レファレンス協同データベース新着事例

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茨木市にあった三宅城の城主の菩提寺はどこか。(茨木市立中央図書館)

2018年8月18日
『わがまち茨木 城郭編』(茨木市/編 茨木市 1987)P62-63 P62-63 「三宅城」の項あり。 「(前略)三宅氏の菩提寺だった常楽寺跡(後略)」の記述あり。 『わがまち茨木 神社・仏閣編』(茨木市/編 茨木市 1989)P174 P185 P174 「万福寺」の項に以下の記述あり。 「明治6年廃寺となった常楽寺(三宅廃寺)の塔婆心礎が境内にある。」 P185 「三宅廃寺」の項に以下の記述あり。 「蔵垣内付近  行基菩薩が譯1200年前(聖武天皇 天平10-738)、礼状として開いたのが始まりと伝えられている。  寺は東西48余間あり、釈迦堂、観音堂があった。350年前 天皇家、公家方の祈願所として一時栄えたが後消失、一度再建された。  寺は三宅連と称される屯倉あるいは屯田を統率していた中臣系の氏族が建てたものと考えられ、三宅氏の氏寺となり、三宅城主 三宅出羽守の菩提寺となっていたが明治6年(1973)廃寺となった。  又、万福寺(蔵垣内三丁目)境内に残る塔婆心礎は常楽寺の唯一の遺物といわれ、その心礎の形式から飛鳥時代末期から奈良時代前期のものと考えられています。」 『新修茨木市史 第9巻 史料編 美術工芸』(茨木市史編さん委員会/編 茨木市 2008)P112 P117 P125 P112 「三宅廃寺とその周辺」という項あり。 「摂津市千里丘にあった常楽寺は、『常楽寺縁起』(『摂津市史資料編一』所収)によれば、天平年間に行基が開き、往時は一同伽藍をそなえた大寺で、室町時代には三宅氏の菩提寺であったという」との記述あり。 P117 「三宅氏の菩提寺とされる常楽寺(現・摂津市)は天平年中に行基が開いたという伝承があり、元和元(1615)年焼失、元禄13(1700)年再興されたが、廃仏毀釈によって明治6(1873)年廃寺になったという。」との記述あり。 P125 「三宅氏は明治6(1873)年に廃寺となった常楽寺(現・摂津市)を菩提寺としていた。」との記述あり。 上記資料から、三宅城主であった三宅氏の菩提寺は「常楽寺」であったことがわかるが、常楽寺は廃寺になり、現在は万福寺の境内に塔婆心礎が残っているということがわかった。 『新修茨木市史 別冊 年表・索引』を確認し、「常楽寺」が記載されている「新修茨木市史」の1~10巻を調べ、該当ページを確認したが、上記以外では回答となる記述はなかった。 寄与者:[2018.8.18追記] 国立国会図書館関西館より、コメントをいただきました。 『日本歴史地名大系28 大阪府の歴史1』(平凡社 1986)P218 常楽寺跡の項に 「常楽寺は天平年間(七二九~七四九)行基が(略)瑞光の導きにより開いたと伝え、七堂伽藍を備えた大寺であったという(「常楽寺縁起」古木家文書)。その後、三宅城(現茨木市)城主三宅氏の菩提寺となったが(略)廃仏毀釈によって明治六年に廃寺となった。旧境内は現在墓地となり、そのなかに三宅氏の墓碑とみられる宝篋印塔がある。」 とあり、三宅氏の墓碑が現存している可能性についても言及されている。

茨城県の五浦六角堂(いづら ろっかくどう)の写真の載った資料はあるか。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
『岡倉天心 別冊太陽』(平凡社 2013)、『岡倉天心と五浦』(中央公論美術出版 1998)にあり。

幼稚園施設設備指針の古いものが載っている資料はあるか。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
年刊『最新保育資料集』(ミネルヴァ書房)に収録あり。 1995年版から千葉県立中央図書館で所蔵あり。

消防署にある出動時に使う「辷棒(すべりぼう)」が現在も使われているか。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
『消防官になる!』(イカロス出版 2004)p.33に「現在では使用されていないのが一般。」とあり。 『新しい小学生の社会科見学 9 消防しょの見学』(ポプラ社 1997)では使用している写真あり。

昭和20年頃に下総中山駅北口にあった洋裁学校について知りたい。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
『市川動態図鑑 昭和32年』p.61に「国際女子服装学院 国際予備校」(船橋市小栗原2-320)の記載あり。

『青陵遺編集』(海保青陵/著 国本出版社 1935)を編集した谷村一太郎について知りたい。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
Googleで、「青陵遺編集」「谷村一太郎」で検索すると、京都大学貴重資料デジタルアーカイブに谷村文庫コレクションがあることがわかる。 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/collection/tanimura (2018.7.1確認) 谷村文庫の説明に谷村一太郎氏(1871-1936)の経歴等の記述がある。 谷村氏は、藤本ビルブローカー銀行(大和証券の前身「銀行図書館 銀行変遷史データベース」より http://www.opac1.com/bank/detail.php?bcd=4855 2018.7.1確認) の取締役会長を務めた人物。 古書の繙読を楽しむ好学の士で、典籍文書類を収集し、経済学者海保青陵の遺著を捜索して、「青陵遺編集」等の経済学の専門的著述を刊行した。 『青陵遺編集』については、国立国会図書館デジタル送信サービスにより市川市中央図書館内で閲覧が可能。

岡本太郎の祖父である岡本可亭(本名 岡本竹次郎)が市川市国府台の共同墓地に眠っていると個人サイトで見た。また、『私家版里見公園新聞 第20号』(木ノ内博道/著 2007)にも関連記事が載っているのを確認したが、この他に国府台の墓と岡本家に関わる資料はないか。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
岡本可亭の墓については、千葉県立図書館の千葉県情報データベース「菜の花ライブラリー」で「岡本太郎」「墓」で検索すると、千葉日報1994.3.20.県西版の記事が見つかり、可亭の墓が国府台の共同墓地にあることが確認できた(写真あり)。 また『一平全集 第20巻』(大空社 1991  県立西部所蔵)p.347にも「大正七年に家督を一平[可亭の子]に譲った竹次郎は、すでに癌にむしばまれており、翌年に世を去った」「竹次郎は晩年を過ごした千葉県市川市国府台の隠居の近くの共同墓地に眠っている」とある。 ほかに、『「北大路魯山人と岡本家の人びと」展』(川崎市岡本太郎美術館 2005 県立中央所蔵)の巻末年譜から、京橋在住時代に奉公に来ていた石井千代と家族が気が合い、大正6年ごろ千代の実家のある国府台3丁目に隠宅を設け妻の正と移り住んだこと、大正7年10月7日に家督を一平に渡し戸主とし、昭和13年に正が国府台で死去した後、隠宅は一平から石井家に譲渡されたことなどが分かる。 『私家版里見公園新聞 第20号』には、一平の家を購入した人からの聞き書きが掲載されており、「一平さんのお墓はここの共同墓地にあったが、一部は岡本太郎が多磨霊園に移しましたね。」とある。 一方、『岐阜の岡本一平』(黒野こうき/著 2008 ブックショップマイタウン 県立東部所蔵)には、一平の葬儀は終焉の地となった岐阜県加茂郡で行われ、「遺骨は分骨され東京の太郎(多摩霊園)と田立〔長野県木郡〕の藤田啾漣(禅東院)が引き取る。」(p.175)とある。 また、田立の遺骨は「昭和六十一年四月二十日の一平句碑除幕式の日に、太郎が持って帰るまで禅東院にあった」(p.124)と書かれており、『私家版里見公園新聞』と記述の違いが見られるが、それ以上の詳細は所蔵資料では確認できなかった。

市川市立大町小学校の変遷について知りたい。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
大柏村の発足以前から、大町新田(現在の大町)に大町小学校の名称で小学校があったことが以下の資料より分かる。 ①「大柏村の成立・展開と学校問題」(神山知徳/著 2003 『市立市川歴史博物館報 平成13年度』p.18-29) ②『大町をひらいた人々』(大町共有地管理委員会「大町をひらいた人びと」制作部会 2003) その他、『おおがしわ創立130年記念誌』(市川市立大柏小学校/編 2003)p.3-6の年譜にも記載あり。 ①のp.19には明治時代の「図2 大柏村 (大野村外4か村連合含む)内の学校変遷図」があり、最初の場所・設置年の記述はないが、「(前略) 大町新田に、どこかの小学校の附属学校という形で小学校が設置されていた。 大町小学校は明治18年度まではその存続を史料上確認できるが、町村制施行当初には明らかに廃止されている。」とある。 明治25年に大町尋常小学校として設置、明治29年に字竹内(現在日枝神社のある辺り)に新築移転し(②-p.40)、第2次小学校令後、明治33年大柏村にあった3校の小学校は1校(大柏尋常小学校)のみと定められたが、新校舎ができるまでは柏井・大野・大町の旧校舎を仮教場として存続することになる(①-p.24)。 新校舎建築の目途が立った明治36年に大町校は仮教場から分教場とする認可が出る(①-p.25)。 昭和24年に大柏村が市川市に合併された後、大柏小学校柏井分校は昭和27年に廃止、大町分校は昭和39年に廃止になる(②-p.41)。 この頃の住宅地図(S36年)を見ると、日枝神社の隣に大柏小学校大町分校の記載が確認できた。 現在ある大町小学校については、『校歌は生きている』(市川市教育委員会 1987)p.197より、大柏地域に住宅が建つようになり、大町に市営住宅が建設されてからは大柏小学校の子どもの数が増えたため急ぎ昭和48年4月に開校したこと、開校時に校舎の建築が終わらなかったため、初年度の1年間大柏小学校に同居したことが分かる。 『教育調査 昭和48年度』(市川市教育委員会 1974)p.27-28の学校一覧を見ると、大町小学校は大柏小学校の住所と同じだが校長は異なっている。 昭和49年度から現在の大町84-10に移転している。

いちごを市川に初めて持ち込んだ後藤弥五右衛門(後藤シンノスケ)について、小学校の副読本『わたしたちの市川』(市川市教育委員会)に記載があると思う。何年版か確認したい。(市川市中央図書館)

2018年8月18日
中央図書館所蔵の『わたしたちの市川』のうち、1969年版、1972~1987年版の巻末年表「市川市のうつりかわり」に「明治35 市川新田の後藤弥五右衛門がいちごをつくりはじめた。」と記載あり。1988以降の年表には記載なし。本文では1969年版1972年版に「なしのつぎに、むかしから多くつくられているものに、イチゴがあり、菅野、須和田、新田、国分などでおもにつくられています。」とのみ書かれている。

千葉県袖ケ浦市の地名「滝ノ口」が現在の「滝の口」に変わったのはいつごろか。(千葉県立中央図書館)

2018年8月18日
以下のような調査をしましたが、具体的にいつ滝の口に変更されたのか記述のある資料は見つけられませんでした。 (1)『千葉県報』の昭和48年1月~昭和60年12月を調査しました。当時の滝の口を含む袖ケ浦町地域の名称や区域が変わった旨の件名31件を確認しましたが、「滝の口」及び「滝ノ口」は記載されていませんでした。 件名の例:「市の区域内の町の地域及び名称の変更(袖ケ浦町)」 「町の区域内の町の区域及び名称の変更(袖ケ浦町)」 「町の区域内に新たに字の地域を画した旨の届出(袖ケ浦町)」 「町の区域内の字の区域の変更(袖ケ浦町)」 (2)市史や町史などから調査しました。 『上総国町村誌 上巻』(小沢治郎左衛門著 名著出版 1978)(「上総町邨誌」(明治22年刊)の復刻) p262「瀧口(タキノクチ)村」 『袖ケ浦町史 通史編 下巻』(袖ケ浦町史執筆委員会編集 袖ケ浦町 1990)記載なし。 『袖ケ浦市史 自然・民俗編』(袖ケ浦市史編さん委員会編集 袖ケ浦市 1999) p278-279「富岡村の成立」表記は全て滝の口(たきのくち)で統一されている。 (3)地名の変遷がわかる資料から調査しました。 (ア)『千葉県町村合併史』 明治22年、昭和30年、昭和46年の合併について記載があり、どちらも「滝ノ口」と表記されています。 『千葉県町村合併史 上巻』(千葉県地方課編著 大和学芸図書 1979) p395「富岡村」「(中略)滝ノ口の諸村も一団として、(中略)明治22年に及んだ」 『千葉県町村合併史 下巻』(千葉県地方課編著 大和学芸図書 1979) p686「平川町」「昭和三十年二月十一日、平川村と中川村は合併して平川村を設置した。平川町は次いで同年三月三十一日、(中略)滝ノ口(中略)を編入した。」 『千葉県市町村合併史 続編』(千葉県地方課編集 千葉県市町村合併史刊行会 1980) p104「袖ケ浦町」「袖ケ浦町と平川町は、昭和四十六年十一月三日合併して袖ヶ浦町を設置した。袖ケ浦町は、昭和三十年三月三十一日、滝ノ口(中略)」 (イ)『千葉県地名変遷総覧』(千葉県立中央図書館編 千葉県立中央図書館 1970) p33「56 畔蒜」の項目内に「滝ノ口」あり。 昭和30年3月31日の富岡村から平川町へ変遷する時代の記述。 (4)継続して発行される地図から調査しました。 (ア)地形図 『2万5千分の1地形図 上総横田NI-54-19-16-4』(国土地理院[編] 国土地理院) 昭和62(1987)年修正測量(昭和63年発行)は滝ノ口、 平成4(1992)年修正測量(平成5年発行)は滝の口でした。 (イ)住宅地図 『ゼンリンの住宅地図 袖ケ浦町』(1981,1983年版は日本住宅地図出版、1984~1990年版はゼンリン)1981~1990年発行の住宅地図ではすべて「滝の口」でした。 回答プロセス:(1)『千葉県報』の目録を通覧し、告示のうち「名称の変更」「地域の変更」にかかる件名を探し、それをもとに県報原文の内容を確認した。事前調査事項の内容より、昭和57~59年を含む時期(昭和48年1月~昭和60年12月)を調査した。 (2)滝の口を含む地域の市史や町史を調査した。 (3)地名の変遷については、パスファインダー「千葉県の「地名」について 改訂」を参考に資料を探した。(http://www.library.pref.chiba.lg.jp/reference/pathfinder/pf_chiba_chimei.html) (4)地図類から調査した。当館で所蔵している地形図・住宅地図から昭和57~59年に近い時期を調査した。 事前調査事項:以下の調査により、昭和57~59(1982~1984)年ごろに名称変更があったと考えている。公益財団法人 国土地理協会の住所コードがこの頃始まったようだが、関連はわからない。 ・字の変更等を定めている例規では「滝ノ口」となっており、「滝の口」は見当たらない。 ・袖ケ浦市市民課の大字ごとの人口数調査票で、昭和57年11月分が「滝ノ口」であったものが、12月分に「滝の口」となっていた。 ・国土地理院で公表している地図等も「滝の口」になっている。 ・昭和45年(1970)発行の「平川町土地宝典」では「滝ノ口」表記 ・『角川日本地名大辞典 12 千葉県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1984)では p527の「たきのくち 滝の口〈袖ヶ浦町〉」の項目では「滝口・滝ノ口とも書いた」とあり、 「〔近世〕滝ノ口村 江戸期~明治22年の村名」 「〔近代〕滝の口 明治22年~現在の大字名。」 となっているが、p1357~の「本一覧は千葉県及び各自治体提供の資料によって作成した」という小字一覧では「滝ノ口」表記。 ・『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』(平凡社 1996)p964では項目として「滝口村(たきのくちむら」「現袖ケ浦市滝の口」とある ・「官報情報検索サービス」(https://search.npb.go.jp/kanpou/)を昭和22年から検索したが、見つからず。 ・『ゼンリンの住宅地図 [1983] 袖ケ浦町』(日本住宅地図出版 1983)では「滝の口」 ・『日本分県地図地名総覧』(人文社編集部編集 人文社 1963~2005)では、 1974~1983(昭和50年度~59年度版)は「滝ノ口」、1984(昭和60年度版)から現在は「滝の口」となっている。表記や注釈は特になし。

大賀ハスを発掘した大賀一郎博士が何人の人と発掘調査したのか知りたい。千葉市のホームページでは明記されていなかった。(千葉県立中央図書館)

2018年8月18日
以下の資料に発掘の経緯が詳しく記載されていました。 【資料1】『二千年の眠りから覚めて 大賀ハス開花五十周年記念誌』(花園ハス祭り実行委員会  2001)p3-5  「古代ハス発見の神秘  (前略)そして、昭和26年3月3日から1週間の予定で掘ることになったんだ。東大から25人、市立7中(花園中学校の前身)から、鈴木三郎校長先生を始め先生生徒40人、畑小学校と土木会社も手伝った。(中略)3月30日、明日が最後だという日の午後5時10分すぎ、西野真理子さんのふるいに一粒の蓮の実らしい物がかかった。」 【資料2】『大賀ハス』(千葉市立郷土博物館 1988)p9  「実際の発掘作業には、当時、印旛沼干拓工事を担当していた穂積組があたった。(中略)発掘された土をふるいにかけてハスの実を探す作業は、花園中、畑小の生徒が協力した。毎日人夫25名、生徒40名前後がこの作業に従事したのである。(後略)」 【資料3】「千五百年以上前の蓮の実 大賀博士 千葉検見川の草炭地で発見」(『読売新聞 (千葉版)』1951年4月1日 朝刊)p2  「(前略)去る三日から同町穂積建設近藤組の人夫廿名を動員、(中略)卅日午後作業に加わっていた市立七中生西野真理子さんが(中略)発見した。」 【資料4】「千葉で発掘の二千年前の蓮の実 蘇生の実験」(『読売新聞 (千葉版)』1951年5月2日 朝刊    「(前略)なお、今回の発掘には県と市で六万円の予算を出しのべ、1千人を動員、1ヶ月を要したが、(中略)穂積組千葉出張所長竹沢長七氏はこの三個の小さな実をさがすためにのべ四百人の労働力と(中略)費用を投じて援助した。また、この作業に応援参加した地元第七中学校と畑小学校の学童の努力は(中略)関係者一同をいたく感激させている。」 回答プロセス:1 自館の蔵書検索システムで全項目「大賀ハス」と「大賀蓮」で検索し、【資料1】【資料2】から発掘の様子が書かれた記述を見つける。 2 発掘当時の新聞記事にあたる。読売新聞データベース「ヨミダス歴史観」(https://database.yomiuri.co.jp/rekishikan/)の「千葉版」で「蓮」と検索し、【資料3】【資料4】の記事を見つける。 事前調査事項:「大賀ハス何でも情報館」(千葉市都市局公園緑地部中央・稲毛公園緑地事務所) http://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-inage/chibap06ogahasu.html 参考資料:【資料1】『二千年の眠りから覚めて 大賀ハス開花五十周年記念誌』(花園ハス祭り実行委員会 2001)(0200874792), 参考資料:【資料2】『大賀ハス』(千葉市立郷土博物館 1988)(9200297674), 参考資料:【資料3】『読売新聞 (千葉版)』1951年4月1日 朝刊 p2, 参考資料:【資料4】『読売新聞 (千葉版)』1951年5月2日 朝刊 *ページ数は不鮮明(原紙を所蔵していないため未確認),

甲府市天神町のお寺「法性山 玄法院」の歴史を知りたい。また、湯村山山頂にある金毘羅さんと、玄法院とのつながりはあるか。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
玄法院は甲府市天神町にある真言宗醍醐派の修験寺。本尊は不動明王。1192(建久3)年創立。 武田信虎が巨摩郡下黒沢村(高根町)から府中峰本(甲府市)に移し、信玄から山号と寺号を賜り1720(享保5)年、上府中久保町(甲府市)に移転して現在に至ったと伝わる。 1892(明治25)年に建てられた高さ約15メートルの鐘楼は、「玄法院の鐘」として市民に親しまれた。 2013(平成25)年甲府駅北口甲州夢小路に新造された「時の鐘」は、これを模して造られたもの。 湯村山城は、武田信虎が1523(大永3)年に甲府市の湯村山山頂に築いた山城。1533(天文2)年、玄法院の第八代住職が四国讃岐の金毘羅宮にお参りして、その分岐したものを湯村山城の守護神としたと言われる。 回答プロセス:1.『山梨百科事典』で調べる。「玄法院」「湯村山城」の項あり。 2.寺記を調べる。 『「甲斐国志」「寺記」所載寺院索引』の「修験」の項に、「玄宝院」(国3-471)、「玄法院」(寺4-879)あり。『甲斐国志』および『甲斐国社記・寺記』の該当箇所を確認。 3.インターネットで検索。キーワードは「湯村山」、「金毘羅」、「玄法院」。 湯村山の金毘羅宮の情報は、インターネットから得た。 参考資料:山梨日日新聞社/編集 , 山梨日日新聞社. 山梨百科事典 増補改訂版. 山梨日日新聞社, 1989. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004985704-00, (p.318,1029) 参考資料:秋山 敬/編 , 秋山‖敬. 『甲斐国志』『寺記』所載寺院索引(稿). 秋山 敬, 2004. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005560117-00, (p.150) 参考資料:山梨県立図書館. 甲斐国社記・寺記 第4巻. 山梨県立図書館, 1969. (山梨県史料 ; 12) http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001237170-00, (p.879-881) 参考資料:松平 定能/編 , 松平‖定能 , 佐藤‖八郎. 甲斐国志 第3巻. 雄山閣, 1982. (大日本地誌大系 ; 46) http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005732762-00, (p.471) 参考資料:笹本正治 編・著 , 笹本, 正治, 1951-. 山梨県の武田氏伝説. 山梨日日新聞出版局, 1996. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004300471-00, 4897106818(p.251,393) 参考資料:及川 武躬/編 , 及川‖武躬. 甲斐を訪ねて. 山梨県観光振興会, 1957. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005544945-00, (p.190) 備考:山梨観光わいわいねっと 山と川と土と人と「湯村山、湯村温泉ハイキング」(2009.10.02)http://www.yy-net.org/blog/02029/blog/archive/2009/10/021031095808.html 【2017.1.21確認】

清哲村(現韮崎市)生まれの加賀爪正光(鳳南)の経歴について知りたい。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
雑誌「山と渓谷」155号(1952(昭和27)年4月号)の「先人の面影11 加賀爪鳳南」(平賀文男著)によると、清哲村青木に生まれ住んでいた人で、文学、特に詩歌と俳句に関心があり、鳳南という雅号を持つ。清哲村を中心として登山趣味及び登山口の開発を趣旨として石仏会を起こし、青木鉱泉の主人などとも連絡して実行した。山梨県庁山林課景勝開発係から異動し東山梨地方事務所の兵事課長として在任中、1943(昭和18)年7月17日に逝去。行年41。 『峡中文人録』には1903(明治36)年6月30日清哲村生まれの「加賀爪正光」が掲載され、早稲田大学法科在籍。芙蓉詩社、サフラン社に関係し、青年詩社を興し雑誌「青年」を発行、目下峡北時報記者、との記述があり、『大正年代甲陽俳人名鑑』には「北巨摩郡清哲村(菖月改)加賀爪不朽」があり、「通称正光、鳳凰舎ト号ス 明治三十六年六月三十日生 職業農蠶ニ従事ス…大日本国民中学卒業後芙蓉詩社其他ニ関係セリ」との記述がみられる。 回答プロセス:1.『峡中文人録』(渋谷俊・大塚源一郎編 柳正堂書店 1923)に「加賀爪正光」がある。鳳南の号はなし。1903(明治36)年6月30日清哲村生まれ、略歴あり。 2.山梨県立図書館横断検索サービス(http://mets2.elib.gprime.jp/search_pref_yamanashi/basic_table.php)で「加賀爪鳳南」を検索すると、「webcatplus」「GoogleBooks」で情報あり。 「webcatplus」では、「山と溪谷」の記事情報があり、所蔵する該当号を見てみると、155号(山と渓谷社 1952)の「先人の面影11加賀爪鳳南」(平賀文男)に人物についてふれられている。1943(昭和18)年7月17日没。 「GoogleBooks」では『韮崎市誌』の一部が表示され、『韮崎市誌』に当たってみると、中巻(韮崎市 1978)に『大正年代甲陽俳人名鑑』を典拠とした「加賀美不朽」(通称正光)の記述がある。『峡中文人録』の「加賀美正光」と生年月日、村名同じ。また別に「加賀美鳳南」が名前のみ記載されていた。 3.『大正年代甲陽俳人名鑑』(山田弘道 1920)の「加賀爪不朽」の項を確認する。 4.「白鳳」創刊号(白鳳会 1933)には、加賀美鳳南の寄稿文はあるが履歴等なし。戦後刊行の「白鳳」や、「山梨県山岳連盟誌」にも該当する記述は見られなかった。 事前調査事項:質問の出典:『鳳凰山』(ハイキング社 1933) 参考資料:山と渓谷 山と渓谷社 1月号 新春スキー号〜4月号, (155号p.42-43) 参考資料:渋谷俊, 大塚源一郎 編 , 渋谷, 俊, 1888-1968 , 大塚, 源一郎. 峡中文人録. 柳正堂書店, 1923. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000586415-00, (p.41) 参考資料:山田 弘道/著 , 山田‖弘道. 大正年代甲陽俳人名鑑. 山田弘道, 1920. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005546173-00, (p.177) 参考資料:韮崎市誌編纂専門委員会 編 , 韮崎市誌編纂専門委員会. 韮崎市誌 中巻. 韮崎市, 1978. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I003740289-00, (p.691-693)

江戸時代、徽典館学頭となった石野市左衛門について、経歴などがわかる資料があるか。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
石野市左衛門については、「甲府御城付」巻8に、「高弐百俵御役料十人扶持」で、1857(安政4)年に教授方になったことが記されている。「甲府徽典館」には、1858(安政5)年の記述に続く箇所に名前がみられ、甲府勤番中の学者から学頭を命じられたことが記され、「教育資料人物部」には「石野市左衛門」の項目で数行あり、上記と類似する記述の他に、1868(明治元)年3月に先立ち江戸に行ったとある。『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻(東洋書林 1997)には市左衛門を父とする「石野□一郎」があり、1865(慶応元)年に甲府勤番になっている。詳細は参考資料をご覧ください。 回答プロセス:1.自館のOPACで「石野市左衛門」で検索するが該当資料なし。 2.『甲斐志料集成』第6巻教育・宗教編(歴史図書社 1981)で徽典館関連の史料を見る。 「甲府徽典館」に甲府勤番中の学者、徽典館学頭を命ぜられたことの記述。 「教育資料人物部」の「石野市左衛門」に甲府勤番士持高200俵、1853(嘉永6)年学問所頭取、1857(安政4)年学頭、1868(明治元)年3月に先立ち江戸へ行ったことなどが記される。 「甲府徽典館」「教育資料人物部」は『甲府市史』史料編4(甲府市役所 1987)にも収録あり。 3.『県指定史跡甲府城跡』下巻(山梨県 2005〔山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第222集〕)の「甲府城関連人名索引」から、史料「甲府御城付巻之八」の情報を得る。収録されている『甲府城総合調査報告書』(山梨県教育委員会 1969)で、高200俵御役料10人扶持、安政4年教授方の記載がある。(「甲府御城付」は『甲府市史』史料編2(甲府市役所 1987)にも収録あり。 4.『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻(東洋書林 1997)に、「石野□一郎」の父が市左衛門で徽典館学頭とある。 参考資料:甲斐志料集成刊行会/編 , 甲斐志料集成刊行会. 甲斐志料集成 第6巻 復刻版. 歴史図書社, 1981. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005732914-00, (p.151,204) 参考資料:甲府城総合学術調査団/編 , 甲府城総合学術調査団. 甲府城総合調査報告書. 山梨県教育委員会, 1969. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005733364-00, (p.255) 参考資料:甲府市市史編さん委員会/編 , 甲府市. 甲府市史 史料編 第4巻. 甲府市, 1987. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004980631-00, (p.273,313) 参考資料:甲府市市史編さん委員会/編 , 甲府市. 甲府市史 史料編 第2巻. 甲府市, 1987. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004980629-00, (p.340) 参考資料:小川恭一 編著 , 小川, 恭一, 1925-2007. 寛政譜以降旗本家百科事典 第1巻. 東洋書林, 1997. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002655625-00, 4887213034(p.252-253)

幕末の侠客津向文吉について、経歴、出身などわかる資料があったら知りたい。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
津向文吉(ツムギ・ブンキチ)は、1810(文化7)年生まれ、1883(明治16)年没。鴨狩津向村(現市川三郷町)出身の博徒。詳細は参考資料をご覧ください。 回答プロセス:1.山梨日日新聞データベースで「津向」「文吉」を掛け合わせて検索する。 1996(平成8)年1月15日付14面「山日YBSキャラバン 移動編集局 六郷町」に、ゆかりの人の一人として「津向の文吉」があり、顔写真、略歴が掲載されている。 2.インターネットで「津向文吉」で検索すると、山梨県立博物館発行資料の情報があった。『黒駒勝蔵対清水次郎長』(山梨県立博物館 2013)には、「津向文吉」の項がある。『博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質』(山梨県立博物館 2013)には、表1「「町村取調書」記載の博徒一覧」、図1「甲州博徒の分布」、「甲州博徒関連資料集」の「Ⅱ新聞類」と「Ⅳ墓地・位牌関係資料」に津向文吉に関するものがみられた。 3.前項の参考文献を探す。『新・日本侠客100選』(今川徳三著 秋田書店 1990)、『甲州侠客伝』(子母澤寛編 今川徳三著 人物往来社 1968)に「津向の文吉」の項があった。 4.国立国会図書館サーチで「津向 文吉」で検索すると、図書館送信資料の「人物往来歴史読本」12(8)(人物往来社 1967.8)の記事があった。確認すると、内容は『甲州侠客伝』に収録されているものだが、『甲州侠客伝』にない図版があった。 参考資料:山梨県立博物館 編. 黒駒勝蔵対清水次郎長 : 時代を動かしたアウトローたち. 山梨県立博物館, 2013. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024685636-00, (p.6,18) 参考資料:山梨県立博物館 編 , 山梨県立博物館. 博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質. 山梨県立博物館, 2013. (山梨県立博物館調査・研究報告 ; 6) http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024684994-00, (p.4-5,45,71-72) 参考資料:今川徳三 著 , 今川, 徳三, 1919-. 新・日本侠客100選. 秋田書店, 1990. (新100選シリーズ) http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002049936-00, 4253004032(p.143-146) 参考資料:今川徳蔵 著 , 子母沢寛 編 , 今川, 徳三, 1919- , 子母沢, 寛, 1892-1968. 甲州侠客伝. 人物往来社, 1968. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001108823-00, (p.65-102) 備考:・「山梨日日新聞」1996(平成8)年1月15日付14面「山日YBSキャラバン 移動編集局 六郷町」内「ゆかりの人」 ・国立国会図書館デジタルコレクション「人物往来歴史読本」12(8)人物往来社 1967年8月号(永続的識別子info:ndljp/pid/2366692)230-243p

山梨県立博物館図録『富士山 信仰と芸術』に、武田信虎が富士山に登っているという記載があると聞いたが、確認したい。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
『富士山 信仰と芸術』(「富士山-信仰と芸術-」展実行委員会 2015)(p208)に『勝山記』についての記載があり、「大永二年に信虎が、富士山の火口を一周する「お鉢巡り」をしたという記述がある」との一文があった。 また、p116に『勝山記』の表紙等の写真がある。 『勝山記』(勝山村史編さん委員会編 勝山村 1992)を確認したところ、p85-86に、該当部分の本文の写真と読み下し文がある。 回答プロセス:・『富士山 信仰と芸術』を見る。 p208に、「「お鉢巡り」をしたという記述がある」との一文と、『勝山記』についての記載があり。また、『勝山記』の表紙等の写真あり。 ・『勝山記』を自館システムで検索し、現物を確認すると、該当部分の本文の写真と読み下し文あり。 参考資料:「富士山−信仰と芸術−」展実行委員会/編集 , 「富士山ー信仰と芸術ー」展実行委員会. 富士山 : 信仰と芸術. 「富士山−信仰と芸術−」展実行委員会, 2015. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069635581-00, (p.116,208) 参考資料:勝山村史編さん委員会/編 , 勝山村史編さん委員会. 勝山記 : 勝山村史別冊. 勝山村, 1992. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005793807-00, (p.85,86)

明治時代、陸軍による甲府城払い下げ時に山梨県の財政的境遇を救った、旧甲府市柳町三丁目「上野屋 松村甚蔵」氏について記された資料があるか。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
村松甚蔵(1869(明治元)年~1945(昭和20)年)は柳町の砂糖問屋上野屋当主。1910(明治43)年南塘文庫設立。1917(大正6)年甲府城払下げにあたり、山梨県に1万1622円を指定寄付した。1919(大正8)年県会議員、1927(昭和2)年衆議院議員。 詳細は参考資料をご覧ください。 回答プロセス:1.データベース「山梨日日新聞縮刷版検索」で「松村甚蔵」で検索するが該当なし。キーワードを「甲府城 上野屋」で検索してみたところ、2000(平成12)年3月3日21面「連載 城下町こうふ点描 上甚さん私財投じて”歴史”守る」がヒット。当主名が「村松甚蔵」で生没年、1917(大正6)年の甲府城払下げや1910(明治43)年の南塘文庫設立について記述あり。 2.『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で「村松甚蔵」を引くと項目があった。1919(大正8)年県会議員、1927(昭和2)年衆議院議員。 3.『山梨県議会史』第3巻(山梨県議会 1974)の「歴代山梨県議会議員略歴 三 自大正元年至大正一五年」に「村松甚蔵」掲載。顔写真や履歴があった。 4.『山梨本のある風景‐個人文庫と稀覯本探訪‐』(植松光弘著 山梨ふるさと文庫 1989)を見ると「盛況だった私設図書館‐南塘文庫(甲府市)」がある。 5.『甲州古今人物辞書』(川手秀一編 山梨協会本部 1935)に「村松甚蔵」で経歴、写真がそれぞれ掲載。 6.『山梨人事興信録』には、第1版(甲府興信所 1918)、第2版(甲府興信所 1928)、第3集(甲府興信所 1940)に掲載があった。 7.蔵書検索で「ハライサゲ」で検索すると、『甲斐』119号(山梨郷土研究会 2009)に「甲府城払下げ問題落着一件」(秋山敬)があった。論文中の「四 連隊誘致と払下げの実現」に、寄付について若干触れている箇所があった。 参考資料:山梨日日新聞社/編集 , 山梨日日新聞社. 山梨百科事典 増補改訂版. 山梨日日新聞社, 1989. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004985704-00, (p.918-919) 参考資料:山梨県議会. 山梨県議会史 第3巻. 山梨県議会, 1974. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001204752-00, (p.1268) 参考資料:植松 光宏/著 , 植松‖光宏. 山梨・本のある風景 : 個人文庫と稀覯探訪. 山梨ふるさと文庫, 1989. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005759940-00, (p.21-23) 参考資料:川手秀一 編 , 川手秀一. 甲州古今人物辞書. 山梨協会本部, 1935. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I003886062-00, (p.83、写真p.52) 参考資料:甲府興信所. 山梨人事興信録. 甲府興信所, 1918. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000535676-00, (p.414) 参考資料:甲府興信所 編 , 甲府興信所. 山梨人事興信録 第2版. 甲府興信所, 1928. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000618459-00, (p.756-757) 参考資料:甲府興信所 編 , 甲府興信所. 山梨人事興信録 第3輯 第3版. 甲府興信所, 1940. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000652086-00, (p.968-969) 参考資料:甲斐 山梨郷土研究会 第119号 磯貝正義先生追悼, (p.124-126)

1734(享保19)年に起こった甲府城御金蔵破り事件の概要や、犯人の高畑村次郎兵衛について記された資料を知りたい。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
甲府城御金蔵破りは、1734(享保19)年12月24日、甲府城内の現金1400両が盗まれた事件。 甲府勤番支配2名が処分されたほか、当番の勤番士らも職務怠慢や虚偽報告、賭博などの罪によって処罰された。 9年後の1742(寛保2)年に高畑村百姓次郎兵衛が犯人として逮捕され、磔刑となった。 事件の概要など詳細は参考資料をご覧ください。 回答プロセス:1.『甲府市史』通史編2巻近世(甲府市役所 1992)の第1章第5節3「御金蔵破りと綱紀粛正」に事件の概要や甲府勤番士の処罰、次郎兵衛についての記述がある。『甲府市史』史料編4巻近世3(甲府市役所 1987)には、第8章第1節「甲府城御金蔵破り」があり、事件関連の資料4点掲載(史料392~395)。そのうち史料394、395は次郎兵衛や周囲の者の供述・陳述。 『甲府城物語-武田氏天目山に滅びず』(斎藤芳弘著 テレビ山梨 1973)には「ご金蔵破り」の項で記載があった。 2.国立国会図書館サーチ(http://iss.ndl.go.jp/)で「御金蔵 甲府」で検索したところ、『甲斐史学』第13号「甲府城御金蔵の由来(上条馨)」の情報を得る。『甲斐史学』と併せて上条(條)馨の著作を見たところ、『甲州風物誌・続』(上條馨著 柳正堂書店 1961)に「甲府城御金蔵」がある。 3.オンラインデータベース「山梨日日新聞縮刷版検索」で「御金蔵」で検索したところ、2005(平成17)年11月15日5面に『中近世甲斐の社会と文化』(飯田文彌編 岩田書院 2005)発刊の記事があり、甲府城御金蔵破り事件の実録本「甲金録」に関する論文があることがわかる。そのほか、1999(平成11)年8月27日18面・9月3日18面に「連載・城下町こうふ点描御金蔵」上・下の記事を確認。 『中近世甲斐の社会と文化』で、掲載論文は「実録『甲金録』翻刻と解題(石川博)」。論文中の「解題」に『甲府市史』が関連図書として見られる。 4.『山梨県史』通史編4近世2(山梨県 2007)の索引「金蔵破り」から該当箇所を見ていくと、関連資料名に『甲府市史』、「甲金録」(p601)と「兜嵓雑記」(p613-614)があった。 5.『甲斐叢書』第2巻(第一書房 1974)で「兜嵓雑記」を見たところ、「於御城内御金紛失之事」の項目があった。 参考資料:甲府市市史編さん委員会/編 , 甲府市. 甲府市史 通史編 第2巻. 甲府市, 1992. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004980625-00, (p.241-254) 参考資料:甲府市市史編さん委員会/編 , 甲府市. 甲府市史 史料編 第4巻. 甲府市, 1987. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004980631-00, (p.93-128) 参考資料:斎藤芳弘 著 , 斎藤, 芳弘, 1926-. 甲府城物語・武田氏天目山に滅びず. テレビ山梨, 1973. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001213693-00, (p.92-109) 参考資料:甲斐史学会/編 , 甲斐史学会. 甲斐史学 第2巻 復刻. 国書刊行会, 1982. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005545658-00, (13号 p.55-57) 参考資料:上条 馨/著 , 上条‖馨. 甲州風物誌 続. 柳正堂出版, 1961. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005566904-00, (p.104-115) 参考資料:飯田文彌 編 , 飯田, 文弥, 1928-. 中近世甲斐の社会と文化. 岩田書院, 2005. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007962030-00, 4872943872(p.411-455) 参考資料:甲斐叢書刊行会 編. 甲斐叢書 第2巻. 第一書房, 1974. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001455286-00, (p.231-240) 備考:「山梨日日新聞」1999(平成11)年8月27日18面「連載・城下町こうふ点描」4御金蔵(上) 「山梨日日新聞」1999(平成11)年9月3日18面「連載・城下町こうふ点描」5御金蔵(下)

山梨の人は固い桃を好んで食べるのか。(山梨県立図書館)

2018年8月17日
県産品として出荷する際には、市場に出た時に一番おいしい時期を考慮して早めに収穫するため、地元の人は固い桃を食べて育ったせいではないかと想像されている。 詳細は参考資料をご覧ください。 回答プロセス:・所蔵資料を見る。 『山梨あるある』(TOGO著 TOブックス 2015) 小さい時から固い桃しか食べたことがないので、やわらかい桃はくさりかけだという認識があるとの記述。 『山梨原人』(渡邊允規編 原人舎 2011) 固めの桃を皮ごと丸かじりするとの記述。 『ももの栽培』(山梨県果樹園芸会 1977) 「果実の成熟の段階は、成熟初期(硬熟期)、適熟期、完熟期の3段階に分けられる。成熟初期は弾力がなく硬い状態。甘みが少なく、酸味が抜け始める。数日たつと、適熟期となり、糖分が急激に上昇、弾力が出て、果汁が出る。完熟期は果実は大きくなり、果汁も多く風味も強い。外部からの圧力に耐えられないほどの柔らかさになり、皮も容易に剥けるようになる。市場への遠近を考慮して収穫期を決める。」との記述。 参考資料:THOGO 著 , 上重さゆり 画 , THOGO, 1976- , 上重, さゆり. 山梨あるある. TOブックス, 2015. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I026005092-00, 9784864723398(p.60) 参考資料:渡邊 允規/編. 山梨原人 : 山ばっかりだけど山梨大好きだぁ!山梨のイイトコ集めました. 原人舎, 2011. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I040767128-00, (p.7) 参考資料:山梨県果樹担当普及員研究会/編 , 山梨県果樹担当普及員研究会. ももの栽培. 山梨県果樹園芸会, 1977. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005546393-00, (p.169-173)

緒方八重が大坂の緒方洪庵のところへ行った道筋(西宮市立中央図書館)

2018年8月17日
生瀬から安倉、昆陽、伊丹、神埼という順に通ったと思われる。 回答プロセス: 西岡まさこの小説『緒方洪庵の妻』では「安倉を過ぎ姥ヶ茶屋で道は二つに分かれる(中略)百起は昆陽への道をとった。」とあるところから西国街道を通ったと考えられる。しかし小説では証明にならないので、近世から近代にかけての街道を確認する。  『西宮市史』第2巻P144からの記述によると、「摂津国絵図」では西国街道が「池田、小浜を経て生瀬に達し・・・」とあるので、八重はその道を逆に生瀬から小浜、安倉を経て昆陽から神崎川に出たと思われる。 参考資料:緒方洪庵の妻西岡まさ子/著河出書房新社, (P9) 参考資料:西宮市史第2巻/西宮市編集発行, (P143)

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