(1779) 精里、佐賀に帰郷  (2)『徳川後期の学問と政治』 眞壁 仁/著 名古屋大学出版会 2007年 P61-62 安永四年「十二月」に、京都への遊学途上、彼はまず「半年間」大坂に滞在して片山北海が盟主となっていた混沌社に出入りして、筱崎三島らと交わった。~中略~その後京都へ移った精里は、友人の頼春水の回想記録によれば、まず福井敬齋に、その後西依成齋に師事したとされる。~中略~学問修行を重ねる精里は、安永七(一七七八)年六月に再び大阪に赴き、大坂農人橋二丁目に居を構え、その閏七月に朱子学者を中心として大坂で結成された「作文会」にも参加した。しかし、大坂滞在中に「脚疾」を患い、遊学期間半ばの翌八年九月二〇日、乗船して佐賀への帰藩の途につく。   2.「古賀精里が大阪で塾を開いたか」については、次の資料に記載がありました。 (3)『西南地域史研究 第4輯』西南地域史研究会/編集 秀村 選三/編集 文献出版 1980年 P44-52「作文会」 (P44-45) 安永七年閏七月、精里の僑居に二洲・春水ほか二、三の同志が集まって、月一回の作文会を開催することを決めた。   (1) 『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・?庵』 梅澤 秀夫/著 出門堂 2008年 P19 「精里は京都に約二年滞在した後、大坂に移っている。この大坂で尾藤二洲、頼春水らと出会った。尾藤二洲は伊予川之江(愛媛県)出身の儒学者で、この時は大坂で塾を開きいわゆる町儒者として細々と暮らしていたが、ずっと後の寛政三年(一七九一)に、精里に先立って昌平坂学問所の教官に登用されている」とあり、この資料によりますと大阪で塾を開いたのは尾藤二洲と記載されています。 参考資料:早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・?庵 徳川後期の学問と政治 西南地域史研究 第4輯,

「佐賀空襲」に関する資料はありますか。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。  (1)『佐賀空襲 第三版』 佐賀空襲を記録する会/編 佐賀空襲を記録する会 2012  見返し(表) 「佐賀空襲当時の被爆の村々の地図」(川副村、新北村付近)  目次 「佐賀空襲における爆弾投下地点」(『佐賀市史』から)の図あり。  見返し(裏)折込 「佐賀空襲の被害状況」の図あり(市町村・字別の死者、負傷者、家焼失の数)  P2 終戦10日前の昭和20(1945)年8月5日午後11時半頃から翌6日の午前1時頃までの約1時間半の間、米空軍のB29爆撃機の30機編隊による絨毯爆撃は凄いものでした。  P8 「8月5日・6日の米軍機爆撃の記録」(作戦任務第312号) 目標:佐賀市街地、参加部隊:第58航空団、出撃機数:65機。  (2)『語り伝える空襲 ビジュアルブック 第5巻』 安斎 育郎/文・監修 新日本出版社 2008  P24 昭和20(1945)年5日の夜半、佐賀市に初の焼夷弾攻撃が加えられ、63機のB29が2196発、439トンの爆弾を投下、死者2人、重傷者1人を含む約400人が被災、68戸の家が全焼しました。さらに夜中の11時50分頃から1時間あまりにわたって、佐賀市南部、東川副村、新北村、川副町、久保田村などの地域に爆弾と焼夷弾が投下され、50人が犠牲になりました。  (3)『写真集明治大正昭和佐賀』 福岡博/編 国書刊行会 1979  P145 「空襲の目的地になっていた佐賀」 8月5日佐賀市水ケ江や西与賀方面が空襲を受け、小學校と民家500戸が被災した。  (4)『女性が綴る戦争体験記苦難のみち』 佐賀市地域婦人連絡協議会/編 佐賀市教育委員会 1993 写真P2 「焼夷弾投下」(佐賀新聞社提供)  (5)『川副今昔物語.』 川副地区地域文化活用事業実行委員会/編 佐賀市教育委員会川副出張所教育課 2011 P83 「佐賀空襲」 昭和20()年8月5日21時30分から8月6日午後午前1時頃まで3時間30分にわたり焼夷弾爆撃を受けた。P84 銃弾の後の写真あり。  (6)『佐賀県警察史 下巻』 佐賀県警察史編さん委員会/編 佐賀県警察本部 1977  P400-403 「佐賀空襲を語る 元警防課長」 佐賀県下の空襲中最も大規模のものは8月5日の夜である。当日午後11時50分頃から翌6日午前1時頃までの間に波状的に佐賀市南部と佐賀郡東川副村、新北村(現諸富町)、現川副町、久保田町と3派に分かれて小型爆弾と油脂焼い弾で攻撃を加えたのである。機種はB29で先ず電波妨害のために錫箔と照明弾を投下し、同時に油脂弾などを投下した。  (7)『佐賀県災異誌 下巻』 佐賀測候所/編 佐賀県農林部 1952  P316-317 「昭和20(1945)年8月5日23時より6日1時まで 空襲被害報告」 表あり(全焼、半焼、全潰、半潰)。  (8)『佐賀市史 第4巻』 佐賀市史編さん委員会/編 佐賀市 1979  P934 昭和20(1945)年8月5~6日 佐賀市空襲(水ケ江、高木瀬町)  (9)『栖 №22~№27』 鳥栖郷土研究会/編 鳥栖郷土研究会 1993  『栖 №25 1994.10月号』 P26 「県下の空襲と終戦まで」 8月5日 夜半、佐賀市の空襲(県下初の焼夷弾爆撃で63機が2196発、439トン投下)久保田村久冨では、全焼68戸罹災者400人(死者2、重症1) 参考資料:佐賀空襲 第三版 語り伝える空襲 第5巻 写真集明治大正昭和佐賀 女性が綴る戦争体験記苦難のみち 川副今昔物語 佐賀県警察史 下巻 佐賀県災異誌 下巻 佐賀市史 第4巻 栖 №22~№27,

「たわけ」の佐賀県内方言集での記載を教えてください。  「たわけ」は、愛知・岐阜で用いられる表現ですが、実は全国規模で使用されています。北海道の方言集にも、山口の方言集にも「たわけ」はありました。九州でも、長崎、福岡、大分では使用の痕跡が見られましたが、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄ではこれまでのところ確認出来ていません。つきましては、佐賀県内の方言集などで、「たわけ」の記載例の有無を教えてください。   【事前に自分で調べた事項】 『全国アホ・バカ分布考』『県別罵詈雑言辞典...

御質問の件について、下記の通り回答します。   1.「たわけ」について、次の方言集を調査しましたが、確認できませんでした。  ・『佐賀の方言 上巻』 志津田 藤四郎/著 佐賀新聞社 1998年    p.468〈フーケ〉「バカ(馬鹿)」「馬鹿者」というところを、熊本県、長崎県、佐賀県などで「フーケ」という。  ・『佐賀弁一万語』 福山 裕/著 佐賀印刷 1995年  ・『佐賀県のことば』 藤田 勝良/〔佐賀県著〕 明治書院 2003年  ・『九州語逆引き辞典』 木下 文夫/著 九州方言研究所 1996年  ・『佐賀県方言語典一班 訂補履刻版』 清水 平一郎/著 鍋島報效会 1975年  ・『かんばばシスターズの佐賀弁辞典』 NBCラジオ佐賀/編 2003年  ・『がばいスゴか!佐賀弁辞典』 NBCラジオ佐賀/編 2008年  ・『日本のふるさとことば集成』 国立国語研究所/編集 国書刊行会 2008年   2.方言集以外には、次の資料に「たわけ」の記載がありました。  (1)『佐賀県近世史料 第2編 第1巻』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 2009年   P888 『直能公御年譜附録下』 南り(里)家来共ニ向ひ何のたわけ者共と云て十兵衛を抱き留れ共 参考資料:佐賀の方言 上巻 佐賀県近世史料 第2編 第1巻,

龍造寺の活字化された系図や系譜はありますか。(佐賀県立図書館)

1.「龍造寺の活字化された系図」については、次の資料に記載がありました。  (1)『龍造寺家と鍋嶋直茂』 市丸昭太郎/著 佐賀新聞社 2017  P323 「龍造寺家関係系図(鍋島文庫)」 (2)『続群書類従 第6輯 下』 塙 保己一/編 続群書類従完成会 1932  P350-351 「龍造寺系図」 龍造寺季周から伯庵(第21代)までの略系図 (3)『竜造寺隆信』 川副博/著 川副義敦/考訂 佐賀新聞社 2006  P9 「龍造寺氏略系図(一)」 藤原秀郷から康家(第14代)までの略系図 (4)『佐賀市史 第1巻』 佐賀市史編さん委員会/編 佐賀市 1977  P482 「龍造寺氏略系図(一)」 藤原秀郷から康家(第14代)までの略系図 (5)『戦国期の肥前と筑後』 田中耕作/著 佐賀新聞社 2014  P85 「龍造寺氏略系図」 藤原秀郷から伯庵(第21代)までの略系図  P100-101 「竜造寺氏(鍋島氏)系図」 康家(第14代)からの系図。村中竜造寺、水ケ江龍造寺、多久家、須古家、佐賀藩。 (6) 『風の通ひ路』 田中 耕作/著 昭和堂 2015  P167-168 「竜造寺氏(鍋島氏)系図」 康家(第14代)からの系図。村中竜造寺、水ケ江龍造寺、多久家、須古家、佐賀藩。    2.「龍造寺の活字化された系譜」については、次の資料に記載がありました。  (7)『龍造寺氏の系譜』 江口 白翁/著 江口功一郎 1988 参考資料:龍造寺家と鍋嶋直茂 竜造寺隆信 佐賀市史 第1巻 続群書類従 第6輯 下 戦国期の肥前と筑後 風の通ひ路 龍造寺氏の系譜,

貴館所蔵の『卒業生名簿(佐賀県立佐賀中学校)』の大正12(1923)年の卒業生氏名は「アイウエオ順」か「イロハ順」でしょうか?それとも、それら以外の並び方でしょうか?(佐賀県立図書館)

下記のとおり回答します。     『卒業生名簿』明治21年-大正14年卒業生 佐賀県立佐賀中学校 1925年を確認したところ、以下の記載がありました。       表紙に、大正十四年七月調 卒業生名簿 順序不同と記載があります。 またP81~84に大正十二年三月一日卒業 百十七名の名前、学校名、勤務先が記載されています。 参考資料:卒業生名簿,

唐津にある増田神社の主祭神・増田敬太郎巡査が、北海道開拓に関わったことに関する資料はありますか。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。  (1)『鳴呼警神増田巡査』 連 修/述 佐賀県警察部 1931  P6 明治25(1892)年には、東亜の風雲を達観して将来の日本を経営すべく北海道の開拓に志し、自ら率先して郷民数十人を率ひ、朔北の地を堅めんと志したのであります。~然し不幸にして活動の度を過ぎ、心を労すること大にして居ること半年にして後事を後進に託して、再び郷里に巳むを得ず帰ったのであります。  (2)『巡査大明神全伝』 内田 守/著 金華堂 1976  P18-19 明治23(1890)年のこと、郷土人数十名を募集し、引率して、北海道へ渡ったのである。~一行は長崎に出て、船で北海道の小樽に上陸、岩見沢の開拓地に入った。~食料は少なく、飲料水が悪くて腹を壊す者が多く、増田氏も腹を病み、開拓地に見切りをつけることになった。  P21 増田氏が団長として土地買収に投入した個人資金も、相当なものだったらしく、その全権利を放棄して帰国したので、その権利は玉名から同行した団員が承け継ぎ、「増田農場」と名づけて、長く記念した由である。  (3)『警神.増田敬太郎百年祭』 増田神社奉賛会 1994  P1 明治23(1890)年9月 北海道開拓団を引率して渡道するが、事志に反し、病を得て半年にて帰郷する。  (4) 『神様になった人の話 増田敬太郎物語』 肥前町企画振興課/制作 肥前町 1994  P10 明治23(1890)年、泗水村近郊の人たち数十名と北海道開拓へと向かいました。敬太郎は開拓団長として一行を率い、長崎から船で小樽に上陸し、さらに岩見沢の開拓地を目指しました。北海道の開拓事業は想像以上の悪条件で、仕事も食料も少なく、さらに飲料水が悪いので腹を壊す者が続出し、とうとう敬太郎も病に倒れ帰郷しました。北海道で土地を購入していたのですが、帰郷する際にすべての権利を放棄することになり、北海道に残る団員に譲渡しました。その土地は、「増田牧場」と名付けられ、功績が永く残されました。 参考資料:鳴呼警神増田巡査 巡査大明神全伝 警神.増田敬太郎百年祭 増田神社百年祭 記念 神様になった人の話 増田敬太郎物語,

昭和59(1984)年に開催されたロサンゼルスオリンピックの制服について記載のある資料はありますか。   【事前に自分で調べた事項】 青いジャケットに白のワンピース。右胸に、日本の国旗のマーク。デザインは、フクミツ(モリタ)ヒサヨさん。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。   (1)『日本経済新聞 昭和59(1984)年5月9日 夕刊』 9面 「機能性とファッション統一 ロス五輪服装をデザインした荻原土志好さん」  開幕3ケ月前の4月25日、日本選手団が着る服装が決定、日本オリンピック委員会総会で披露されました。デザインは、西武百貨店のコーディネーターの荻原土志好さん。オリンピック用の服装は、開会式などの式典に着用する公式用と旅行用の男女各2種類。公式用は、日の丸の色を基調とした赤のブレザーに白の男性はスラックス、女性はスカート。斬新なのは、女性の旅行用服装で、スカイブルーのスペンサージャケット(丈の短い上着)とベージュのワンピースの組み合わせ。男性用の旅行用ブレザーは紺。男女色違いも初めての冒険だった。

現在は鳥栖市となっている、旧「旭村(あさひむら)」の村名の由来を教えてください。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。  (1)『佐賀県三養基郡誌』 佐賀県三養基郡教育会 1915年  P60-63旭村  P60 ~本村の北方に突如として聳ゆる山あり。海抜は僅に千三百尺 に過ぎざれども、北方九千部山・石谷山等の山勢を受くるにあらず、端然として僅に低く山脈を西に引けるのみ。之を朝日山といふ。村名の依つて出づる所なり。~    (2)『佐賀地名うんちく事典』 福岡 博/著 佐賀新聞社 2005年  P121旭村 旭(朝日)山の山名より村名にしたと思われる。旭山は古くより烽山として知られている。 参考資料:(佐賀県)三養基郡誌 佐賀地名うんちく事典,

江戸時代の鹿島の西牟田村に関する資料はありますか。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。   (1)『角川日本地名大辞典41 佐賀県』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1982  P533 西牟田村 にしむたむら (鹿島市) 江戸期の村名。藤津郡のうち。鹿島川下流南岸に位置する。佐賀本藩領。能古見郷に属す。村高は、「正保国絵図」「天明村々目録」ともに683石余、「天保郷帳」では771石余、「旧高旧領」では363石余。一時塩田郷に属したこともある(享和元年写御領中郷村附)。   (2)『佐賀県の地名 日本歴史地名大系42 佐賀』 平凡社 1980 P482 西牟田村 にしむたむら(現鹿島市大字高津原字西牟田) 現鹿島市の北部、鹿島川の南にあり、正保絵図に村名がみえる。江戸時代は鹿島支藩領に囲まれ、西方は蓮池支藩領に接する佐賀本藩領の村。貞享4(1687)年改元文3(1738)年写の御領中郷村帳には「車分能古見庄」に入り、享和元(1801)年写の御領中郷村附には西分塩田郷に入り、「御蔵入、此村年貢取立白石南郷遣」となっている。鹿島郷大庄屋松尾兵蔵が弘化2(1845)年に書いた記録の中にも「御蔵入西牟田宿」という語があって、西牟田宿は蔵入地すなわち佐賀本藩領だった。 P548 「行政区画変遷・石高・戸口一覧 鹿島市」   ・肥前国佐嘉領村々目録 天明7(1787)年 西牟田村、石高:683-309石  ・天保郷帳 天保4(1834)年 西牟田村、石高:771-212石  (3)『鹿島市史 中巻』 鹿島市史編纂委員会/編 鹿島市 1974 P54 西牟田村 683石3斗 9合  P55 「元禄肥前国絵図」 元禄年間(1688-1703)に描かれた絵図。 藤津郡図絵(鍋島侯爵別邸蔵) 右側中央部に西牟田村の名前あり。  ・現在の鹿島市に属する土地の郷村名の変遷(各種郷村帳により作成) 郷名:東分能古庄(郷)鹿島私領、対馬殿私領小配分、御蔵入あり。 P62 郷村帳名:貞享4(1687)年改元文3(1738)年記写「御領中郷村帳」、西牟田村 P63 郷村帳名:享和元(1801)年写「御領中郷村附」、西牟田村(御蔵入、此村年貢取立南庄屋達)、郷村帳名:万延元(1860)年改「郷村帳」、西牟田村 P141 安政5(1858)午年家中着到帳4月改「鹿島」 居住村名:西牟田村、身分:仲小性1名 P442 猿田彦刻字塔一覧表 年号:安永10(1781)年、所在地:鹿島西牟田前山薬局裏  (4)『初期の肥前鹿島藩の一考察』 鹿島市教育委員会 1984 P25-26 鹿島町の西牟田と海岸の七浦郷、西葉・母ケ浦・西塩屋浦・東塩屋浦・宮田尾・音成・嘉瀬浦・竜宿浦は、本藩が支配する蔵入地となっている。  (5)『鹿島町小志』 鹿島町/編 1922 P14 五ケ町村内に鹿島藩以外の領土(直朝以後)ありしは鹿島町の西牟田(宗藩)、鹿島村の井手三部(蓮池藩)、能古見村の本城、浅浦、山浦、南川(宗藩)等とす。  ※佐賀県立図書館HPのデータベースで公開されています(https://www.sagalib.jp)。 「塩田郷西牟田村図」 郷0778 天明8(1788)年 鹿島市高津原 参考資料:角川日本地名大辞典 41 佐賀県の地名 鹿島市史 中巻 初期の肥前鹿島藩の一考察 鹿島町小志,

佐賀県の鳥栖(とす)と愛知県名古屋市鳥栖(とりす)はゆかりがあるのかを知りたい。(佐賀県立図書館)

当館の調査した資料(古文書等、古地図・絵図等歴史資料を除く)では、ゆかりについての直接的な記述は確認できませんでしたが、参考として下記の資料を御案内します。  ・「佐賀県の鳥栖(とす)」について (1)『角川日本地名大辞典41 佐賀県』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1982 P479 鳥栖 とす 鳥樔とも書いた。地名の由来は「肥前国風土記」によると、応神天皇の頃当地に鳥屋があり、いろいろな鳥を飼育して天皇に献上したことから鳥屋郷といい、のちの鳥樔の郷というようになったと伝える。 (2)『佐賀県の地名 日本歴史地名大系42 佐賀』 平凡社 1980 P43 鳥樔郷 とすごう 「肥前国風土記」によると、応神天皇の時、鳥屋(とや)をこの郷に造ってさまざまの鳥を取り集めて飼いならし、朝廷に献上したので鳥屋郷(とやのさと)といったのを、後人が改めて鳥樔郷(とすのさと)といった、という伝承である。  ・「愛知県名古屋市鳥栖(とりす)」について (1)『角川日本地名大辞典23 愛知県』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1989   P917 鳥栖 とりす 昭和21(1946)~61(1986)年の名古屋市南区の地名。もとは南区呼続町の一部。町名はこの地に鳥住(取隅)と呼ばれる城跡があったことによる。昭和61(1986)年鳥栖1~2丁目・桜台1~2丁目となる。 参考資料:角川日本地名大辞典 23 角川日本地名大辞典 41 佐賀県の地名,

唐津藩の庄屋制度に関する資料はありますか。また、唐津藩の庄屋制度が終わった時期を知りたい。(佐賀県立図書館)

御質問の件について、下記のとおり回答します。   1.「唐津藩の庄屋制度」については、次の資料に記載がありました。  (1)『『郷土史誌末盧國 旧唐津藩地域の史跡調査研究集 第2巻』 松浦史談会/編 芸文堂 1997  P6 「旧庄屋地騒動」 旧庄屋地の争いのきっかけは明治の新政府が地租改正を新政策に基づき、すべての土地の所有(私有)者を決め明確にしようとしたためである。しかし争いの条件をつくったのは旧唐津藩の庄屋制度から来たもので、これが遠因となった。~(中略)慶安4(1651)年、ときの唐津藩主大久保氏が庄屋を10年単位で村替えをし、仕事を怠けることを防ごうとした。いわゆる転村庄屋が生まれたのである。  (2)『唐津市史 復刻版』 唐津市 1991 P840 明治3(1870)年11月、大庄屋を「里正」、庄屋を「与長」と改めた。 P841 明治4(1871)年3月5日、里正、与長は知藩事より城に呼び寄せられて地方改正の沙汰を受け、里正は大里正に、与長は里正と改称され、庄屋統合を言い渡された。この時31名の旧庄屋が解任され141名が新制度の大里正・里正・録事(旧庄屋制の大庄屋筆役)となっている。この新制度で二百ケ村あった村は九十の里正受持の合併村となった。 P853 ~名称は変わっても郡代-郡小頭-手代の組織の下に大庄屋(里正後に大里正)、庄屋(与長更に里正と改称)または大年寄(宿正)、年寄(伍長)、組頭、名頭(伍長)と組織の上で大きな変化は見られない。 P863 これによって、江戸初期以来の郷村制度は完全に崩壊し、二百余の村は49の村に統合され、”庄屋”さま対”百姓”の関係は”お役人”対”村民”の関係にかわった。  (3)『厳木町史 下巻』 厳木町史編纂委員会/編集 唐津市 2011 P297 明治4(1871)年2月、唐津藩県は行政改革として31名の庄屋を解任し、残り141名を新制度の大里正・里正・又は録事に採用した。解任された庄屋の14名は居付庄屋(相続庄屋)であり、その者は庄屋屋敷と庄屋地をそっくり持っての帰農することを許され、残りの17名は転村庄屋であった為か、退職に際して、年8俵の米を俸禄に準して給付され、居付屋敷は従前通りという処置で帰農している。  (4)『浜玉町史 下巻』 浜玉町史編集委員会 浜玉町教育委員会 1994 P40 唐津藩県行政の改革とともに地方機構制度の改革にも着手した。明治3(1870)年11月、大庄屋を「里正」、庄屋を「与長」と改めた。  (5)『玄海町史 上巻』 玄海町史編纂委員会/編 玄海町教育委員会 1988 P1012 「唐津藩職制改革」 明治3(1870)年11月、藩制の手直しがあって、これまでの大庄屋は里正と改められ、庄屋は与長と改められた。  (6)『相知町史 下巻』 相知町史編さん委員会/編 相知町 1977 P112-113 「大庄屋と小庄屋を改称」   ・藩当局としては、末端管理統制の確立のために、庄屋の改称を急いだのであるが、3月の農民騒動の後始末に時日を要し、延引を重ねていた。  ・明治3(1870)年11月大参事より司民大属へ 里正 但 前大庄屋、 与長 但 前庄屋 「今般藩制御改革につき役名更に改称せしめ候也」のお達しがあり、司民局の管轄下におかれた。  (7)『肥前史研究 三好不二雄先生傘寿記念誌』 三好不二雄先生傘寿記念誌刊行会 1985 P494 唐津藩は、何か村かまとめて組をつくった。村ごとに庄屋を置き、そのうえに組ごとに大庄屋を置いて村ごとの庄屋を指導、監督させた。 P499 「幕領一揆の村々」 天保の一揆も明治の騒動も、その相手が村役人の庄屋であったことは共通している。 P500-502 第9表 明治の庄屋地騒動への参加の村について記載あり。 P502 第10表 「幕府領以外の庄屋地騒動の村々」 P503 「幕領一揆と庄屋地騒動」 明治の庄屋地騒動は、明治2(1869)年の七山、白木村の旧庄屋と村人の対立から始まり、これが松浦郡内に波及していく。郡内五十四か村で旧庄屋地が旧庄屋のものか村人(小作人)のものか争いが続いた。     2.「唐津藩の庄屋制度が終わった時期」については、次の資料に記載がありました。  (8)『郷土史誌末盧國 旧唐津藩地域の史跡調査研究集 第2巻』 松浦史談会/編 芸文堂 1997 P6 「旧庄屋地騒動」 明治4(1871)年2月、旧唐津藩は藩政の改革を行い、この旧庄屋を里正と名を変えさせ村政にあたらせていたが、この年、二百ケ村の村を九十ケ村に統合して旧庄屋31名を帰農させた。また明治5(1872)年に旧庄屋職は、すべて廃止した。そうしてこの年の11月、村を大区と小区にまとめ、区長、戸長を置き、さらに明治6(1873)年1月には郡区制を行い、大区を戸長、小区を副戸長と呼ぶ役職にさせ、完全に旧庄屋制度を廃止した。 参考資料:郷土史誌末盧國 第二巻 唐津市史 厳木町史 下巻 浜玉町史 下巻 玄海町史 上巻 相知町史 下巻 肥前史研究,

『佐賀県近世史料 第8編 第1巻』P403に記載のある三高について分かる資料はありますか。   【事前に自分で調べた事項】 『佐賀県近世史料 第8編 第1巻』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 2005 P403 「~〆六拾石三高ニ被仰付」の三高とは。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。   (1)『佐賀県史 中巻』 佐賀県史編さん委員会/編 佐賀県 1968 P109 侍について、その所得となるところの、知行地からの本年貢の高をいう時には物成の語を用い、知行地について、そこの本年貢の高をいう時には地米の語を用い、また、知行地でなくとも、一般に村高などをいう時には地米の語を用いた。  ※参考として、下記の資料を御案内しました。 (1)『佐賀藩の総合研究 続』 藤野 保/編 吉川弘文館 1987 P582 相続米渡しとは、財政窮乏の時、盛んであった献米・献銀を徴収しない代わりに、家中の俸禄として渡されていた切米を総て没収し、その中から各家の相続費即ち毎日の生活を維持するだけの米を禄高に割当てて渡す方法1000石以上の者は高の二分(1000石につき200石)、100石以下50石以上は高の四分四厘(100石につき44石)等の割合で渡した(『鍋島直正公伝 第1編第3』 P18より)。  (2)『佐賀藩の制度と財政』 城島正祥/著 文献出版 1980 P153 「佐賀藩領の石高と成」 地米とは、佐賀藩の特殊な用語であるが、大まかに言えば物成を意味する。しかし禄高をいう時は物成を用い、配分地と限らず郡や村が上納する高をいう時は、地米という。 参考資料:佐賀県史 中巻 佐賀県近世史料 第8編 第1巻 佐賀藩の制度と財政,

『麗日発光華』が使われている詩のタイトル、典拠を知りたい。(佐賀県立図書館)

御質問の件については、当館の調査した資料(古文書等、古地図・絵図等歴史資料を除く)では、確認できませんでした。  また、国立国会図書館にレファレンスを依頼しましたが、「詩題及び出展が記載された資料は見当たりませんでした」との回答がありました。   参考として下記の資料を御案内します。 (1)『墨場必携 新注』 河米菴/輯 大文館書店 1955  P88 孟郊然の詩である旨が記載。  ※国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能 65コマ(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2478890/65)  (2)『明解新修墨場必携』 山本 正一/編 法政大学出版局 1958  P5 孟浩然の詩である旨が記載。 ※国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能 9コマ(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2486018/9) 参考資料:新註墨塲必携,

佐賀藩の法橋に関する記述がある資料を見たい。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。   (1)『佐賀県近世史料 第1編 第10巻』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 2002  P607 「御代々略譜 三」 宗教公 寛保2(1742)年2月6日 下間兵部卿法橋  (2)『佐賀県近世史料 第1編 第2巻』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 1994  P188 「勝茂公譜考補 一」 吉野山御供 文禄3(1594)年2月25日 殿下吉野ノ御花見アリ   曙ノ雪トヤ見エン吉野山 常盤木マテモ 花ノ嵐ニ 法橋紹巴  (3)『佐賀県近世史料 第1編 第3巻』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 1995  P680 「綱茂公御年譜 下」 元禄17(1704)年正月26日 太田貢菴・古賀玄節・松永宗淵、法橋ニ被召成  P688 宝永2(1705)年12月4日 藤山忠順・高木宗節、法橋ニ被召成  (4)『佐賀県近世史料 第2編 第1巻』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 2009  P99 「元茂公御年譜 三」 寛永2(1625)年7月5日 雅胤 鍋嶋紀伊守殿 法橋壽三此度罷下候付~  P103 寛永3(1626)年8月26日 雅胤 鍋嶋紀伊守殿 法橋壽三可被申入候、恐惶謹言  P860 「直侯公御年譜附録 上」 明暦3(1657)年~此時己ニ法体シ僧ノ位階ヲ給ッテ法橋・法眼・法印ニ叙スル事始リシト見エタリ  (5)『佐賀県近世史料 第8編 第2巻』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 2006  P16 「解題 楠祠之記」 寛文2(1662)年に楠公父子の木像を発願、藩主鍋島光茂以下多くの賛同者を得て、京の仏師法橋宗而によって像を製作し完成したのが、寛文3(1663)年5月である。  P215 「葉隠巻首評註」 楠正成の忠義を敬慕し、其像を彫刻の志願を有志者に勧進し、光茂公を始め御三家・御親類より諸侍・僧侶まで余多寄付金あり。京の仏師法橋宗而に嘱して彫刻し、翌年5月24日、佐嘉郡北原村の永明寺に安置す。  P490 「葉隠聞書(草野永元聞書)」 今時ハ下手モ分限ヲ不計シテ、徳利ニ目カキキテ法橋ノ位ニモ至ル  P571 寛文3(1663)年卯5月25日 京四条通御幸町 佛師法橋宗而  P572 寛文3(1663)年卯5月25日 京四条通御幸町 佛師法橋宗而 参考資料:佐賀県近世史料 第1編 第10巻 佐賀県近世史料 第1編 第2巻 佐賀県近世史料 第1編 第3巻 佐賀県近世史料 第2編 第1巻 佐賀県近世史料 第8編 第2巻,

佐賀藩の懲役制について知りたい。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。  (1)『佐賀県史 中巻』 佐賀県史編さん委員会/編 佐賀県 1968  P281-297 「徒罪制」  P281 徒罪方の設置については『泰国院様御年譜地取』天明4(1784)年2月18日の条に、「今般徒罪の法相立てられ、行跡宜しからざる者御〆方の儀委細相触れ置き役々よりも教諭これある儀に候えども」とあって、徒罪方という役所が設けられ、懲役制が実施されたのは天明4(1784)年前後であることがまず推定される。その確実な年代については「教諭御書付、神埼代官所」に所収する『達帳写』が後にかかげる小城鍋島家文庫の『徒罪方達帳写』とほとんど同文であり、その日付が「天明3(1783)年、卯12月廿日」請役所から公布されているので、天明3(1783)年12月こそ佐賀藩における徒罪制-懲役制度-実施の年月とすべきであろう。   P282   ・その設置された場所は片田江(佐賀市水ケ江2丁目)、十五村(佐賀市嘉瀬町十五)、鍋島村(佐賀市鍋島町)、皿山(西松浦郡有田町)の4ケ所であったが、寛政10(1798)年、行政整理にともなって片田江1ケ所に総合されたのである。  ・「表1 徒罪方」 役名、人員、役料の記載あり。  ・その職員構成は幕末のものと思われる『外様御側諸役系図』によると、徒罪方侍1人、手許役手明鑓1人、番宅詰手元役よりこれを兼ねる、手男2人。   (2)『池田史郎著作集 佐賀藩研究論攷』 池田 史郎/著 池田史郎著作集刊行会/編 出門堂 2008   P150-158 「佐賀藩の刑法改正 徒罪方の設置」  ※『佐賀県史 中巻』P281-297と同文。   (3)『ご存知ですか? 図書館だより特集号』 佐賀県立図書館/編 佐賀県立図書館 1998  P22 郷土-佐賀藩 (問9) {佐賀藩の徒罪制とはどのようなものか」   佐賀藩の徒罪方設置の時期についてはそれぞれの資料により天明3(1783)年と推定される。場所は片田江、十五村(現嘉瀬町)、鍋島村、皿山(現西松浦郡有田町)の4ケ所に順次設置されたが、寛政10(1798)年の行政改革により片田江1ケ所に統合された。   (4)『佐賀県大百科事典』 佐賀新聞社佐賀県大百科事典編集委員会/編 佐賀新聞社 1983  P463 「徒罪方 ずざいかた」 佐賀藩が庶民の罪人を収容して懲役刑を科す目的で設けた施設。8代藩主鍋島治茂が藩政改革の一つとして、天明3(1783)年佐賀城下の片田江に設置した。  ※「文化年間佐賀城下図」 徒罪方(旧佐賀市民会館の南東) 参考資料:佐賀県史 中巻 池田史郎著作集 ご存知ですか? 佐賀県大百科事典 徒罪方覚,

有田製陶所について記述のある資料はありますか。(佐賀県立図書館)

次の資料に記載がありました。  (1)『有田町史 陶芸編』 有田町史編纂委員会/編纂 有田町 1987  P348 明治43(1910)年、大阪の和久栄之助は上有田駅前に有田製陶所を創立して、はじめは一般磁器を焼いた。銘の久栄は和久栄之助の俳号である。のちには建築用の磁器タイルを焼くようになった。有田タイル株式会社の前身である。  (2)『有田町史 陶業編2』 有田町史編纂委員会/編纂 有田町 1985  P260 「有田製陶所」職工および徒弟数:36人、原動力(機関数:電気1、馬力:20)、明治44(1911)年6月創業。  P261 工場(直接作業ニ従事スル者10人以上使用ノ工場) 大正4(1915)年12月末日 職工および徒弟数:35人、P264 大正8(1918)年12月末日 職工および徒弟数:42人、P266 大正9(1919)年 職工および徒弟数:45人    (3)『肥前陶磁史考 復刻版』 中島 浩気/著 青潮社 1985  P713 「和久の製陶所」 明治43(1910)年辻勝蔵の長子喜一は、大阪の商買和久栄之助と共同して、上有田駅前に有田製陶所を創立し、専ら建築用の磁器タイルを製造したが、幾許もなく栄之助単独の事業となり、明治44(1911)年9月拾萬円の資本金となし、新式の機械を据付けて規模を拡張し、内外壁タイルのほか、床敷タイル及びモザイク等を製作して、年産額拾餘萬円を挙ぐるに至った。なほ大阪市北区茶屋町に出張所を設け、製品のマークには俳号久栄を用いている。  (4)『目で見る佐賀百年史 明治・大正・昭和秘蔵写真集』 佐賀新聞社出版部/企画・編集 佐賀新聞社 1984 P185 「有田製陶所」 上有田駅付近の様子がよくわかる。左上にトンネルがあり佐世保線が通る。時代は大正初期頃。製品はトロッコに積んで駅まで運ばれた。 参考資料:有田町史 陶芸編 有田町史 陶業編 2 肥前陶磁史考 目で見る佐賀百年史,

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