レファレンス協同データベース新着事例

愛媛県立図書館所蔵の桑折宗臣の文宝日記を、閲覧・複写(撮影)することはできるか。また、翻刻資料はあるか。(愛媛県立図書館)

当館には伊予史談会の寄託資料「伊予史談会文庫」があり、「伊予史談会文庫 コ30 桑折宗臣日記」の上巻に「文宝日記1、2」、下巻に「文宝日記3」が収録されている。 来館時に4階えひめ資料室カウンターにて「伊予史談会文庫 コ30-1~2」を請求すれば閲覧可能。 複写(もしくは撮影)には伊予史談会会長の許可が必要。 翻刻資料については、次の資料がある。 【資料1】のまえがきに次のように記載あり。 「(抜粋)原本は喪失し、昭和の初期に伊予史談会において筆写されたとみられる3巻のみが残っている。(略)翻刻は伊予史談会蔵の写本に従った」 事前調査事項:『文宝日記を読む 宇和島藩城代家老桑折宗臣の日々』(篠崎充男/編著 愛媛県文化振興財団 1992年) 参考資料:【資料1】『文宝日記 宗臣と嵐夕』(篠崎 充男/編著 愛媛文学叢書刊行会 1990年)<当館請求記号:K289-コム-1990>, 備考:桑折宗臣(1634-1686)は歌人・俳人。宇和島藩初代藩主伊達秀宗の四男。7歳の時母とともに桑折家に入り、城代家老桑折家15世宗頼の嗣子となる。著作は多く、宇和島藩内の俳人を集めた『宇和島百人一首』、伊予特に宇和島に力点を置いた全国的な発句集『大海集』などがある。寛文4年および延宝8年閏8月から翌年4月まで(一部欠)の日記『文宝日記』も伝えられている。

松山市南江戸にある朝日八幡神社について、何か資料があるか。(愛媛県立図書館)

朝日八幡神社について、【資料1】~【資料6】に記載があるが、いずれも量的にはあまり多くない。 『愛媛県百科大事典』や『愛媛県の地名』に「社史によると」や「社伝によると」という記載があるので、神社に伝わる記録があるものと思われる。 事前調査事項:愛媛県管内神社、明治神社誌料、愛媛県の地名、予陽郡郷俚諺集、伊予温故録、温泉郡誌 参考資料:【資料1】『神社に関する調査3 松山市・温泉郡』(愛媛県 1936年)<当館請求記号:K175-1-3>p12, 参考資料:【資料2】『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁 1974年)<当館請求記号:RK175-41>p309-310, 参考資料:【資料3】『朝美今昔』(近藤哲夫/著・発行 1978年)<当館請求記号:K293.1-52>p14-15, 参考資料:【資料4】愛媛県行政資料(明治期・藩政期)M09社寺, (特別取扱資料のため複写は写真撮影のみ。) 参考資料:【資料5】『松山百点』Vol.285(松山百店会 2012年)p25-27“松山八社八幡めぐり”, (朝日八幡神社のみの記事ではない。) 参考資料:【資料6】伊予史談会蔵書「伊予誌材雑集」(イ・2・29), (「朝日八幡神社由緒」(神社の印刷物)が綴じ込まれている。)

明治元年(慶応4年)~明治2年の戊辰戦争に関する郷土資料を調査しているが、資料があるか。(愛媛県立図書館)

【資料1】のp765-776の「戊辰戦争と諸藩の出兵」に、伊予八藩の出兵状況等が記載されている。 内容は、愛媛県生涯学習センターのウェブページで電子版が公開されている。 http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/63/view/7997 【資料2】は、藩ごとに編年になっており、目次で大方の内容がつかめる。 「大洲藩へ戊辰戦争出兵の慰労金下賜(明治2.6)大洲藩御触書」といった記載がある。 ウェブ公開はされていないが、都立中央図書館、国会図書館等に所蔵がある。 【資料3】のp45-107、「四国各藩の動向と選択 伊予」に、伊予八藩の動向が記載されている。 単行本で、都立中央図書館、国会図書館などに所蔵がある。 【資料4】に「宇和島・仙台伊達家戊辰戦争関連史料その一・その他一」と副タイトルがある。 続刊中で、都立中央図書館、国会図書館などに所蔵がある。 【資料5】p388-389 越後出兵(従軍者氏名:仏心寺蔵 記載あり) 【資料6】「小松藩と北越出兵」森川正美著 【資料7】「小松藩の参勤交代及び北越出兵発船地並びに池原利三郎役名考」鴨重元著 【資料8】「小松藩北越従軍記と主な諸藩の戦況」眞鍋達夫著 【資料9】p274-276 近代 明治維新と大洲藩(戊申奥羽の役従軍者名簿記載あり) 他に『西条市誌』、『吉田町誌』、『宇和島市誌』、『松山市誌』を見たが、記載はなかった。 参考資料:【資料1】『愛媛県史 近世上』(愛媛県 1986年)<当館請求記号:K200-31>, 参考資料:【資料2】『愛媛県史 資料編 幕末維新』(愛媛県 1987年)<当館請求記号:K200-31>, 参考資料:【資料3】『戊辰戦争を振り返る 幕末維新・四国各藩の動向と選択』(山崎善啓/著 高知新聞総合印刷(発売) 2013年), 参考資料:【資料4】『伊達宗城公御日記』(近藤俊文・水野浩一/編纂 宇和島伊達文化保存会/監修 創泉堂出版 2017年), 参考資料:【資料5】『小松町誌』(小松町 1992年), 参考資料:【資料6】『小松史談』114号、115号・116号, 参考資料:【資料7】『小松史談』112号, 参考資料:【資料8】『東予史談』13号, 参考資料:【資料9】『大洲市誌』増補改訂版(大洲市誌編纂会 1996年), 備考:戊辰戦争は、1868年(慶応4・明治元、戊辰の年)から翌年まで行われた新政府軍と旧幕府側との戦いの総称。鳥羽・伏見の戦、彰義隊の戦(上野戦争)、長岡藩・会津藩との戦争、箱館戦争などを含む。

元大毎オリオンズの大西洋一投手(南宇和高校卒)の球種、フォーム、特徴を知りたい。1959年6~7月頃の愛媛県の地方新聞に載っている学校紹介や、地方予選の記事から調べてほしい。(愛媛県立図書館)

愛媛新聞 昭和34年7月1日第5面 見出し:夏の36ナイン 愛媛高校野球① 南宇和高 光る大西の快速球 攻守まとまりAクラス 抜粋:県下で屈指の速球投手大西が健在である。大西は幅はあまりないが、1メートル75の恵まれた体格と柔軟さをもち体を二つにおって投げ込むオーバーハンドからの速球はすごみがある。アウトローにコントロールされた日には直球一本で十分Aクラスチームの打線も料理できる力を持っている。最近シュートもききだしているがまだ打者がたつと死球になるのがこわくて思いきれないそうだ。(略)ときおりみせるカーブは甘い。敗戦はこれをねらわれてのものが多いだけに欲をみせずストレート一本で力投することが大西の一番いい道のようだ。 ※大西投手の写真あり 愛媛新聞 昭和34年7月23日第5面 見出し:南宇和 上浮穴に圧勝 抜粋:南宇和大西投手は期待どおり重い速球をビシビシきめ、4回山下にかわるまで10個の三振を奪い上浮穴をよせつけなかった。 愛媛新聞 昭和34年7月24日第5面 見出し:宇和は南宇和零破 抜粋:試合は戦前の予想どおり南宇和大西、宇和河野両投手の好投で緊迫した経過をたどった。宇和打線は南宇和大西投手の速球を積極的に振り切ったバッティングで攻めた。 備考:大毎オリオンズは、過去に存在した野球の球団、千葉ロッテマリーンズの前身の一つ。

早稲田大学教授・安部磯雄が1926年3月19日に愛媛県下で行った講演について、地元の新聞に関連記事の掲載はあるか。(愛媛県立図書館)

「海南新聞」(「愛媛新聞」の前身)に次の記事がある。 大正15年3月20日(土) ※題字の下部には「3月19日夕刊」とある 見出し「早大の安部磯雄氏ら 十八日宇和島へ」 大正15年3月24日(水) ※題字の下部には「3月23日夕刊」とある 見出し「安部教授来る 講演会は今晩県公会堂で」「政治問題懇談会 明日道後で」 事前調査事項:大日方純夫「社会民主党党首安部磯雄の活動」(『早稲田大学史紀要』1992年)p79、86 備考:安部磯雄は、日本の社会主義者。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。

伯方町北浦出身の赤瀬林造の経歴や活動、地元に残っているものについて知りたい。(愛媛県立図書館)

【資料1】から抜粋 明治4年3月1日、北浦寺坂の赤瀬音三郎の二男として生まれる。 寺子屋で修学の後、岡山県笠岡市沖の北木島へ「かしき」(石材採掘見習)として出稼ぎにいった。 27才で北木島において小丁場を経営、その後赤瀬金七所有の石丁場を購入するなど、事業を拡大していった。 第一次世界大戦をはさんだ未曾有の好景気に、林造は建築用石材の新分野を開拓し、石船三隻を新造する等販路を開拓する等、大正時代には事業は大発展を続けた。 この間、氏は郷土出身の石工を助け、共に北木の石材産業の発展に努力した。 明治41年には北木島石材採掘業組合長に選出され、昭和4年までの22年間指導者となって、日本一の北木石材産業の基礎を築いた。 林造は郷土も忘れることなく、大正8年には北浦に家屋を新築し、田畑を相次いで購入し、西伯方島においても、地盤を築いていった。 昭和4年西伯方村議会議員当選、西伯方保免委員にも当選しており、大正元年から昭和22年まで、西伯方村の行政面においても力を発揮した。 昭和9年頃より、石材関係の事業から製塩業へと転身を図り、伯方島においても、製塩業を広げる。 また、北浦村だけでなく、伯方島、大三島、大島等の寺院や神社に多大な寄進をするなど、篤信家でもあった。 大正10年代、北浦尋常高等小学校の高等科在学生に対して、北浦出身者だけでなく、100名を下らない生徒の授業料を負担した。 他に【資料2】から【資料5】を調査したが、掲載はなかった。 参考資料:【資料1】『伯方町誌』(伯方町誌編纂会 1988年)<当館請求記号:K292.2-34>p1426-1428 第7編人物 8 実業家赤瀬林造, 参考資料:【資料2】『創立九十周年記念誌』(伯方町立北浦小学校 1968年)<当館請求記号:ムラK376.28-ソウ>, 参考資料:【資料3】『越智郡郷土人物伝 明治百年記念』(越智郡校長会 1968序)<当館請求記号:K282-9>, 参考資料:【資料4】『越智郡郷土人物小伝』(愛媛県教育会越智部会 1935年)<当館請求記号:K282-10>, 参考資料:【資料5】『伯方島誌』(伯方町立北浦小学校 1967年)<当館請求記号:K292.2-15>,

戦国大名河野通直(村上通直)と将軍足利義輝との交流を示すような史料はあるか。(愛媛県立図書館)

【資料1】によると、河野通直(幼名牛福丸)は、生年不詳~天正15年(1587)とあり、永禄11年(1568)または永禄12年(1569)に元服したとある。 【資料2】によると、足利義輝は、天文5年(1536)~永禄8年(1565)とあるので、交流は難しいと思われる。 交流があったことについて、出典等があれば再調査が可能である。 参考資料:【資料1】『愛媛県史 人物編』(愛媛県 1989年)<当館請求記号:K200-31>, 参考資料:【資料2】『国史大辞典 1 あ~い』(吉川弘文館 1979年)<当館請求記号:カケ210-コク1), 備考:足利義輝は、室町幕府第13代将軍(在職1546-1565)。

石手川ダムの写真が載っている本、また犬寄トンネルの中の写真が載っている本があるか。(愛媛県立図書館)

1 石手川ダムの写真が載っている本について 【資料1】に以下の写真が掲載されている。 ・ダム上流面(p11) ・ダム下流面(p11) ・ダム堤頂部(p11) ・石手川ダム管理支所(p14) ・本川貯砂ダム(p14-15) ・クレストゲート・下流より(p17) ・繁船場(p17) ・ホロージェットバルブ(p17) ・上空からの全景写真(p49) 2 犬寄トンネルの中の写真について 【資料2】に次の写真が掲載されている。 ・犬寄トンネル内から内子寄りの抗口を見る(p27) 参考資料:【資料1】『石手川ダム完成20周年記念誌 石手川ダムのあゆみ』(建設省四国地方建設局松山工事事務所 1993年)<当館請求記号:K517.72-イシ-1993>, 参考資料:【資料2】『四国・九州ライン全線・全駅・全配線 第2巻 四国西部エリア』(講談社 2013年)<当館請求記号:K686.2-カリ2-2013>, 備考:石手川ダムは、昭和48年築造。松山市の上水道・灌漑用水に利用され、洪水調節にも役立っている。 犬寄トンネルは、松山市から大洲経由で宇和島方面に通じる国道56号の伊予市と中山町にまたがる犬寄峠にあり、昭和44年開通。全長749メートル。

愛媛県立図書館所蔵の俳誌「星丘」に、俳人川本臥風についての記事、あるいは臥風が書いた記事があるか。愛媛県立図書館以外で「星丘」と「松山高等学校交友雑誌」19~21号を所蔵している施設はあるか。(愛媛県立図書館)

1 愛媛県立図書館所蔵の俳誌「星丘」に、俳人川本臥風についての記事、あるいは臥風が書いた記事があるか。 以下の記事が見つかった。 【資料1】創刊号:p2 俳句「木覆集」臥風の句5句 【資料2】第2号:p2 俳句「空穂集」臥風の句5句 【資料3】3巻3号:p21 俳句「新草集(校内同人)」臥風の句5句       p26~28 随筆「師の句を語る 臼田亜浪先生」川本臥風著       p40~49 句評『山彦』「松山より」京都支部の句を臥風他2名が句評            写真 松高俳句会卒業生送別記念 昭和10年2月11日       p59~65 随筆「卒業生の句について」久山白鳶著            p61に卒業生の句に関連して、川本臥風の人となりを表す文章あり。       p76 選後評 「星丘集」の選者としての選後評 【資料4】3巻5号:p14 俳句「新樹集」臥風の句5句 【資料5】3巻7号:p25 俳句「文月集」臥風の句5句       p39~41 対談集「談話室」第5回 校内俳句会の様子 【資料6】4巻7号:p1~7 随筆「滞欧日記抄」(四)川本臥風著       p29 俳句「翡翠集」臥風の句5句 2 愛媛県立図書館以外で「星丘」と「松山高等学校交友雑誌」19~21号を所蔵している施設はあるか。 当館の横断検索システムで県内公共図書館の所蔵状況を確認したが、いずれも未所蔵であった。旧制松山高校は愛媛大学の前身であるので、そちらに問い合わせしてみてはどうか。 参考資料:【資料1】「星丘」創刊号(松高俳句会 1933年)<当館請求記号:ヤマK91-54-1>, 参考資料:【資料2】「星丘」第2号(松高俳句会 1933年)<当館請求記号:ヤマK91-54-2>, 参考資料:【資料3】「星丘」3巻3号(松高俳句会 1935年)<当館請求記号:ヤマK91-54-3>, 参考資料:【資料4】「星丘」3巻5号(松高俳句会 1935年)<当館請求記号:ヤマK91-54-4>, 参考資料:【資料5】「星丘」3巻7号(松高俳句会 1935年)<当館請求記号:ヤマK91-54-5>, 参考資料:【資料6】「星丘」4巻7号(松高俳句会 1936年)<当館請求記号:ヤマK91-54-6>, 照会先:愛媛大学図書館 〒790-8577 愛媛県松山市道後樋又10番13号 電話 089-927-9000 http://www.lib.ehime-u.ac.jp/ 備考:川本臥風(1899-1982)は、教育者・俳人。岡山県生まれ。大正12年、松山高等学校教授、昭和24年愛媛大学教授。松高に着任後、松高俳句会を興し、機関誌『星丘』を発行。

1903年頃の「伊予日日新聞」は所蔵しているか。(愛媛県立図書館)

1903年(明治36年)頃の「伊予日日新聞」は所蔵していない。 当館所蔵分は、以下のとおりである。 「伊予日日新聞」(松山 伊予日日新聞社 日刊) 所蔵:明治41年5月26日,明治42年4月7日,明治43年10月19日,大正2年2月4日,大正7年1月30日,大正8年10月16日,11月6日,11月7日,大正12年5月9日 所蔵:大正7年8月14日~8月18日    (特別資料扱い 請求記号:伊予史談会文庫イ-156) 所蔵:明治40年9月26日,明治45年3月3日,大正2年6月17日,大正4年8月12日,11月2日,大正5年3月8日,3月9日,3月11日,3月13日~15日,5月8日,11月21日    (特別資料扱い 請求記号:宮内家文書37-16) 所蔵:大正元年12月10日号外,12月30日号外,大正2年1月21日号外,2月5日号外,2月9日号外,2月10日号外,2月20日号外    (特別資料扱い 請求記号:宮内家文書37-17) なお、上記の所蔵状況は当館ホームページで見ることができる。 https://www.ehimetosyokan.jp/contents/siryo/sinbun/mokuroku/a-o.htm 備考:伊予日日新聞は、松山市の日刊紙。明治35年創刊、昭和2年廃刊。県内の日刊紙が政党色を帯びている時代、不偏不党を社是とした。

戦国大名河野通宣と将軍足利義輝との交流を示すような史料があるか。(愛媛県立図書館)

【資料1】の中に、以下のとおり記載がある。 p373-374 永禄4年3月23日 将軍義輝、毛利・尼子両氏の講和につき河野通宣・村上元吉らに斡旋させる、〔諸家文書纂〕巻7 河野文書 p377-378 永禄4年11月5日 義輝、京都の騒乱中に安泰の旨を通宣に伝える、〔諸家文書纂〕巻7 河野文書 p381 永禄5年5月11日 通宣、戦乱のため石清水八幡に逃れた将軍義輝に慰問の使を送る、〔諸家文書纂〕巻7 河野文書 p397 永禄8年5月26日 梅仙軒霊超、将軍義輝の死を河野通宣に報ずる、〔諸家文書纂〕巻7 河野文書 出典である「諸家文書纂」は東京大学史料編纂所の所蔵資料目録データベースで検索すると、「10 写本4171.02-22諸家文書纂(東叡山文庫本)彰考館文庫」と出てくる。以下のウェブページで検索可能。 http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller 【資料2】のp110に“河野氏と将軍および側近者との交渉”の項があり、「河野家文書 史料篇」(p135以降)の中に通宣と義輝の交渉に関わる文書が活字化されている。 参考資料:【資料1】『愛媛県編年史』第4(愛媛県 1967年)<当館請求記号:K201-9-4>, 参考資料:【資料2】『河野家文書』改訂3版(景浦勉/著 伊予史料集成 第3巻 1980年)<当館請求記号:K208-13-3>, 備考:河野通宣(生年不詳~1581)は、戦国時代の河野家の家督。 足利義輝は、室町幕府第13代将軍(在職1546-1565)。

『伊予不動記大系図』という資料について、ネット上の情報では「朝倉の『岡文書』と同じ」とあるが詳細が知りたい。また活字化されているのか知りたい。(愛媛県立図書館)

『伊予不動記大系図』について、当館所蔵のものは、伊予史談会が所有する写本11冊(昭和10年代の写本)である。 写本の元になった史料は明記されていない。 「朝倉の『岡文書』と同じ」の「岡文書」は、岡雄二郎氏が所有する古文書群で、伊予不動大系図巻74冊ほかを所蔵しているようである。 【資料1】p1715-1761に、「岡文書」の主な史料名と、岡家や朝倉付近の歴史に関係が深い事項を「伊予不動大系図」等の所蔵史料の中から抜粋し掲載している。 同資料p1716に、「この古文書は、今から二百年前から百年前の間に何代もの手を経てできたものと思われる。」とある。 岡文書は、平成13年3月6日に今治市(指定当時は越智郡朝倉村)の有形文化財に指定されている。 http://www.city.imabari.ehime.jp/bunka/bunkazai/asakura.html 岡文書の「伊予不動記大系図」と当館所蔵の伊予史談会「伊予不動記大系図」との関係は不明。 また、活字化の情報も不明。 参考資料:【資料1】『朝倉村誌』下巻(朝倉村誌編さん委員会 昭和61年),

愛媛県周桑郡小松町(現・西条市)で憑き物が見られた例があったとインターネットで見つけたが、愛媛県の憑き物についての事件や事例が知りたい(愛媛県立図書館)

【資料1】の「第五章 信仰(上) 第三節 民間信仰 ニ 憑きもの・妖怪伝承 1 憑きもの伝承」(p812-825)に愛媛県内における憑き物の伝承の概略がまとめられている。小松町の事例は記されていない。愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」で該当箇所をウェブ上で見ることができる。 http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/49/view/6555 【資料2】の「民俗編 第三章 民話」(p1566-1586)には憑き物の事例の記載なし。 【資料3】には、「周桑郡小松町では鼠のようなもので、家人には見えるが他人には見えぬ、常に家族の数と一致しており、家族が増せば犬神も増す。嫁が行けば一匹ついて行ってたちまち実家の場合と同数になる。犬神のいる家は永久に犬神で消えることはない。家人が物欲しいと思えばただちに犬神が出て行って憑く。しかし犬神はすこぶる不従順で、時としては逆に家人を噛み殺すことがあるといっている(郷土研究一の二)。」(p59)とある。この「郷土研究一の二」とは、【資料1】の「付録 愛媛県民俗学関係文献目録稿」によると、「犬神に就いて 愛媛県小松町青年会 郷土研究1-2 郷土研究社 1913」のことである。 【資料4】の「Ⅳ 信仰伝承 第3章 民間信仰の実態 2 憑きもの伝承」(p220-227)に宇和郡の山犬、エンコ・カワウソ、狸・蛇、夜雀について記されている。なお、この資料は国立国会図書館デジタルコレクションに収録されており、「図書館送信参加館」で見ることができる。 ・国立国会図書館デジタルコレクションの書誌情報<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9543943> ・図書館送信参加館一覧<http://dl.ndl.go.jp/ja/soshin_librarylist.html> 以下、県内の市町村史で関連する記述があったものを挙げる。 【資料5】の「民俗編 第二章 精神生活・芸能行事などの伝承 第一節 信仰」に、「四、祟り神信仰、憑きもの伝承」(p1028-1036)があり、動物の憑きもの(山犬、エンコ・カワウソ、狸・狐、夜雀、蛇)、憑き神様(山の神サマ、柴おり様、ヒダル神様)について書かれている。 【資料6】の「第七編 民俗 第三章 俗言・俚諺・風習」の「一 俗信」の「その他」の項に、「4 犬神使い、蛇使いの家というのがある」(p649)とだけ記されている。 【資料7】の「第四編 分野別 第八章 宗教」に「憑き物」「憑き神」(p769-771)の項があり、「憑き物」では山犬、エンコ・カワソ(カワウソ)、狸・狐・蛇、ノツゴ、ノガマ、海坊主について、「憑き神」ではオシオリサマ・柴折様、ジキトリ・ガキボトケについて書かれている。 【資料8】の「第七編 民俗 第二章 人の一生」の「第二節 婚姻」に「かつての婚姻といえば、家族、血統、家格がやかましく、それも二代も四代も前ころまでさかのぼって問題にされた。その上、あの家は犬神とか娘の年まわりが悪いとかいって、今では信じられないような迷信や慣習が婚姻の傷害になっていた。」(p1063)と書かれている。 【資料9】の「第五編 民俗 第五章 人生儀礼・民間信仰」の「第五節 民間信仰」に「なお祈祷・弓づけなどによって、いきりょう(生霊)やしりょう(死霊)その他のつきもののたたりを取り除いていた。特にいぬがみ(犬神)すじがあって、そのすじの家の人は、とりつきものといって、それとなく一般の人から敬遠されて、結婚にも問題にされていたと伝えられる。いぬがみよけには、軒下へ油揚げを置くと家の中へ入らないといい伝えられていた。」(p588)とある。 【資料10】の「第六編 民俗 第五章 人の一生 第二節 婚姻」の「婚姻の習俗」に、「また人権問題と思われるが血統とか、憑きものなども取り上げられた。」(p1372)と記されている。 【資料11】の「第七編 民俗 第一章 河辺村の風俗」の「婚礼に石碑 夜泣きのまじない」の項に、「結婚については、犬すじ・蛇すじ・らいすじ・肺病すじというふうに迷信によるものや、悪い病気の血筋をきらう風習があった。」(p555-556)と記されている。 【資料12】の「第五編 民俗・文化遺産・宗教 第一章 民俗 第五節 民話」(p1184)に、「上山地区の女の人」の狐つきの話が掲載されている。 【資料13】の「第七編 民俗・文化 第五章 民話と伝説 第一節 民話」に「二十七 犬につかれた娘(松之浜)」(p982-984)が掲載されている。 【資料14】の「第六篇 民俗・文化 第六章 民間信仰」に「五、憑物信仰」(p1259)があり、「難病・奇病・原因不明の病気等は動植物が人間に取りついて困らせているのだという考えから、修験者や巫女さん達によって加持祈祷を受け信仰に入る人もいた。また餓鬼仏が取りついたとかヒダル神がついたとかの俗信があり、それを払うための信仰も行われた。」と記されている。 【資料15】の「第六編 文化 第二章 信仰・芸能 第一章 各種の信仰-俗信」に「つきもの(憑もの)」の項(p1219)があるが、具体的な事例は記されていない。 【資料16】の「第七編 民俗 第五章 人生儀礼と民間信仰 第三節 民間療法とまじない」に「3 加持祈祷」の項があり、「生霊や死霊・動物霊などのつきもののたたりを加持祈祷により取り除いた。」(p803)とある。 【資料17】の「第七編 民俗 第六章 民話と伝説 ニ 妖怪変化の話」に「犬神・狐つき・狸つき・蛇つき、人間の生霊・死霊」の項があり、「昔からこれらのものにとりつかれたという例話が数かぎりなくある。まず憑かれた者はにわかに病人になり、形相・声色まで一変して、憑いたものそっくりの声色、語り口、動作をし、食べものの嗜好まで変わる。狐つき、狸つきはその獣の毛が寝床に落ちているという。昔、高市の神主が蛇に憑かれ、徳利をくわえて往還を這い回ったといわれている。もちろん手足は全く使わず、ずび足だつということである。これらの憑きもの落としは御祈祷によってなされた。」とある。(p1046-1047) 【資料18】の「第九編 民俗 第二章 信仰・芸能 第二節 俗信」に「つきもの」の項(p1306)があるが、一般的な記述にとどまっている。 【資料19】の「第九編 民俗 第三章 民間信仰」に夜雀、山犬、ジキトリ、エンコ・カワソについて書かれている(p876-877) 【資料20】の「第六編 民俗・文化 第六章 伝承と俗信 第一節 伝説」の「三 その他の伝説」に「山犬 山犬は、普通の犬とほとんど変わりないが、変った毛が耳まではえており、暗やみで目が光る。また山犬は狼様の使いであり、願いごとは狼様に頼むと叶えてもらえるという。しかしその人が死んだときには、山犬がその死体をとりに来るという。」(p736)とある。山姥、エンコについても書かれている。 その他に、【資料21】~【資料23】の資料が見つかった。 参考資料:【資料1】『愛媛県史 民俗 上』(愛媛県史編さん委員会/編集 愛媛県 1983年)<当館請求記号:K200-31>, 参考資料:【資料2】『小松町誌』(小松町 1992年)<当館請求記号:K291.7-16>, 参考資料:【資料3】『日本の憑きもの』(石塚尊俊/著 未来社 1977年)<当館請求記号:147.3-イタ-1977>, 参考資料:【資料4】『宇和地帯の民俗』(和歌森太郎/編 吉川弘文館 1974年)<当館請求記号:K382-2>, 参考資料:【資料5】『一本松町史』(一本松町 1979年)<当館請求記号:K295.3-5>, 参考資料:【資料6】『伊予市誌』(伊予市 2005年)<当館請求記号:K293.2-イヨ-2005>, 参考資料:【資料7】『内海村史 新訂』(内海村 2004年)<当館請求記号:K295.3-ウチ-2004>, 参考資料:【資料8】『宇和町誌』(宇和町 1976年)<当館請求記号:K294.5-10>, 参考資料:【資料9】『大洲市誌 上巻 増補改訂』(大洲市誌編纂会 1996年)<当館請求記号:K294.1-6-1カイ>, 参考資料:【資料10】『川内町新誌』(川内町 1992年)<当館請求記号:K293.4-19>, 参考資料:【資料11】『新刊河辺村誌』(河辺村 2005年)<当館請求記号:K294.2-シン-2005>, 参考資料:【資料12】『新宮村誌 歴史・行政編』(新宮村 1998年)<当館請求記号:K291.3-12>, 参考資料:【資料13】『瀬戸町誌』(瀬戸町 1986年)<当館請求記号:K294.4-9>, 参考資料:【資料14】『中山町誌』(中山町 1996年)<当館請求記号:K293.6-4カイ>, 参考資料:【資料15】『伯方町誌』(伯方町誌編纂会 1988年)<当館請求記号:k292.2-34>, 参考資料:【資料16】『新編肱川町誌』(肱川町 2003年)<当館請求記号:K294.2-ヒジ-2003>, 参考資料:【資料17】『広田村誌』(広田村役場 1986年)<当館請求記号:K293.6-11>, 参考資料:【資料18】『広見町誌』(広見町 1985年)<当館請求記号:K295.1-15>, 参考資料:【資料19】『三間町誌』(三間町 1994年)<当館請求記号:K295.1-5-カイ>, 参考資料:【資料20】『柳谷村誌』(柳谷村 1984年)<当館請求記号:K293.5-11>, 参考資料:【資料21】「伊予の妖怪変化1御霊神仰2憑きもの・妖怪伝承」(佐々木正興/著)『伊予の民俗 第47号』(伊予民俗の会 1990年10月)<当館請求記号:K380-3-47>, 参考資料:【資料22】「憑きもの」(河野正文/著)『文化愛媛 第11号(第5巻第1号)』(愛媛県文化振興財団 1986年3月), 参考資料:【資料23】「犬神論考 筋の消滅と女性の人権確立」(宮本春樹/著)『よど 第12号』(よど編集委員会 西南四国歴史文化研究会 2011年4月),

昭和20年6月12日~6月末の愛媛の地方紙で「國華隊」という特攻隊を扱った記事はあるか(愛媛県立図書館)

「愛媛新聞」(愛媛新聞社)を調査したところ、次の2件の記事があった。 6月13日第1面 見出し:振武國華隊全機突入す 概要:突入についての記事で、人数や時間は○○が多用されている。 6月15日第2面 見出し:國華隊は征けり 老婆に「お母さん」大きい奴をやっつけます 概要:出撃の日の様子と、祖国にとどめた隊員の言葉がある。「鉢巻締め笑って出撃する振武特攻隊」という見出しの写真も一緒に掲載されているが、國華隊かどうかは不明。

佐竹藩(秋田)から宇和島藩9代目藩主伊達宗徳に嫁いだ佳姫について、『伊達宗城公傳』『伊達宗紀公傳』『伊達村寿公傳』に記述があるか、その他に関連資料があるか(愛媛県立図書館)

『伊達宗城公傳』『伊達宗紀公傳』『伊達村寿公傳』を調査したが、佳姫についての記述はなかった。 関連資料としては、以下のものがあった。 【資料1】の冒頭の解説に「六、伊達家の系譜と略歴(三)」があり、その中に「○夫人佳子 出羽久保田佐竹義厚の女。天保八年三月十八日、江戸に生れ、明治元年六月二日、宇和島で死去。年三十二。龍華山等覚寺に葬る。法名温徳院殿性海妙湛大姉。」とある(p8)。 【資料2】の「調度」の章に佳姫の婚礼調度品が掲載されており、資料解説も付されている。佳姫自体については、簡単な記述がある。 【資料3】に、佳姫が文久三年の八月十五夜の月を詠んだ和歌の短冊(宇和島市立伊達博物館蔵)の紹介がある。 【資料4】はコラム「文久三年の十五夜」に、【資料3】と同じ和歌を中心に佳姫についての記述がある。 【資料5】は「第十四章 「四賢候」の一人伊達宗城と姫君たち」に佳子(佳姫)についての記述がある。婚礼についての記述のほか、アーネスト・サトウが対面した佳子の印象が『一外交官の見た明治維新』に基づき記されている。※ただし、原典と原書には佳子と明記した記述が無く「ハレム(伊達家の奥を指すと思われる)の女性たち」や「人妻」「侍女」という記され方で、佳子と断定はできないとのこと(宇和島市立伊達博物館学芸員のご教示)。 その他 宇和島市立伊達博物館によると、宇和島藩における佳姫についての記録の大半は『稿本 藍山公記』という資料にあり、佳姫が宗徳の再婚相手に内定した記述から、明治元年に臨終を迎えるまでの様子がうかがえるとのこと。『稿本 藍山公記』は伊達宗城に関わる記録を抜粋して翻刻したもので、その大半の原本は『大扣』という資料になる。『稿本 藍山公記』は部分的にしか翻刻・刊行されていない。『稿本 藍山公記』『大扣』はともに伊達文化保存会が所蔵している。 事前調査事項:『藩史大事典 第6巻 中国四国編』p538-552(雄山閣)、『秋田人名大事典』(秋田魁新報社)、『新編佐竹氏系図』p90(加賀谷書店)、『佐竹氏を支えた女たち』p112-113(秋田歴史を楽しむ会)、『佳姫婚礼記録』(秋田県立図書館蔵)、「佳姫の婚礼 1~15」(「愛媛県立歴史文化博物館学芸員ブログ」より) 参考資料:【資料1】『家中由緒書 下』(近代史文庫宇和島研究会/編集 近代史文庫宇和島研究会 1980年)<当館請求記号:K252-18>, 参考資料:【資料2】『宇和島伊達家伝来品図録』(宇和島市立伊達博物館 2007年)<当館請求記号:K708.7-ウワ-2007>, 参考資料:【資料3】「武家のくらしと風習 ~宇和島伊達家にみるくらしの調度と武家の年中行事」(志後野迫希世/著)『文化愛媛』№66(愛媛県文化振興財団 2011年3月)p52-54, 参考資料:【資料4】『宇和島藩 シリーズ藩物語』(宇神幸男/著 現代書館 2011年)<当館請求記号:K252-ウユ-2011>, 参考資料:【資料5】『幕末三百藩古写真で見る最後の姫君たち』(『歴史読本』編集部/編 KADOKAWA 2016年)<当館請求記号:281.04-バク-2016>, 備考:伊達宗徳は、宇和島藩第9代藩主(1830~1905)。第7代藩主宗紀の三男として生まれ、1837年、第8代藩主宗城の世子となる。

旧西宇和郡にある「神越」「須川村」の由来が菅原道真にちなむ伝説の出典が知りたい(愛媛県立図書館)

【資料1】の「須川村」の項に、「地名は、菅原道真が九州左遷の際、当地に立ち寄ったことからこの名がついたという(喜須来村郷土誌)が、実際は喜木川支流にちなむ名称であろう」(p373)とある。 『喜須来村郷土誌』は、当館所蔵なし。八幡浜市立図書館の蔵書検索によると、『郷土誌』(【資料2】)の書名で八幡浜市立保内図書館に所蔵されていることがわかった。 【資料3】の「第6編 民俗文化 第3章 民話」に「8 須川・神越の地名の由来」があり、菅原道真が通ったことが由来であると書かれているが、出典が明記されていない(p501)。 【資料4】には、神越・須川村の地名の由来についての記述はなかった。 参考資料:【資料1】『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1981年)<当館請求記号:RK290-55>, 参考資料:【資料2】『郷土誌』(鎌田安重/編 愛媛県西宇和郡喜須来村 1912年)<八幡浜市立保内図書館請求記号:Y291-カ 資料コード510213218>, 参考資料:【資料3】『保内町誌』(保内町誌編集委員会/編集 保内町 1973年)<当館請求記号:K294.4-1>, 参考資料:【資料4】『保内町誌 改訂版』(保内町誌編纂委員会/編集 保内町 1999年)<当館請求記号:K294.4-ホナ-1999>, 照会先:八幡浜市立保内図書館 〒796-0202愛媛県八幡浜市保内町宮内1-118 電話0894-36-3050 http://www.city.yawatahama.ehime.jp/tosyokan/ 備考:須川村は現・保内町須川。保内町は佐田岬半島の基部を占める農漁業の町。

江戸~昭和初期の松山での裁縫事情(特にゆびぬき)について書かれた資料はあるか(愛媛県立図書館)

【資料1】の「第3章 まちかどの職人芸 第1節 くらしを支える技 1 装いをつくる (1)和装へのこだわり①」に、当時64歳~75歳の3人の和裁とともに生きてきた女性の聞き書きが掲載されている(p271-277)。「写真3-1-1 和裁の用具類」にゆびぬきも写っているが、非常に小さい。この資料はデータベース「えひめの記憶」(愛媛県生涯学習センター)で閲覧可能。 http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/7/view/1363 【資料2】から【資料9】を調査したが、ゆびぬきなど裁縫道具についての記述はなかった。 道後温泉ちかくの売店で売られていたとのことであり、道後商店街振興組合で当時ゆびぬきを取り扱っていた店や仕入先(製作者)の手がかりが得られるかもしれない。 事前調査事項:戦後のゆびぬきについて「骨董ファンvol.3」「暮しの手帖44」「私の部屋№47」などに記載があるが、四国のものではなかった。 参考資料:【資料1】『愛媛の技と匠 昭和を生き抜いた人々が語る』(愛媛県生涯学習センター 1998年)<当館請求記号:K602-97>, 参考資料:【資料2】『伊豫織物の沿革[複写資料]』(伊豫織物同業組合/[編] 〔愛媛県立図書館〕〔2006〕年)<当館請求記号:K586.72-イヨ-2006> ※1936年・伊豫織物同業組合刊を電子複写・ファイル綴りした資料, 参考資料:【資料3】『ときめくファッション 小町娘からモダンガールまで,平成18年度企画展』(愛媛県歴史文化博物館 2006年)<当館請求記号:K383.1-エヒ-2006>, 参考資料:【資料4】『四国の衣と食』(藤丸昭[ほか]/著 明玄書房 1974年)<当館請求記号:K383-2>, 参考資料:【資料5】『中国・四国地方の民具』(新藤久人/著作代表 明玄書房 1982年)<当館請求記号:K383-4>, 参考資料:【資料6】『昔日の風 民具等有形民俗文化財ガイドブック』(松山市教育委員会 2006年)<当館請求記号:K383.93-マツ-2006>, 参考資料:【資料7】『裁縫学習帳 尋常科』(温泉郡女教員会/編纂 愛媛県教育会温泉部会 1938年)<当館請求記号:ヤマT48-7>, 参考資料:【資料8】『速成裁縫独案内 嫁入稽道ゆき婦人の務』(裁縫専門学舎 1909年)<当館請求記号:ヤマT37-109>, 参考資料:【資料9】『裁縫独習書』(中野クマ子/著 中野村吉 1916年)<当館請求記号:ヤマK37-110>, 照会先:道後商店街振興組合 〒790-0842 愛媛県松山市道後湯之町15-23 電話089-931-5856 https://dogo-shoutengai.jp/ 照会先:愛媛県生涯学習センター 〒791-1136 愛媛県松山市上野町甲650 電話089-963-2111 http://www.i-manabi.jp/

宇和島市津島町岩松、旧市街の大野文六堂の南隣りにある宇和島自動車がかつて使用していたバスの営業所の建物はいつごろ使い始めたか、また実際に使われていたことの資料的裏付けはないか。(愛媛県立図書館)

【資料1】 「宇和島自動車株式会社 路線」    路線番号2 (起点)北宇和郡津島町大字岩松846 (終点)同上町大字岩淵一、304-2 (延長・粁)4.3 (開業年月日)大正13.12.2 【資料2】 大野文六堂の南隣りの区画は番号がふられておらず、その南隣の番地は847、848…と続いているため、質問の位置の可能性がある。ただし、建物についての記述はなし。 【資料3】 昭和初期には、上本町に停留所がある「宇和島自動車」と、下本町に停留所がある「三共バス」が競争したと有。 参考資料:【資料1】『愛媛県のバスとタクシーの歩み』(愛媛県旅客自動車協会 1963年)<当館請求記号:K685-1>, 参考資料:【資料2】『ゼンリン住宅地図 宇和島市 201603 No.2』(ゼンリン 2016年)<当館請求記号:RKM52-1-16-2>, 参考資料:【資料3】『津島町誌』(津島町 1975年)<当館請求記号:K295.1-8>, 備考:関連資料 「愛媛県南予地域におけるバス交通の発達」 藤目節夫・白石憲司/著 (愛媛の地理 第10号) 愛媛地理学会 1984(請求記号:K290-20-10) 『宇和島自動車労働組合50年史』 宇和島自動車労働組合 1997(請求記号:K366-107) 『津島町誌 改訂版』 津島町 2005 (請求記号:K295.1-ツシ-2005)

愛媛県の年度別の移民送り出し数がわかる資料が知りたい(特に中南米)。また、『愛媛県史』など県下の郷土誌で移民について書かれた資料を知りたい。(愛媛県立図書館)

(1)年度別の送り出し数が掲載された資料 【資料1】は明治41年度から昭和14年度までにブラジルに移民を志願した人数を調査したもの。 【資料2】のp31に「ペルー愛媛県人移住者控」があり、明治36年から大正10年までの移住者数の一覧表が掲載されている。 【資料3】のp596に「戦後の愛媛県海外移住者選出実績」があり、昭和28年度から34年7月までの年度ごとの移住家族戸数及び人数が記載されている。 【資料4・5】の名簿は移住先が明記されているが、個人に関する情報があるため、複写不可。 (2)県下の郷土誌で移民について触れている資料 ※市町村史は【資料4・5】に掲載されている移住者数が100人以上の自治体のみ調査した。 【資料6】~【資料17】の資料が見つかった。 参考資料:【資料1】『年度別市町村別愛媛県ブラジル移住者概数』昭和15年6月版(愛媛県海外移住組合 〔1940年〕)<当館請求記号:K334-1>, 参考資料:【資料2】『ペルー愛媛県人移住史』(佐々木仙一/著・発行 1990年)<当館請求記号:K334-20>, 参考資料:【資料3】『愛媛県史概説下』(愛媛県 1960年)<当館請求記号:K201-8-2>, 参考資料:【資料4】『海外移住者県人名簿』(愛媛県 1970年)<当館請求記号:K334-4>, 参考資料:【資料5】『海外移住者留守家族名簿』(愛媛県海外移住家族会 1966年1月)<当館請求記号:ムラK334.5-カイ>, 参考資料:【資料6】『愛媛県史 社会経済5』(愛媛県 昭和63年)<当館請求記号:K200-31> p443~625 愛媛の海外移住 ウェブ掲載あり。http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/47/contents, 参考資料:【資料7】『ブラジル愛媛県人100年の歩み 1908-2008』(ブラジル愛媛県人100年の歩み編集委員会/編 佐伯愛媛県人会 2008年)<当館請求記号:K334.5-ブラ-2008>, 参考資料:【資料8】『わがふるさとと愛媛学Ⅲ』愛媛学セミナー集録3(愛媛県生涯学習センター 1996年)<当館請求記号:K290-99-3> p95~98 打瀬文化80年の想い ウェブ掲載あり http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/22/contents, 参考資料:【資料9】『えひめ、昭和の街かど』(愛媛県生涯学習センター 2010年)<当館請求記号:K207.6-エヒ-2010> p139~141 ブラジル帰りのスタンド経営 ウェブ掲載あり http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/27/contents, 参考資料:【資料10】『アメリカの風が吹いた村 打瀬船物語』(村川庸子/著 愛媛県文化振興財団 1987年)<当館請求記号:K334-17>, 参考資料:【資料11】『八幡浜市誌』(八幡浜市誌編纂会/編 八幡浜市 1987年)<当館請求記号:K294.3-3-カイ> p252~258 アメリカ渡航, 参考資料:【資料12】『面河村誌』(面河村 1980年)<当館請求記号:K293.5-9> p182~201 太平洋戦争後の人口動態、海外移住の人々 ウェブ掲載あり http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/58/contents, 参考資料:【資料13】『美川村二十年史』(美川村 1975年)<当館請求記号:K293.5-7> p98~99 海外移住, 参考資料:【資料14】『久万町誌』増補改訂版(久万町誌編集委員会 1989年)<当館請求記号:K293.5-2-カイ> p381~385 海外移住 ウェブ掲載あり http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/55/view/13080, 参考資料:【資料15】『城川町誌』(城川町 1976年)<当館請求記号:K294.5-11> p273~275 海外移住, 参考資料:【資料16】『野村町誌』(野村町 1997年)<当館請求記号:K294.5-31> P705~719 海外移住, 参考資料:【資料17】『明浜町誌』(明浜町役場 1986年)<当館請求記号:K294.5-アケ-1986> p537~545 農業移民,

江戸末期の大洲藩と松山藩の藩境を示す地図及び資料はあるか。(愛媛県立図書館)

【資料1】付図 松山藩領地図-化政期(伊予史談会蔵)と【資料2】がある。 【資料2】は巻末の図版解説に次のように記載がある。 藩領図・支配図 1 松山領地図    文化文政年間(1804~30)    伊予史談会文庫(地図・絵地図35)  絵図の端裏には「松山領之図」とある。松山藩の軍学者野澤才次郎(象水)の旧蔵品である。  松山藩領があった温泉郡・和気郡・久米郡・野間郡・桑村郡・風早郡・周布郡・越智郡・伊予郡・浮穴郡を中心に、松山藩の幕府預かり地があった宇摩郡までが描かれている。また、隣接する大洲藩、今治藩、小松藩の所領の村々もあわせて描かれているが、西条藩領があった新居郡は郡名のみの記載で、宇和島藩領があった宇和郡は描いていない。  絵図の余白には、伊予各藩の石高をはじめ、松山藩領の郡ごとの石高、松山から諸国の主要都市との距離、土佐への道などの情報がまとめられている。川筋、主要街道、主要航路もしっかり描き込まれており、軍学者が作成するにふさわしい実務的な内容をもった絵図といえる。 (参考)国土交通省四国地方整備局のホームページの、「重信川水系河川整備計画 第2章 重信川水系河川整備計画について―四国地方整備局―国土交通省」p17に、『松山藩領地図―化政期(伊予史談会蔵)』が掲載されている。  http://www.skr.mlit.go.jp/matsuyam/river/seibikeikaku/files/soan/2_genjyo_kadai.pdf 【資料3】p29~32に、「現地学習 大洲・松山藩境をゆく」(大森 悟)という論文があり、p30に「大洲・松山藩境界線略図」が掲載されている。 参考資料:【資料1】『松山市史 第2巻 近世』(松山市史編集委員会/編集 松山市役所 1993年)<当館請求記号:K231-49-2>, 参考資料:【資料2】『伊予史談会所蔵絵図集成 伊予史談会創立百周年記念』(伊予史談会 2013年)<当館請求記号:K200-イヨ-2013>, 参考資料:【資料3】『伊予市の歴史文化 第8号』(伊予市歴史文化の会編集部/編 伊予市歴史文化の会 1983年)<当館請求記号:K232-3-8>,

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